都々智神社〈遥拝所〉(つつちじんじゃ)〈ようはいじょ〉は 里人が ここから〈本殿・ご神体〉を遥拝する所〈遥拝所〉なので 里宮と呼ばれます 潮の満ち引きに合わせて 海中に参道が現れて 参拝が出来るようにつくられている この海の参道は 都々智神社の〈本殿・ご神体〉が鎮座する 今里海岸の北西方向へと向いています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
都々智神社(Tsutsuchi Shrine)〈遥拝所〉
(つつちじんじゃ)〈ようはいじょ〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県対馬市美津島町尾崎737
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天狭手依比賣命(Ameno sadeyori hime no mikoto)
表筒男命(Uwatsutsuwo no mikoto)
中筒男命(Nakatsutsuwo no mikoto)
底筒男命(Sokotsutsuwo no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・不詳
【由 緒 (History)】
・不詳
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 都々智神社
[ふ り が な ](つつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsutsuchi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋下縣郡 都々智神社」には 3つの論社があります
・都々地神社(対馬 久根田舎)〈銀山上神社 境内摂社〉
・都々智神社(対馬 今里)
・都々智神社(対馬 尾崎)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
対馬空港から 県道24号を西へ 約18km 車30分程度
尾崎へ向かい漁港を過ぎて 終点まで進むと埋立地に公園があり その横です
かつては 海中の鳥居を抜けて 引き潮の時だけ 歩いて渡れたようです
現在は 右手の埋立地の公園の岸壁からコンクリート製の橋が架けられていて 常時参拝可能です
都々智神社〈遥拝所〉(Tsutsuchi Shrine)に参着
参拝時は 満ち潮で 本来の海中参道には 波が被っていて歩けませんでした
本来の海中参道の始まりは この位置です 目の前の海の中にあるコンクリート製の道です
岸壁から
拝殿にすすみます
岸壁側からは 当然ですが 鳥居がありません 一礼をして コンクリート製の橋を渡ります
小さな島ですが 名前は「大島」とあります
島の縁を歩きながら 鳥居の方へ進みます 波の中に 参道が見えています
島の鳥居をくぐり 社殿を横から眺めます
鳥居が建ち 拝殿 幣殿 本殿が建っていて 本殿は裏手の丘の中にうずまるように建っています
改めて一礼をして 鳥居をくぐります 鳥居の扁額には「都々智神社」と刻まれ 拝殿の扁額には「村社 都々智神社 岩佐寄進」とあります
拝殿内の畳は上げられています 鈴を鳴らし
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿から鳥居を見ると 両脇に砲弾があり そのすぐ先には海 その向こうに埋立地が見えています
島から 南東方向を見ると
北西方向を見ると 海中に鳥居が建ち 参道が延びています この先に 本宮の都々智神社(対馬 今里)が鎮座しています
橋を渡り 正面から拝殿を見ます 瓦屋根の隅棟の瓦が大きくなっていて 目の前の鳥居と相まって 鳥の翼のように見えたりします
一礼をして 岸壁を戻ります
山越えで 都々智神社(対馬 今里)を目指します
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承
対馬嶋の神々が 官社となったことを伝え
都都知神(ツツチノカミ)と記されています
【意訳】
承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条
對馬嶋(ツシマノシマ)の
和多都美御子神(ワタツミノミコノカミ)
波良波神(ハラハノカミ)
都都知神(ツツチノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)を並びに 官社(カンシャ)に 預(アズ)く
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社の所在は ・都々智神社(対馬 今里)としています
但し 玉勝間には 矢立山としているので 問いただして調べるべし と記しています
【意訳】
都都智神社
都々智は仮字なり
〇祭神 天狭手依比賣 古蹟集
〇与良郷 尾崎村の西に在す 今 郷崎明神 又は 津句智神と称す 古蹟集
玉勝間には 佐須郷 久禮村〈下縣にあった佐須村〉に在す 矢立神山と称すと云う
今は 古蹟集に従う尚 糾すべし〈問いただして調べるべし〉
官社 続日本後紀 承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条・・官社(カンシャ)に 預(アズ)く
古蹟集に 津々は 津句の誤りならんと云えり 當否をしらず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容
式内社の所在を 久根田舎村の矢立山とし 祭神も建禰己己命(タケミココノミコト)であると記しています
【意訳】
都々智神社
祭神
今 按〈考えるに〉
長崎県式内社記に祭神もとは 建禰己己命(タケミココノミコト)とあれども 国史に 徴(チョウ)する〈照らし合わせる〉に誤りなり 仍(ヨッ)て 建己侶命(タケコロミコ)に改正すとあるのは社撰なりとは 古事記に天菩比命 建比良鳥命 云々 等の祖なりとありて
次 天津日子根命者 云々 茨木国造云々 等の祖なり
又 国造本紀に 茨城国造の祖 建己侶命(タケコロミコ)云々とみえたる如く建己侶命(タケコロミコ)は 天津日子根命の御末なるを 天菩比命の後と思い誤りしよりの説なれば 従いがたし
又
国造本紀に 津島縣直(ツシマノアガタノアタヒ)を高魂尊(タカミムスヒノミコト)5世孫 建弥己己命(タケミココノミコト)とある 高魂尊は もしくは天菩比命ならんとも知るべからず 旧説に 建禰己己命(タケミココノミコト)とあるぞ正しかるべき故 今これに従う官社 仁明天皇 承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条・・官社(カンシャ)に 預(アズ)く
祭日 11月15日
社格 村社
所在 久根田舎村 字 都々智山〈下縣郡 久根田舎村 大社 矢立山〉
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』