磐戸別神社(いわとわけじんじゃ)は 白河の関山に鎮座します 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の旧鎮座地とも 三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云うと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
磐戸別神社(Iwatowake shrine)
【通称名(Common name)】
・関山磐止和氣神社(せきやまいわとわけじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
福島県白河市関辺丸沢
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》石山神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
伊波止和氣神社 由緒
白河郡二枚橋村 磐戸嶽 鎮座 古蹟探幽 奉上申候 関山ハ千有余年、佛山ト相成 神山、傳ヘハ幽名ニ候得共 白河郡 式内社 伊波止和氣神社鎮座ノ地ト愚考仕候ハ 抑々関山観世音ヨリ峯続キ辰巳、方十町余ニシテ鳥居一基在、額ニ音嶽大権現ト有之場所ヲ 伊波止和氣神社旧蹟ト 奉存候 本社ト唱エル地、谷ヲ隔テ 丑寅ニ向ヒ 磐累々タル霊地ニシテ 水源モ無。小滝登ル事一町余ニシテ 社跡ト思ワシキ平地アリ 今ハ社祠等廃シタルモ 毎年四月八日 郡民 幣帛ヲ奉リ参拝ス 是レ神ノ在ス判然シ 依テ 近村 古老、口碑を尋ルニ 関山ハ 旧名 石山ノ文字ナリ 鳥嶽、石山、音嶽三山、言フ 観世音堂ハ 嘉永年間焼亡ス 其ノ實ハ石山神シテ 社殿モ无キ前ニ神饗ヲ供セシ 天然ノ御供石ト言フ石有リ 伊勢度會ノ延経考證ニ 石山明神ニ並ヒテ 伊波止和氣神社在ニ 土鉾巻中ニ見エタリ 即 伊波止和氣神社ハ関山中、音嶽、奉存候 又 社郷トハ 旗宿村 白河神社 関山磐止和氣神社 三森髙木両界ノ 都々古和氣神社 右三鎮座ノ鼎郷ヲ以テ是名有ト 如斯奉上申候ニ付 明治八年 社寺境内外區別ノ節 境内地壹反廿歩ト御定被成下候
昭和四十八年三月十八日 白河市 磐戸別神社 宮司 薄井常布 織
奉納 平成七年四月吉日 還暦祝 矢内一男 矢内美代子
施工 石橋石材店現地石碑文より
【由 緒 (History)】
《上記の意訳文》
伊波止和氣神社(いわとわけじんじゃ)由緒(ゆいしょ)
白河郡 二枚橋村にある磐戸嶽に鎮座する古蹟(こせき)を探幽〈奥深くをのぞく〉ように奉上申候〈奉り申し上げます〉
関山は 千有余年、佛山ト相成神山〈仏教の山となっていた神の山です〉、
傳へは 幽名に候得共〈伝えには 奥深き名として知られておりました〉白河郡(しらかわのこおり)式内社の 伊波止和氣神社(いわとわけのかみのやしろ)の鎮座の地と 愚考仕候は〈推測しております〉
抑々(そもそも)関山観世音より峯続き 辰巳〈南東方向〉、方十町余〈1090m程〉にして 鳥居一基在〈鳥居が一基あります〉、額には音嶽大権現と有り この場所を 伊波止和氣神社の旧蹟と奉存候〈奉り存じております〉
本社と唱える地、谷を隔てて 丑寅〈北東方向〉に向いて 磐(いわ)累々たる霊地にして 水源も無し。小滝登る事 一町余〈109m程〉にして 社跡と思わしき平地あり 今は社祠等廃したるも 毎年四月八日 郡民〈郷里の人々〉は 幣帛を奉り参拝します これは神在す(神がいらっしゃいますこと)を判然し
依て(よって)近村の古老、口碑を尋るに〈近村の古老の言い伝えを聞くと〉
関山(せきやま)は 旧名を 石山(せきやま)の文字なり 鳥嶽、石山、音嶽三山、言う
観世音堂は 嘉永年間(1848~1854年)に焼亡す 其の實は 石山神にして 社殿も无(な)き 前に神饗(しんせん)を供せし 天然の御供石(ごくいし)と言う石が有り
伊勢の度會(いせのわたらい)の延経考證に 石山明神に並びて 伊波止和氣神社 在(ある)に 土鉾巻中に見えたり 即ち 伊波止和氣神社は 関山の中、音嶽に、奉存候(奉り鎮座いたします)
又 社郷(やしろのさと)とは
旗宿村白河神社(しらかわじんじゃ)〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉
関山磐止和氣神社(せきやまいわとわけじんじゃ)〈現 磐戸別神社(白河市関辺丸沢)〉
三森と髙木の両界にある 都々古和氣神社(つつこわけじんじゃ)〈現 都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の 右三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器のように〉の郷(さと)を以て 是名有如〈その名あるごとし〉斯奉上申候ニ付〈そのように奉り申し上げますに付きます〉
明治八年(1875)社寺境内外を区別の節 境内地を壹反廿歩〈320坪〉と御定被成下候〈お定めになられました〉
昭和四十八年(1973)三月十八日 白河市 磐戸別神社 宮司 薄井常布 織
奉納 平成七年四月吉日 還暦祝 矢内一男 矢内美代子
施工 石橋石材店
〈現地石碑文の意訳〉
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・磐戸別神社 奥院
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・放生池(ほうじょういけ・ほうじょうち)〈社殿のすぐ上にある〉
放生池
この池は私達が物の生命を食べ活かぎれている。この事に対する感謝の心と犠牲になった生命の極楽浄土への転生を祈リ、自分自身が知らず知らずのうちに犯した罪や汚れを反省し、怨念や祟りや障りを清めるために魚の生命を放すことにより、迷信の輪廻転生を断って大安楽の生活が出来るように祈願する池です。
関山満願寺
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
伊波止和氣天神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻十三 承和十年(八四三)九月庚寅〈五日〉
○九月丙戌朔庚寅
奉授に
陸奧國
從五位下 多久都神 正五位下
勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神
无位 玉造温泉神
无位 伊佐須美神 並に從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 伊波止和氣神社
[ふ り が な ](いはとわけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ihatawake no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社
・伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)
・白河神社(白河市旗宿関ノ森)
・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)
〈旧鎮座地とも云う〉
・都都古和氣神社(馬場)の奥宮 都々古別神社(表郷三森 都々古山)
《三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云う》
《参考》・石都々古和気神社(石川町)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR新白河駅からR289号を東南方向へ約9km 車20分程度
関山の東川の民家の間にある参道を上ります
鳥居と社殿が建ちます
磐戸別神社(白河市関辺丸沢)に参着
正面に石鳥居 その先に沢が流れていて 石橋が架かり 石段の先に社殿が建ちます
一礼をして 鳥居をくぐります
鳥居には゛磐戸別゛と刻字があります
拝殿にすすみます
拝殿には社号額が二つ懸かります
゛延喜式内 磐戸別神社゛
゛氏子一同 磐戸和氣神社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の横には 由緒が刻まれた石碑が建ち その奥の小高い所に石祠が祀られています
見上げて よく見ると 石碑には゛是處 磐戸別神社奥院゛と刻まれています
社殿の右手から上に上がれそうなので 回り込みます
社殿の上から 社殿の後ろには 出窓のようなものが取り付けられています
おそらく 位置関係からも その出窓のようなものを開けると この奥院が 本殿のようになっているものと思われます
それと 先程 社殿の中を覗き込むと その出窓のようなものが 祭壇になっていて 御神体の鏡が祀られていました
奥院にお参りをします
奥院から 参道を下ります
社殿の少し上に立札のようなものが見えたので 上ってみます
湿地帯があり゛放生池(ほうじょういけ)゛〈魚などを野や海などに放って命を救う法会〉でした やはり神仏習合していた関山らしく関山満願寺の持ちとなっていました
放生池から下を見ると
道を戻ってくると磐戸別神社を真横に出ます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 伊波止和氣神社について 續日本後紀に記される゛伊波止和氣(イハトワケノ)天神゛と記し 鎮座地は特定していません
【抜粋意訳】
伊波止和氣(イハトワケノ)神社
續日本後紀
承和十年 奉授 陸奧國 從五位下 多久都神 正五位下勳九等
伊波止和氣(イハトワケノ)天神 に從五位下を姓氏録
大伴宿祢云 雄略天皇御世 以入部靱負賜大連公 奏曰 衛門開闔之務 於職已重 若有一身難堪 望与愚児語 相伴奉衛左右 勅依奏 是大伴佐伯二氏 掌左右開闔之縁也續日本記
神護景雲三年(七六九)三月辛巳〈十三〉 黒川郡人外従六位下靭大伴部弟虫等八人 靭大伴連東鑑
文治五年(1189)七月小廿九日丁亥 越白河關給 關明神御奉幣 此間召景季 當時初秋候也
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊波止和氣神社について 棚倉馬場村に在す、今 近津大明神〈現 都都古和氣神社(馬場都々古別神社)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊波止和氣神社
伊波止和氣は 假字なり
〇祭神 手力雄命 頭注
〇棚倉馬場村に在す、今 近津大明神と称す、
例祭 月 日
参拝録に、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命、と云へるは何に據れるか通えがたし、誤りなるべし、類社
大和國 高市郡 天津石門別神社の條 見合すべし神位
續日本後紀、承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神 從五位下
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊波止和氣神社について「舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ」 つまり〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)〉から白河驛口白坂〈現 白坂宿の境の明神〉の事 もしくは旧街道の〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉に遷座し 両方に社を建てた と記しています
【抜粋意訳】
伊波止和氣(イハトワケノ)神社
舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ、蓋是なり、神名帳考証、陸奥國圖
〇按本書、關山神を伊波止和氣神とは云されども、御門神なるを以て 之を關門に祭りしものなる事著し、姑附て後考に備ふ、
天太玉命の子 天石戸別命 亦名 櫛石窓神を祭る、古事記、古語拾遺、延喜式、
光仁天皇 寶亀四年九月、神封二戸を充奉り、新抄格勅符
仁明天皇 承和十年九月庚寅 勳九等 伊波止和氣天神に 從五位下を授け、續日本後紀
後鳥羽天皇 文治五年七月丁亥、源頼朝 白河關を超て幣を關明神に奉りき、藤原泰衡を征伐を以て也、東鑑
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊波止和氣神社について 諸説を挙げています
田口村 戸隠神社〈現 伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)〉については「慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたる」が偽妄でとるに足りないと断言しています
白河郡二枚橋村 磐戸嶽に伊波止和氣神社〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)〉
石川郡石川村の八幡社〈現 石都々古和氣神社(石川町)〉
【抜粋意訳】
伊波止和氣神社
祭神
神位 仁明天皇 承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣天神 從五位下
祭日
社格所在
今按〈今考えるに〉
磐前縣注進状に 田口村 戸隠神社あり慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたるは 偽妄なれば 取るに足らず
又 按
福島縣注進に 白河郡二枚橋村 磐戸嶽に伊波止和氣神社あり 關山観音の峯続き辰巳の方十町に華表一基あり 音嶽大権現と云ふ 其の本社と唱ふる地は 谷を隔て 丑寅に向かひ磐石累々たり 又 登る事一町餘にして社跡と覚しき平地あり
古老の口碑に 關山は 鳥嶽石山音嶽なども云ひ 観音堂焼亡以前までは山王社 秋葉社 本堂の傍にありて 地主山王権現と云りとぞ
音嶽の音は巌の約めヲにしてトは止なり 石嶽はイハ又はイワヲにて 伊波止なり タケは和氣の誤りなるべし
観世音略記に關山神とある即是なりとある 關山神は由ありて聞ゆれど音嶽は いはとわけの転訛と云るは信じがたし磐前縣注進状に 石川郡石川村の八幡社の社地 高十三丈餘あり 近村数里間は石皆瑞奇にして 光明を含み 又 石英をも産す 名を石都八幡社と称す 是式社ならんと云るは二枚橋村の説よりは立勝りて聞ゆれば 石川村八幡を以て 式社とすべき歟 猶よく考べし
【原文参照】
磐戸別神社(白河市関辺丸沢)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)