椿岸神社(つばききしじんじゃ)は 昔は「七郷の総社」と呼ばれていて 七つの郷とは〔旧村の佐倉村(桜)・智積村・一色村・森村(菰野町神森)・赤津村(赤水・海老原村(上海老・下海老)・平尾村〕この七村の総氏神様という意味です 延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
椿岸神社(Tsubakikishi shrine)
【通称名(Common name)】
・七郷の惣社(しちごうのそうしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
三重県四日市市智積町684
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主神》天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
《配祀》猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
天照大御神(あまてらすおほみかみ)
《合祀》豊受大御神,天児屋根命,豊臣秀吉,素戔嗚尊,木花之開耶姫命,倉稲魂命,品陀和気命,市杵島姫命,八衢比古命,八衢比売命,大山祇命
〈明治四十三年(1910)に旧桜村内の総ての神社を合祀〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
椿岸神社(延喜式内社)
祭神 天之宇受女命
猿田彦大神
天照大御神当社は、もと、椿尾と称する奥地に在り、古くから里俗の尊信を集めていたが、享禄二年(一五二九年)兵火に罹って灰塵に帰した。時、恰も戦国乱離の様相日増しに濃く周辺の寺社や貴紳の別業にして戦火に遭うもの幾多、以て当地近隣にまで動乱の余波が及んでいたことを知る、これにより三〇余年を経る永禄三年(一五六〇年)奥七郷の氏子、新しく天照大神、八幡大神を勧請して、智積町御所垣内の地にこれが再建を完了し、それにより里人の崇敬いよいよ深し。言ふところの七郷とは智積を首邑とする佐倉、桜一色、森、赤水、海老原、平尾を指し、一御厨を成していた、爾来、世移り人改すること幾星霜、明治四十三年一村一社の方針に基づき、旧桜村内の神社を総てここに合祀した。
〈裏面〉昭和五十六年一月建立 宮司山本行隆
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
椿岸神社の由緒
御鎮座地
三重県四日市市智積684御祭神
天宇受売命 猿田彦大神 天照大御神創立の由来
伊勢の海がまだ智積の辺りまで入り込み、さざ波が立っていたほどの大昔、今の坊主尾と呼ばれている台地に我々の祖先が住みつき、生活を始めた。その頃、この土地を御守護される大神様を部落の中の清浄な所へお迎えし、お祀りしたのが椿岸神社の起源となった。その地名を今は字河内ヶ原かわちがはらの椿尾つばきおと言っている。
神社の沿革
鈴鹿山系に源を発する三滝川と矢合川が年々歳々土砂を運び次第に海岸線も遠のき、やがて日本が国家として成り立つ頃には、このあたりに多くの人が住むようになった。
古代のことは書物が残っていないため詳しいことは判っていないが、奈良の大安寺にある今から約1,250年前の天平20年の古文書には、椿社の田畑が未開墾も含めて60町有ったと記されている。
このように、広く土地が開かれ発展した桜の地には、商業も栄んとなり家並みが整い智積大寺も創建されてこの地方の文化的中心地となった。延喜の式制(約1,100年前)では国幣社が列せられるほど神威大いに輝いた。時は移って永禄2年(約450年前)、それまで椿尾にお祀りしていた神社が兵火にかかって社殿を消失してしまったのと村が東の方に遍して開け、神社が村のはづれの遠隔の地となり、お参りやお祭りに不便となっていた為に、七郷(桜、智積、一色、森、赤水、海老原、平尾)の氏子が合い寄って協議をした結果、村の中心の現社地に移すことになった。七つの村のそれぞれの清土を持ち寄って土盛りをし、樹木を植え神殿を御造営して大神様をお遷し申し上げた。
今の境内の土質が七郷となっているのはこの時のことに依っている。以来当社は七郷の総社と称され、七村の氏子の崇敬はますます篤いものとなった。
七郷の総社
椿岸神社を昔は「七郷の総社」と呼んでいました。七つの郷とは、旧村の佐倉村(桜)、智積村、一色村、森村(菰野町神森)、赤津村(赤水)、海老原村(上海老・下海老)、平尾村のことで、この七村の総氏神様が椿岸神社です。
椿岸神社公式HPより
http://www.keydo.jp/tsubakikishi/
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・向かって右脇に八幡の神・左脇に山の神
・拝殿
・椿岸稲荷神社
《主》倉稲魂神
加賀姫と椿岸稲荷神社
平安時代末、一一六五年頃、当地北部一帯(菰野、神森平尾、海老原)に、西園寺家(さいおんじけ)の御厨(みくり)が成立し、ほどなく多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)が創建されて「智積(ちしゃく)の御厨」とよばれるようになった。
時経て、鎌倉時代の末、婚姻の財産分与などで、智積御厨(ちしゃくみくり)の所有権は中御門家に移った。
中御門家は藤原の出で松木姓を名乗るが、戦国時代一五〇二年、当主宗綱の時、一家は戦乱を避けて当地に避難し、次代宗藤は一五四八年息女加賀姫を村の西方加賀屋敷に住まわせ、桜一色の家臣、町野清兵衛にその世話を依頼した。加賀姫は、その時三〇才位てあったという。
また加賀姫は、九十九才だったと伝えられ松木(まつのき)家帰京後も、一生をこの地で終えた。晩年、信仰する伏見稲椅を分祀(ぶんし)し、大門(現 桜公民館南)に幸田神社を建立したが、明治三十五年、昔を懐かしむ人々の声によりここに再建された。
姫自筆の棟札は、今も椿岸神社に保存されている。昭和まで残っていた字名(あざめい)、字矢形(あざやかた)は姫が住んだ屋敷、字姫御前平は姫の食録地であったといわれる。
桜郷土史研究会
現地立札より
・忠魂殿
《主》護国の英霊
・地蔵堂
・猿田彦社
《主》猿田彦大神
・手水舎
・古い鬼瓦
・社務所〈拝殿の向かって左脇並び〉
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・旧鎮座地 椿尾について
社伝には〈当社は、もと、椿尾と称する奥地に在り、古くから里俗の尊信を集めていたが、享禄二年(一五二九年)兵火に罹って灰塵に帰した〉とあります
こちらのサイトに詳しい情報あり
写真 桜郷土史研究会HP
https://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/13b-tubakigishi/tubakigishi.html
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三重郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 椿岸神社
[ふ り が な ](つはききしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuhakikishi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社
・椿岸神社(四日市市智積)
〈七郷の総社〉
・椿岸神社(鈴鹿市山本町)
〈椿大神社境内 別宮 椿岸神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄湯の山線 桜駅から南へ約550m 徒歩8分程度
菰野道という歴史ある街道沿いを進みます
社頭は南を向いています
椿岸神社(四日市市智積町)に参着
社頭には゛社号標゛掟書き゛などがありますが いずれにも゛延喜式内 椿岸神社゛と記されています
一礼をして 鳥居をくぐります
鳥居の扁額には゛智積郷 總社 椿岸神社゛と智積七郷の惣社であることが記されています
社殿向かって右手の境内社は゛椿岸稲荷神社゛猿田彦社゛が祀られています
社殿向かって左手の境内社は゛忠魂殿゛延命地蔵尊゛
拝殿にすすみます
奉献酒は゛鈿女゛〈御祭神 天之鈿女命か?〉があります
拝殿の扁額は゛椿岸神社 二品貞愛親王゛とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 瑞垣に囲まれて本殿が鎮座
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椿岸神社について 所在は゛智積村に在す゛〈現 椿岸神社(四日市市智積町)〉と記しています
【抜粋意訳】
椿岸神社
椿岸は都婆岐志と訓べし
○祭神 天鈿女命、〔頭注〕
○智積村に在す、〔考証、俚諺〕
○神鳳抄云、智積御厨、
○大安寺資財帳云、三重郡河内原六十町云々、四至東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 椿岸神社について 所在は゛今 鈴鹿郡椿大神社の東北旅所森御與宿殿の北にあり、舊三重郡椿尾山にありしを此に移すといふ゛〈現 椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮 椿岸神社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
椿岸(ツバキキシノ)神社
今 鈴鹿郡椿大神社の東北旅所森御與宿殿の北にあり、舊三重郡椿尾山にありしを此に移すといふ、〔式内検録〇按 社を移す年代詳ならねど、椿社祭祀の日 神輿を其社頭まで昇行く例なるに、一里餘の遠程を以て此に移せるなりとそ〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 椿岸神社について 祭神は不明として 所在は゛今 鈴鹿郡椿大神社の東北旅所森御與宿殿の北にあり、舊三重郡椿尾山にありしを此に移すといふ゛〈現 椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮 椿岸神社〉〉と記しています
又 諸書が記している゛智積村に在す゛〈現 椿岸神社(四日市市智積町)〉という説は゛皆附會の妄談なるのみ゛と強く否定していて その詳細も記しています
【抜粋意訳】
椿岸神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに 傍注考證以下の諸書 智積村の神明社に配す勢陽雑記獨采女村日の宮に填つ智積村は神鳳鈔に内宮 智積御厨〔百八十町十石 口入加地子廿石〕とある地にして 即ち神明を所奉祀なり
寛文三年元祿四年等の棟札に天照皇大神宮とも神叫廟と記したるか如し 然るに寛保二年の札に始て椿岸神社神明宮と錄したり其頃の所作なるにや永録三年十ー月の札ありて云く奉再建智積七郷總社椿岸大明神仰本社云々 其其同手に出つるか
永祿四年正月神主近藤忠胤の撰せしといふ椿岸神社の傳記あり 舊とは河北之小山椿生と呼ぶ處に享祿二年冬兵火に罹る 故に永祿三年智積村内に再建し 神明八幡をも勧請合祭して椿岸神社と號すと云へり 今の社地の形容永禄遷移すの景況に非す 舊古奉祀の神明祠たる事 土俗も神明と稱して著明なるを主客を倒して式社に牽味するなり信受しかたし 又椿尾と呼ふ地は 智積村の管内西極の山陴にて椿神社の獅子頭の四年毎に共坂路を越る時 歌舞すと謂ふは峠神に奉樂するにて本社に関係する事に非す 勿論其地は神社のあるへき地勢にあらず 皆附會の妄談なるのみ
依て考ふるに鈴鹿郡椿大神社略記云 本社より八丁東に攝社椿岸神社有 毎年八月朔日より本社の神霊を椿岸社に神幸なし泰り 三日還幸の例なりと載せたり 其椿岸神社き舊と北方若干里を隔て 三重郡内に在たるに毎年 遠路を神幸するに風雨の煩あるを以て 近く今の處に遷轉すと口傳す 大平二十年大安寺資材帳三重郡内河内原六十町 四至東椿社 南鎌山登道 西山 北牧木之限とある 椿社は本社を謂あなるへし 三國地志に鎌嶽水澤薦野の上方にあり 河内原按下河内村あり此邊なるへしと云へるか如く山の坊谷村水澤等の地 河内原ならむ近年まで山の坊の一村 獨椿社の氏子たりし由なるを見れは 本社の奮地は山之坊村にやあらむ
【原文参照】