八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を「像石(カタイシ)」として祀る神社が 能登国にはあります
- 5 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 6 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 7 能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
八千鉾神社(Yachihoko Shrine)
(やちほこじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
石川県羽咋郡志賀町町28-3乙
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大穴牟遅命(Onamuchi no mikoto)
《合》志那都比古神(Shinatsuhiko no kami)
志那都比米神(Shinatsuhime no kami)
表筒男命(Uwatsutsuwo no mikoto)
中筒男命(Nakatsutsuwo no mikoto)
底筒男命(Sokotsutsuwo no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建年代不詳
【由 緒 (History)】
由緒
神社創立の年代等は明らかではないが、大穴持像石神社とも称せられたという。
中古山崩れのため、その神宝を埋没したが、時の町の城主平式部が夢のお告げによってこれを掘り出し、産土大神として毎年幣帛を奉って崇敬の誠を捧げた。
明治の初期に至りて八千鉾神社と改称された。石川県神社庁公式HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j1155/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大穴持像石神社
[ふ り が な ](おほあなもちのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoanamochinokataishi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
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能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を「像石(カタイシ)」として祀る神社が 能登国にはあります
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります
①大穴持像石神社(羽咋市)
➁身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
➂八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
④天神神社(羽咋郡志賀町)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります
①・宿那彦神像石神社(中能登町)
➁・宿那彦神像石神社(七尾市)
➂・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
④・阿良加志比古神社(七尾市)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
羽咋駅から R249号経由 約16km 車25分程度
高浜町辺りで 海岸沿いに進み米町川を渡り 海岸近くに南向きに鎮座
すぐ脇の道の先には 日本海が見えています
社号標「村社 八千鉾神社」鳥居が建ち
八千鉾神社(Yachihoko Shrine)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 木々に囲まれた階段を上がり境内に進みます
境内は芝が刈りこまれていて綺麗です 狛犬が構える中をコンクリート製の広めの参道の先に社殿が建っています
拝殿にすすみます
賽銭箱がなく 扉を開けると 本殿が鎮座していました
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
変わった絵馬がありましたが 何の絵馬でしょうか 山車の絵馬でしょうか
社殿から境内を見ると 参道の先に鳥居 その先に道があって日本海に通じています
お詣りを済ませ 扉を閉じて 社殿〈覆屋〉に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
官社に列したと記されています
【意訳】
貞観2年(860)6月9日 戊子の条
能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)
宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条について 考察されています
【意訳】
大穴持像石(オホアナモチノカタイシノ)神社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す〇信友 按〈考えるに〉
能登郡に 宿那彦神像石神社(スクナヒコカタイシノカミノヤシロ)とある例えにて
大穴持神像石---神の字がない
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
所在について 不明だと記されています
【意訳】
大穴持像石神社
大穴持像石は 於保奈牟知加多伊志(オホナムチカタイシ)と訓ずべし
〇祭神 明らかなり
〇在所詳らかならず官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
他の論社は 10年程の間に改称などをしていて疑わしいと記しています
【意訳】
大穴持像石神社
祭神 大巳貴命
相殿 少彦名命官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す祭日 4月1日 9月30日
社格 村社 明細帳 縣社とあり(縣社)所在 一宮寺家村 (羽咋郡一ノ宮村大字 一宮寺家)
今 按〈考えるに〉
氣多神社 明応8年(1499)神社目録に30荷 在一宮 大穴持前犬か田と号
寄進と載ているのは この社地の辺なる田畑なりと云い
又
往古以来 氣多神社の摂社にて 氣多の旧神官より 宮司に補せらるる例えなり云い
今尚 神像石は 社前の道辺に存在し 方5尺許にて 偶不潔のことあれば 禍(マガ)を得る者が往々ありて 威霊を現したまい
又 この社を俗に オナヂの宮と称するも その由あれば この地なること疑いなし旧来 同郡 町村と梨谷小山の両社を像石神社として 互いに争論ありしかど
寛延2年(1749)社号帳に町村は 住吉大明神 小山村は三代大明神と記していたのを
寶暦10年(1760)の帳には 町村を大穴持社 天明後は 同所を八千鉾社とし 小山村を大穴持身代社と記せるなど 甚だ疑わしければとらず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
【意訳】
石川県能登国羽咋郡一ノ宮村 大字一宮 寺家(ジカ)
縣社 大穴持像石(オホアナモチカタイシノ)神社
祭神 大穴牟遅(オホナムチノ)命
相殿 少彦名(スクナヒコナノ)命本社は 神名帳に大穴持像石神社とある神社にして 同考証に「清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す」と見え
又 三代実録にも 右の由を記せり
同神は即ち 大巳貴神のことにして 何故に当所に創立せられしか その所以を明らかにせず能登国名勝志に 当社は一ノ宮の山頂にありと 即ち 一ノ宮は国幣中社 氣多神社の事にして 今も尚 当社は その摂社として その地に鎮座し 土民の崇敬極めて隆なり
始め当国の領主 畠山義元 明応8年12月24日 田地2910刈 畑4か所等を寄進し 且つ 本殿及び大門通路に至る営繕あり
その後 又 領主 前田家に於いて代々 氣多神社と同様 社殿 鳥居等の営繕ありし事 当社記録 及び明細帳に記せり而して 当社は 往古より 氣多神社 摂社にして大穴持像石神社と称し来たりが 明治6年 石川県に於いて 頂社と改称し 明治10年3月21日内務省より更に氣多神社摂社と確定せられ 社号も又 旧に復せり
建物は 社殿 拝殿 幣殿 神饌所あり
境内393坪を有し 参詣人 常に絶える事なし
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
八千鉾神社(Yachihoko Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)