龍田大社(たつたたいしゃ)は 社伝によると 第10代 崇神天皇の御代に凶作が続き 天皇が夢で風神のお告げをうけて創建されたと伝わる 祭神は・天御柱大神(志那都比古神)・国御柱大神(志那都比売神)〈別名を龍田神・龍田風神とも云い〉第40代 天武天皇(675年)に始まる風鎮祭は今も毎年行われ 歴代の朝廷からも深く信仰された延喜式 名神大社に列した由緒ある神社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
龍田大社(Tatsuta taisha shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県生駒郡三郷町立野南1丁目29−1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神2柱》
〈本殿 右殿(向かって左)〉
天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)
〈陽〉〈別名:志那都比古神(しなつひこのかみ)〉
〈本殿 左殿(向かって右)〉
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)
〈陰〉〈別名:志那都比売神(しなつひめのかみ)〉
※天御柱大神(陽)と国御柱大神様(陰)二神を合わせ 龍田風神・龍田の大神
〈摂社2社 内陣右(向かって左)〉
・龍田比古神社《主》龍田比古大神
・龍田比売神社《主》龍田比売大神
〈末社 上座・中座・下座の3殿 内陣左(向かって右)〉
〈上座 相殿〉
・皇太神社《主》天照大御神(あまてらすおおみかみ)
・住吉神社《主》住吉大神(すみよしおおかみ)
〈中座 相殿〉
・枚岡神社《主》枚岡大神(ひらおかおおかみ)
・春日神社《主》春日大神(かすがおおかみ)
〈下座〉
・高望王(たかもちおう)のお妃(平家の祖先)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・風の神様〈天地宇宙の万物生成の中心となる「気」をお守護りくださる〉
・五穀豊穣・航海安全に霊験あり
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈・本殿は 名神大社・摂社は 小社〉
・ 旧 官幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
創建
今から約2100年前、第十代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の御夢に大神様が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」という御神託を授けられました。その通りにお社を造営すると、作物は豊作、疫病は退散したと伝えられ、これが当社の創建とされています。
<延喜式・龍田風神祭祝詞より>
龍田大社公式HPより
【由 緒 (History)】
御祭神
天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給う。よって風の神と称します。
御由緒
第十代崇神天皇の御代に天下の公民が耕作に最も大切なる五穀を始め種々の作物は揮て凶作となり一年や二年にあらずして累年に及び更に悪疫が流行して天下は騒然でありました。天皇が非常に御心を悩ませ給い多くの卜占者に占はしめたが如何なる理由か其の根拠は全く不明に終わりました。茲に於いて御自ら天神地祇を祭らせ給ひて御誓約を行わせられ祈請を込められましたところ御夢に大神が現れ、給い吾は天御柱命国御柱命なり天下の国民の作れる物共を暴風洪水に遭いて凶作となり其他災害の起れるは我が心機の平安ならざるものあり、仍て吾宮を朝日の日向う処夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に造営して吾前を鄭重に斎き祀らば五穀を始め何れの作物も豊穣ならしめ災禍も自ら終息して天下太平の御代と成るべしとの御神教がありましたので直に御悟しに従い社殿を此の地に造らしめ給い厳粛に奉斎せしめられました。其れ即ち当社の起源でありまして今より凡そ2100年前の事であります。
其の後は龍田の大神の御教への如く万作は豊熟し疫病は退散して太平の世の中となりましたので国民は大いに喜び天皇の殖産恵民の広き厚き大御心を仰ぎ尊び奉り深く感謝して和楽の御代の出現を忝く思い打ち揃って家業に勉励する様になりました。斯の如く誠に御神徳の高く広い大神であらせられましたから朝廷の御崇敬は極めて篤く春秋恒例の祭祀を始め臨時の祈願大祭には廃務を仰せ出だされ勅使が参向し幣帛其他貴重なる品々を奉献せられ盛大なる祭典を執行致しました事は古書に見ゆる所であります。
平安朝以後には当社を官幣の明神大社とせられ近畿諸社中朝廷の御崇敬最も厚き十六社又は二十二社の内に撰ばれ社名も実に高く勿論由緒顕著でありましたから明治4年5月14日に早速官幣大社に列せられました。大東亜の終戦後は制度の変革がありましたので現在は龍田大社と称し神社本庁の別表神社と成っておりますが一般民衆の信仰は広大なる御神徳に依り遠近各地より其の恩恵を享けて災難なく安全多幸を祈る参拝者或は名所古跡を訪れる文人詩客の参詣も甚だ多い野であります。御神徳
御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本とし中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります。
風鎮祭の由来
当大社の御祭神は前記の通り風気を主宰し給う風神でありまして磯城の瑞垣の宮(第十代崇神天皇)以来朝廷が風水の被害なく無事に五穀を始め総ての作物の豊作、国家の安泰、庶民の福祉を祈願されておられましたが、勅使を参向せしめられて風神祭を厳粛に執行されたのは天武天皇が始めであります。その後は平安朝の後期まで引き続き勅使参向のうえ執行されております。風神に風鎮め即ち順風を祈る祭祀として風鎮祭と称する様になったとされるこのお祭りは最も丁重を極め神饌幣帛を奉献のほかに彦神に矛楯御馬に御鞍を具えて奉り、姫神には金の麻笥(オケ)、金のATALI、金のkasehiその他御馬に御鞍を具えて奉り十分言葉を尽くして丁重に祭典を執り行ない御神慮を慰め奉り広き厚き恩頼を授けられん事をお祈りしたる大祭であります。武家政治の時代は祭祀も著しく衰えましたが明治の御代に至り大いに復興せられ、大東亜戦争後は毎年恒例の神事として7月の第1日曜を大祭日とし、それの一週間前より7日間継続して朝夕の祭典を執り行ない、最終日に厳粛盛大のる風鎮大祭を斎行して居ります。岩瀬の杜の瀧祭 当社の例大祭は毎年4月4日でありますがその前日の3日に、岩瀬の杜の沿岸を流れる龍田川(現在の大和川)から生魚を捕獲してこれを唐櫃に納めて本社に持ち帰り、翌4日の当日に神前に供し祭典終了の後に元の川に放魚する祭りで古くから伝わる神事であります。
摂社並びに末社の御祭神
摂社は龍田比古神、龍田比売神二座であります。(本社の一段下神域の瑞垣内南側二社)末社は同一瑞垣ない北側三座で、御祭神は上座は天照大御神と住吉大神、中座は枚岡大神と春日大神、下座は今御前の社と称し高望王の夫人を祀っております。
その他境内に末社として白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社、祖霊社である下照神社があります。
この他境外末社に神奈備神社があります。付近の名所旧跡
御座ケ峯と龍田山
御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります。
三室山
当社の古い境内地で神奈備の三室山とも称し往昔より春は山桜に若葉の楓とツツジ、秋は紅葉と風景の美を賞賛せられ飛鳥、奈良、平安朝時代には各地より参者遊客文人等の来集甚だ多く社頭は常に人影が絶えなかったと伝えられております
龍田川
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名所と謡はれておりました。
(注)文中のtataliは、「瑞」の偏が「木」偏になったものです。又kasehiは、「峠」の偏が「木」偏になったものです。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈境内図〉龍田大社HPより
・〈末社〉白龍神社(はくりゅうじんじゃ)《主》白竜大神
・〈末社〉龍田恵美須神社(たつたえびすじんじゃ)《主》竜田恵美須大神
・〈末社〉三室稲荷神社(みむろいなりじんじゃ)《主》三室稲荷大神
末社 白龍神社
江戸末期に当社ご神域に白蛇として出現し明治後期一夜にしてそのお姿が見えず当時騒然たりしも明治四十一年春突如(大和国葛城郡)にごり池に白龍として出現されし吉報に依り当時藪宮司・神官・地元氏子に依り辛櫃を奉持しお迎え申し上げこの地に祭祀されたのが当社創建と伝わる。
その後本社龍田大明神のお使え神結びの神・浄難災難除けの神として女性の方々の信仰は特に篤く安産時期には祈願に訪れる参拝者が多い。祭事
月次祭 毎月 一日 十五日 初辰の日
初辰祭 毎年 二月初辰の日末社 龍田恵美須神社
当社は寛元元年(一二四三年)摂津国恵美須神総本社であります西宮戎神社から御分霊を勧請し祭事を続けられましたが何時しかそのご社殿も荒廃しましたが恵美須信仰者の方々の御篤志に依りまして今度昭和六十二年十一月二十八日再び摂津国西宮戎神社から御分霊をお迎えし商売繁盛・福徳開運・家庭円満の守護神である龍田恵美須さんとしてご復興致し末永くお祀り申し上げるものである。
祭事
月次祭 毎月 一日 五日 十五日
初えびす祭 毎年 正月五日~八日末社 三室稲荷神社
当社のご創建鎮座は定かではありませんが往古から三室稲荷さんとして商売を営む人々の信仰篤く商売繁盛の神として訪れる参拝者が絶えない。
祭事
月次祭 毎年 一日 十五日 初午の日
初午祭 毎年 二月初午の日
現地案内板より
・〈末社〉下照神社(しもてるじんじゃ)《主》大国魂大神・祖神霊
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈飛地境内地〉
・御座峰(ござがみね)〈風神様の降臨地とされる聖地〉
御座峰(ござがみね)
古来より、当地を含むこの一帯を龍田山と呼び、大和と難波をつなぐ我が国最古の官道ともいわれる龍田古道が通っていました。飛鳥や平城京から難波に向かう際に、龍田山を見て多くの万葉歌人が歌を残しています。奈良時代、平安時代には、桜・紅葉の名所として多くの歌にも詠れています。
また、御座峰は龍田大社の風神が降臨された地とされ、現在でも毎7月の第1日曜日に行われる「風鎮大祭」翌日には当地で奉幣行事として「御座峰山神祭(ござがみねさんかみさい)」と呼ばれる神事が続けられています。この御座峰と龍田大社とわ結ぶ龍田古道は別名「神降(かみくだ)りの道」とも呼ばれ、古くから信仰の対象となってきました。
これら以外にも、当地に近い雁多尾畑地区には鍛冶の神として名高い金山彦神社、金山媛神社があります。龍田の風神との関連性も考えられ、古来より龍田という地がいかに重要な地であったのかを今に伝えています。
現地案内板より
・三室山(みむろやま)〈奥の宮跡地(傳 龍田神社本宮趾)〉
・岩瀬の杜(いわせのもり)
4月の例大祭〈水神様(若宇加能売命(わかうかのめのみこと)に鯉を奉納〉
〈末社〉・神奈備神社《主》神奈備大神
〈関連社〉・安村家邸内社(やすむらけていないしゃ)
安村家邸内社(やすむらけていないしゃ)
安村家は、中世に栄えた立野(たつの)氏を引き継ぐ形で龍田大社の神人(じにん)を勤め、龍田大社の神宮寺(じんぐうじ)であった東一坊(とういつぼう)及び法隆寺西園院(さいおんいん)の住持(じゅうじ)を兼帯(けんたい)で担っていた一族です。安村家邸内社は、元々は安村家の邸宅内に置かれていた社で、現在は安村家に縁(ゆかり)のある奥野家が管理を行っています。
慶長(けいちょう)十五年(1610)、当主である安村喜右衛門信安(きえもんのぶやす)(信安以降、当主は安村喜右衛門を代々襲名(しゅうめい)していく)は、竜田藩主の片桐且元(かたぎりかつもと)から大和川を航行する魚梁舟(やなぶね)の支配を申しつけられました。魚梁船(やなぶね)という名前の由来は龍田大社の祭事「瀧祭(たきまつり)」で供える魚を捕る場所を「魚梁(やな)」と呼んだことにあり、大和川の亀の瀬(かめのせ)を挟んで上流を航行していました。
しかし、片桐家の断絶を起因として元禄十年(1697)に魚梁船(やなぶね)の支配権が立野村 惣百姓(そうびゃくしょう)に移り、長年の請願の結果、正徳三年(1713)に再び支配権が安村家に戻りました。
この際、幕府は運上銀(うんじょうぎん)の代わりに船の利益を龍田大社の修復料に充てるよう命じており、龍田大社と安村家、魚梁船(やなぶね)の三社の結びつきが公認されたことになりました。この繋がりは明治に入っての龍田大社の官幣大社(かんぺいたいしゃ)化や、明治二十五年(1892年)の鉄道の開通による大和川 舟運(しゅううん)の衰退などによって終焉(しゅうえん)をむかえますが、現在でも龍田大社から三郷駅に下っていく坂道を「安村坂(やすむらざか)」と呼ぶなど、当時の繁栄を今に伝えています。
三郷町教育委員会現地案内板より
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇 即位4年の段に 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀らせた と記しています
天武天皇 即位5年と8年の7月に 廣瀬龍田神を祀らせています
天武天皇 即位13年の段に 天武天皇が廣瀬神に行幸されたこと 廣瀬・龍田の神を祭られたことが 記されています
【抜粋意訳】
天武天皇 即位四年〈675年〉夏四月癸未〈4月10日〉
遣小紫美濃王 小錦下佐伯連廣足 祠風神于龍田立野
〈小紫の美濃王(みののおほきみ)小錦下の佐伯連広足(さえきのむらじひろたり)を派遣し 風神の祠を龍田立野(たつたのたつの)に祀らせた〉
遣小錦中間人連大蓋 大山中曾禰連韓犬 祭大忌神於廣瀬河曲
〈小錦中 間人連大蓋(はしひとのむらじおほふた)大山中 曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)を派遣し 大忌神(おほいみのかみ)を廣瀬(ひろせ)の河曲(かはわ)に祀らせた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位五年 秋七月壬午〈7月16日〉
祭 龍田風神 廣瀬大忌神
〈龍田の風神・広瀬の大忌神(オオイミノカミ)を祭られた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位八年 秋七月
己卯朔甲申〈7月6日〉
雩〈雨乞いをした〉
壬辰〈7月14日〉
祭廣瀬龍田神〈廣瀬・龍田の神を祭られた〉
乙未〈7月17日〉
四位葛城王卒〈四位の葛城王(カズラキノオオキミ)が亡くなられた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位十三年 秋七月
庚戌朔癸丑〈7月4日〉
幸于廣瀬〈天皇は 廣瀬に幸す〉
戊午〈7月9日〉
祭廣瀬龍田神〈廣瀬・龍田の神を祭りました〉
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
広湍神〈廣湍〉と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
弘仁十三年(822)八月庚申〈8月3日〉
奉授 訓 廣湍〈廣瀬大社〉竜田〈龍田大社〉等神 従五位下
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
若宇加乃賣命神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 嘉祥三年(八五〇)七月丙戌〈十一〉
○丙戌
進 山城國 火雷神 階授 從五位上
遠江國 任事 鹿苑兩神 並授從五位下進 大和國
丹生川上雨師 神階 授正四位下
龍田天御柱命神 國御柱命神 若宇加乃賣命神 並加從五位上策命曰 天皇〈我〉詔旨〈仁〉坐 天御柱國御柱神等〈乃〉廣前〈爾〉申賜〈倍止〉申〈久〉
國家〈乎〉鎭護賜〈布爾〉依〈天〉
御位奉授〈天乃〉後 年月久成〈多利〉 因茲 神祇少副正六位上大中臣朝臣久世主〈乎〉差使〈天〉 御位上奉〈利〉稱奉〈留〉 今〈毛〉今〈毛〉風雨隨時〈比〉五穀豐登〈之女〉 天下平安〈爾〉 天皇朝庭〈乎〉堅磐〈爾〉常磐〈爾〉 護賜〈比〉助賜〈倍止〉申賜〈波久止〉申
【原文参照】
巻四 仁寿二年(八五二)七月庚寅〈廿五〉
○庚寅
大和國 若宇加乃賣命神 天御柱命神 國御柱命神等 並加從四位下
【原文参照】
巻四 仁寿二年(八五二)十月甲子〈二〉
○甲子
加大和國 御歳神正二位 若宇加乃賣命神 天御柱命神 國御柱命神 並加從三位
從五位下 藤原朝臣緒數爲越前介 藤原朝臣世數爲越後介
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
諸国の神々と共に 廣瀬神 龍田神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道諸神に 進 階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命 二品
・・・
・・・
大和國
從一位 大己貴神 正一位
正二位 葛木御歳神 從二位勳八等 高鴨阿治須岐宅比古尼神 從二位 高市御縣鴨八重事代主神 從二位勳二等 大神大物主神 從二位勳三等 大和大國魂神 正三位勳六等 石上神 正三位 高鴨神 並從一位正三位勳二等 葛木一言主神 高天彦神 葛木火雷神 並從二位
從三位 廣瀬神 龍田神 從三位勳八等多坐彌志理都比古神 金峰神 並正三位
正四位下 丹生川上雨師神 從三位
從五位下 賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等 穴師兵主神 片岡神 夜岐布山口神 並正五位上
從五位下 都祁水分神 都祁山口神 石寸山口神 耳成山口神 飛鳥山口神 畝火山口神 長谷山口神 忍坂山口神 宇陀水分神 吉野水分神 吉野山口神 巨勢山口神 葛木水分神 鴨山口神 當麻山口神 大坂山口神 伊古麻山口神 並正五位下
從五位下 和爾赤坂彦神 山邊御縣神 村屋禰富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神 鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原高御魂神 畝尾建土安神 子部神 天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神 牟佐坐神 高市御縣神 輕樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神 川俣神 波多���井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天 照御魂神 志貴御懸神 忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久豆玉神 調田一事尼古神 金村神葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神 矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神 並 從五位上
无位 水越神 從五位下
・・・・
【原文参照】
九月八日〈庚申〉畿内国の神と共に 廣瀬神 龍田神に 雨風の祈に幣を奉けたと記されています
【抜粋意訳】
巻三 貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉
○八日庚申
山城國 月讀神。木嶋神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神
大和國 大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。廣瀬神。龍田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。當麻山口神。大坂山口神。膽駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神
河内國 枚岡神。恩智神
和泉國 大鳥神
攝津國 住吉神。大依羅神。難波大社神。廣田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。名次神等遣使奉幣 爲風雨祈焉
【原文参照】
大和国 廣瀬と龍田の両社に各一宇ずつ 神宝を納める倉を造立したと記しています
【抜粋意訳】
巻卅四 元慶二年(八七八)七月廿六日〈己未〉
○廿六日己未
大和國 廣瀬 龍田 兩社 造立倉各一宇 爲納神寶也
【原文参照】
遣を使わして 大和國〈・廣瀬・龍田〉攝津國〈・住吉・大依羅〉の四神社に神財を奉つた と記しています
【抜粋意訳】
巻卅六 元慶三年(八七九)六月十四日〈癸酉〉
○十四日癸酉
遣使於
大和國 廣瀬 龍田
攝津國 住吉 大依羅 等四神社 奉神財
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1神祇1 四時祭上 四月祭 大忌祭一座〈広瀬社、七月准此〉と風神祭二座〈龍田社、七月准此〉
廣瀬社〈廣瀬大社〉の大忌祭
龍田社〈龍田大社〉の風神祭について 記されています
【抜粋意訳】
大忌祭(オホイミノマツリ)一座〈広瀬社、七月准此〉
絁一疋八尺、絲二絇、綿五両、五色薄絁各一丈五尺、倭文一丈三尺、調布一端一丈、庸布一段一丈四尺、木綿二両、麻二斤五両、〈五両祭料、二斤祓料、〉四座置、八座置各一束、楯一枚、鉄三斤五両、鞍一具、米三石、酒二石五斗、稲十束、鰒、堅魚、烏賊各八斤、鮭八隻、腊八斗、比佐魚一斗五升、海藻十二斤、滑海藻十斤、雑海菜十六斤、塩二斗、裹葉薦二枚、馬一疋、祝料庸布二段、是日以御県六座、山口十四座合祭、其幣物者、座別五色薄絁各一尺、倭文五寸、木綿二両、麻五両、槍鋒一口、〈料鉄用社分、〉四座置、八座置各一束、楯一枚、庸布一丈四尺、裹葉薦二尺、其酒肴共用社料、但御県六座、別加絁三尺、
風神祭(カサカンノマツリ)二座〈龍田社、七月准此〉
絁二疋、絲四絇、綿一屯四両、五色薄絁各二丈、倭文一丈三尺、布一端一丈、庸布五段、木綿一斤十両、麻六斤九両、〈五斤二両祭料、一斤七両祓料、〉葈八両、弓四張、箟一連、羽二翼、〈已上二種大和国所送、〉鹿角二頭、鹿皮四張、鉄六斤十両、鞍二具、多多利一枚、麻笥一合、加世比一枚、〈已上三物並金塗、〉漆一升、金漆一升、黄蘗三斤五両、茜十六斤九両、黒葛廿斤、米、酒各一石五斗、稲五束、鰒、堅魚、烏賊各七斤、鮭七隻、腊七斗、比佐魚[---言小魚也曰本紀小雨]一斗五升、海藻八斤、滑海藻十斤、雑海菜十四斤、塩一斗、裹葉薦三枚、馬二疋、祝料庸布二段、
右二社、差王臣五位已上各一人、神祇官六位以下官人各一人充使、〈卜部各一人、神部各二人相随、〉国司次官以上一人、専当行事、即令諸郡別交易、「令」供進贄二荷、其直并米酒稲、並用当国正税、自外所司請供、但鞍随損供進、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・廣瀬神社 一座
龍田神社 二座
・・・
巳上 大和國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式 巻8神祇八 祝詞 祝詞』〈広瀬大忌祭・龍田風神祭〉
廣瀬大忌祭(ひろせのおほいみのまつり)
龍田風神祭(たつたのかぜのかみのまつり)の祝詞(のりと)が記されています
【抜粋意訳】
巻8神祇 祝詞 廣瀬大忌祭(ひろせのおほいみのまつり)
〈廣瀬の川合に称辞竟へ奉る 皇神の御名を白さく「御膳持たする若宇加の賣の命と御名は白して 此の皇神の前に辞竟へ奉らく 皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて 王・臣等を使として 称辞竟へ奉らく」を 神主・祝部等諸 聞し食せ と宣る
「奉る宇豆の幣帛は 御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈・御馬 御酒は瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 和稲・荒稲に 山に住む物は毛の和き物・毛の荒き物 大野の原に生ふる物は甘菜・辛菜 青海原に住む物は鰭の広き物・鰭の狭き物 奥つ藻菜・辺つ藻菜に至るまで 置き足はして奉らく」と 皇神の前に白し賜へ と宣る
「かく奉る宇豆の幣帛を 安幣帛の足幣帛と 皇神の御心に平らけく安らけく聞し食して 皇御孫命の長御膳の遠御膳と 赤丹の穂に聞し食して 皇神の御刀代を始めて 親王等・王等・臣等・天下の公民の取作る奥つ御歳は 手肱に水沫画き垂り 向股に泥画き寄せて取作らむ奥つ御歳を 八束穂に皇神の成し幸はへ賜はば 初穂は汁にも穎にも 千稻・八千稻に引居ゑて 横山の如く打積み置きて 秋祭に奉らむ」と 皇神の前に白し賜へ と宣る
「倭国の六御縣の山口に坐す皇神等の前にも 皇御孫命の宇豆の幣帛を 明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈に至るまで奉る
かく奉らば 皇神等の敷き坐す山山の口より 狭久那多利に下し賜ふ水を 甘水と受けて 天下の公民の取作れる奥つ御歳を 悪風・荒水に相はせ賜はず 汝が命の成し幸はへ賜はば 初穂は汁にも穎にも 瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 横山の如く打積み置きて奉らむ」と
「王等・臣等・百官人等 倭国の六御縣の刀祢・男女に至るまで 今年某月某日 諸参出来て 皇神の前に宇事物頸根築き抜きて 朝日の豊逆登りに 称辞竟へ奉らく」を 神主・祝部等 諸聞し食せ と宣る〉
巻8神祇 祝詞 龍田風神祭(たつたのかぜのかみのまつり)
〈龍田に称辞竟へ奉る 皇神の前に白さく「志貴嶋に大八嶋國知しし皇御孫命の 遠御膳の長御膳と 赤丹の穂に聞し食す五穀物を始めて 天下の公民の作る物を 草の片葉に至るまで成さず 一年二年に在らず 歳まねく傷へるが故に{百の物知人等の卜事に出でむ神の御心は 此の神と白せ}と負せ賜ひき 此を物知人等の卜事を以て卜へども{出づる神の御心も無し}と白すと聞し看して
皇御孫命の詔はく 『神等をば天社・國社と忘るる事無く 遺つる事無く 称辞竟へ奉ると思ほし行はすを 誰の神ぞ 天下の公民の作りと作る物を 成さず傷へる神等は 我が御心ぞと悟し奉れ』とうけひ賜ひき
是を以て皇御孫命の大御夢に悟し奉らく 『天下の公民の作りと作る物を 悪風・荒水に相はせつつ 成さず傷へるは 我が御名は天の御柱の命・國の御柱の命』と 御名は悟し奉りて 『吾が前に奉らむ幣帛は 御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色の物 楯・戈・御馬に御鞍具へて 品品の幣帛備へて
吾が宮は朝日の日向ふ処 夕日の日隠る処の 龍田の立野の小野に 吾が宮は定め奉りて 吾が前を称辞竟へ奉らば 天下の公民の作りと作る物は 五穀を始めて 草の片葉に至るまで 成し幸はへ奉らむ』と悟し奉りき
是を以て皇神の辞教へ悟し奉りし処に 宮柱定め奉りて 此の皇神の前に称辞竟へ奉りに 皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて 王臣等を使と為て 称辞竟へ奉らく」と 皇神の前に白し賜ふ事を 神主・祝部等 諸聞食せと宣る
奉る宇豆の幣帛は「比古神に御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈 御馬に御鞍具へて 品品の幣帛献り 比売神に御服備へ 金の麻笥・金の椯・金の桛 明妙・照妙・和妙・荒妙 五色の物 御馬に御鞍具へて 雑の幣帛奉りて 御酒は瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 和稲・荒稲に 山に住む物は 毛の和物・毛の荒物 大野原に生ふる物は 甘菜・辛菜 青海原に住む物は 鰭の広物・鰭の狭物 奥つ藻菜・辺つ藻菜に至るまでに 横山の如く打積み置きて
奉る此の宇豆の幣帛を 安幣帛の足幣帛と 皇神の御心に平らけく聞し食して 天下の公民の作りと作る物を 悪風・荒水に相はせ賜はず 皇神の成し幸はへ賜はば 初穂は 瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 汁にも穎にも 八百稲・千稲に引居ゑ置きて 秋祭に奉らむと
王・卿等 百の官人等 倭國の六縣の刀袮 男女に至るまでに 今年四月<七月ハ 今年七月ト云フ> 諸参集はりて 皇神の前に宇事物頚根築き抜きて 今日の朝日の豊逆登りに 称辞竟へ奉る皇御孫命の宇豆の幣帛を 神主・祝部等は賜りて 惰る事無く奉れ」と宣りたまふ命を 諸聞食せと宣る〉
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
①〈本社 龍田大社〉
大和國 平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社二座(並名神大月次新嘗)
②〈摂社 龍田比古神社・龍田比売神社〉を式内社にあてる説あり
大和國 平群郡 龍田比古龍田比女神社二社
①〈本社 龍田大社〉
大和國 平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社二座(並名神大月次新嘗)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)平群郡 20座(大12座・小8座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 龍田坐天御柱国御柱神社二座(並名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](たつたにます あまのみはしら くにのみはしら の かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Tatsutanimasu amanomihashira kuninomihashira no kamino yashiro)
②〈摂社 龍田比古神社・龍田比売神社〉
大和國 平群郡 龍田比古龍田比女神社二社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)平群郡 20座(大12座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 龍田比古龍田比女神社二社
[ふ り が な ](たつたひこ たつたひめの かみのやしろ ふたやしろ)
[Old Shrine name](Hirosenimasu wakaukame no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『日本書紀』にも〈風神を龍田の立野〈龍田大社〉 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀らせた〉と記される゛龍田と廣瀬゛について
『日本書紀』天武天皇 即位4年の段に゛風神を龍田の立野〈龍田大社〉大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀らせた゛と記され
『延喜式』巻1神祇1 四時祭上 四月祭には゛大忌祭一座〈広瀬社、七月准此〉と風神祭二座〈龍田社、七月准此〉゛が記され
『延喜式』巻8神祇8 祝詞 には〈広瀬大忌祭・龍田風神祭〉が記されています
龍田・廣瀬の両社の関係は 非常に深いものです
廣瀬大社(河合町川合)の記事を確認ください
・廣瀬大社(河合町川合)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR大和路線 三郷駅から約500m程度
大和川は 廣瀬大社(河合町川合)の辺りで 奈良盆地の水を集め 龍田大社の鎮座する三郷町へと流れ下り 生駒山地と金剛山地の渓谷゛亀の瀬゛を抜けて 大阪へと流れ出す唯一の水路です
その大和川に沿った山越えの道が 龍田古道でした
龍田大社の鎮座する三郷町は 古代より大和〈奈良〉と河内〈大阪〉との物資を運ぶ重要な拠点で 大和川と龍田古道は 飛鳥や平城京から難波に向かう際に 龍田山を見て多くの万葉歌人が歌を残しています
龍田大社(三郷町立野南)に参着
手水舎で清めます
参道向かって右手 社務所に授与所があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の先には 鳥居が建ち 内陣があり
内陣右(向かって左)に 摂社2社
・龍田比古神社《主》龍田比古大神
・龍田比売神社《主》龍田比売大神
内陣左(向かって右)に 末社 上座・中座・下座の3殿
その奥に 祝詞殿
更に奥に 御本殿
境内社にお参りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 龍田坐天御柱國御柱神社二座については ゛立野村に在す、今本宮と称す゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)〉と記しています
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について ゛龍田町に在す、今新宮と称す゛〈現 龍田神社(斑鳩町龍田)〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田坐天御柱國御柱神社二座 並名神大月次新嘗
寵田は 多都太、』天御柱國御柱は 阿女乃美波之良久爾乃美波之良と訓べし、
○祭神 級長津彦命、級長戸辺命、
○立野村に在す、今本宮と称す、
〇式三 臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 大和国龍田神社二座、』
祈雨祭神八十五座 並大 云々、龍田社二座、
○江家次第、祈年穀奉幣 龍田、五位」
廿二社注式云、中七社 龍田、幣数二本
○日本紀神代巻上、一書云、伊弉諾尊曰、我所生之國唯有朝霧而薫満之哉、乃吹発之氣化為神號曰級長戸辺命、亦曰級長津彦命 是風神也、』
古事記上云、既生國竟、更生神、次生嵐神名志那都比古神云々、
古事記伝云、師説に龍田風神祭祝詞に、此神は、比古神比売神ならび坐こと志るければ、古事記日本紀、たがひに一神説たるべしと云れき、といへり、神皇正統記云、瀧祭の神と申すは龍神なり云々、一には大倭の龍田神は、この瀧祭と同躰にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱國柱といふ御名ありともいへり、』
廿一社記にも、廣瀬社風神ニ座ス、龍田社同風神ニ座也、風神祭ト云モ此二神祭也、と云て別に龍田社を挙ず、故に廿一社なり、こはいかなる説により給へる事か、既く本朝世紀に見えたる、天慶四年八月十三日祈年穀の時、十六社の内に龍田社も加はりて、次々洩たる事なきをや、不審の事にぞ侍る、猶 廣瀬郡廣瀬社の下考へ合すべし、鎮座
日本紀、天武天皇四年四月癸未、遣小紫美濃王、小錦下佐伯連広足、祠風神于龍田立野、神位
日本紀略、弘仁十三年八月庚申、奉授龍田神從五位下、
文徳実録、嘉祥三年七月丙戌、大和国籠田天御柱命神、國御柱命神、並加從五位上、策命曰云々、仁寿二年七月庚寅、大和国天御柱命神、國御柱命神加從四位下、同年十月甲子、大和国天御柱命神、国御柱命神、加從三位、
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和國從三位龍田神正三位、官幣
三代実録、貞観元年九月八日庚申、大和国龍田神、遣使奉幣、為風雨祈焉、神財
三代實録、元慶三年六月十四日癸酉、遣使於大和国龍田神社奉神財、雑事
三代実録、元慶二年七月二十六日己未、大和国広瀬龍田両社、造立倉各一宇、爲納神宝也、〇式三(臨時祭)凡龍田社庫鍮匙者、納置官庫、祭使官人臨祭請取、事畢返納、○中右記、天永二年四月二十四日、廣瀬籠田祭也、召僧事如何、殿下仰云、件事思食忌也、仍被渡御読経於東馬場屋、聊有御祓、
龍田比古龍田比女神社二座
龍田は前に同じ、比古比女は假字也、
○祭神 立野坐神に同じ
○龍田町に在す、今新宮と称す、○祈年穀廿二社本宮に准ず
諸社根元記、龍田條 又云、龍田比古龍田比女神社とのみあり、廿一社記、廿二社本緑、同注式共に詳ならず、』
祝詞考に、天御柱國御柱の二神と、龍田彦龍田姫二神を、神名式に別に挙ケ、今も別社に齋奉るは、和魂荒魂のよしか、又一神も二名おはするは、其功に依て、別に齋ふ類ひなるか云々、右は別神にはおはさざる也、と云るは然るべし、尤立野坐神の和魂なるべし、考証に、四坐同宮地、今法隆寺坤別称龍田者離宮也、大和志にも、倶在立野村云々、神幸之地、在龍田村舊名御憩所、今建小祠稱曰 新宮、と云る共に據を知らず、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 龍田坐天御柱國御柱神社二座については ゛立野村に在す、今本宮と称す゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)〉と記しています
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について ゛天御柱國御柱社の右に在り゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)の摂社〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田坐天御柱國御柱(タツタニマス アメノミシラクニノミハシラノ)神社二座
今 立野村 龍田峯上にありて、本社と云、即是也、龍田縁起、良訓補忘集、大和志、國華万葉記、
風神 級長津彦命 級長戸邊命を祀る、日本書紀、舊事本記、
〇按 古事記 此の神名なし、日本書紀、級長津彦一神とす、二神とするもの舊事紀に従ふ、
亦名を 天御柱國御柱命といふ、文徳実録、延喜式、上古 伊弉諾尊 大八洲國を生給て詔曰(ノタノイテイワク)、我生りし國唯朝霧のみ薫満る哉(カモ)と詔(ノタマイ)て、乃 吹発(フキハナ)はせる御氣息(ミイブキ)に生坐(アレマセ)る神也、日本書紀、舊事本記、
崇神天皇御世 五穀物(イツツノダナツモノ)惡風荒水に逢て、年まねく傷(ソコナ)はるるを、天皇憂ひ給ひ、祈誓(ウケヒ)して御幣帛(ミミテグラ)備へて、朝日(アサヒ)の日向(ヒムカ)ふ處、夕日(ユフヒ)の日陰(ヒカゲ)る處の龍田立野の小野(ヲヌ)に、吾宮を定奉りて、吾前(アガミマヘ)を治め奉らは、天下の公民乃作りと作る物は、草の片葉にいたるまで、成幸へ奉らむ、と悟奉りき・故其に始て神社を建て之を祭りき、延喜式
天武天皇 三年四月、癸未、小紫美濃王小錦下佐伯連廣足をして、風神を龍田立野に祭り、明年七月壬午、又之を祀る、風神祭此に始る、日本書紀、
天武天皇 大實の制、四月と七月とを例月とし、令義解 後に四日を祭日とせらる 本朝月令弘仁式、延喜式、北山鈔、
聖武天皇 天平二年、龍田神戸祖稻四百四十束を以て、神祭及雜用に充て、東大寺正倉院文書
平城天皇 大同元年、神地三戸を寄奉り、新抄格勅符
嵯峨天皇 弘仁十三年八月庚申、龍田神に從五位下を授け、日本紀畧
文徳天皇 嘉祥三年七月丙戌、大中臣を遣して、風雨時に從ひ、五穀豊登の事を 祈らしめ、二神並に從五位上に叙され、仁壽二年七月庚寅、並に從四位下を賜ひ、壬辰、幣馬を奉て年を祈り、十月甲子、從三位に進め奉り、文徳実録清和天皇 貞観元年正月甲申、從三位龍田神に正三位を授け、九月庚申、風雨の御祈に依て幣を奉り、十二年七月壬申、使を遣し幣を奉り、雨澇なき事を祈らしむ、堤よりさき河内國堤を築の功、未た成終さるに、重て水害あらむ事を恐て也、陽成天皇元慶二年七月已未、神寶を納る為に、倉一宇を造り、三年六月癸酉、神財を奉らしむ、三代実録
醍醐天皇 延喜の制、並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上 官幣及祈雨の幣に預る、凡夏秋の祭、王臣五位各一人、神祇官六位官人各一人を使とす、卜部一人 神都各二人 之に從ふ、國司次官以上一人、専ら事を行ひ ,諸郡をして贄二荷を奉供しむ、其祭料稻 並に當國の正税を用ふ、延喜式
一條天皇 正曆五年四月戊申、疾疫放火の変に依で、中臣氏を宣命使として、幣帛を奉らしめき、本朝月記、参取日本紀畧臨 今四月四日、八月十二日祭を行ふ、其神幸の地 龍田村にあり、後世小嗣を建て新宮と云、即ち是也
龍田比古龍田比女神社二座
今 天御柱國御柱社の右に在り、大和志、神名帳考、
蓋 風神を祭る、萬葉和歌集
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 龍田坐天御柱國御柱神社二座については ゛立野村゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)〉と記しています
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について゛立野村゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)の摂社〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田坐天御柱國御柱(タツタニマス アメノミシラクニノミハシラノ)神社二座 並名神大月次新嘗
祭神 天御柱神
國御柱神神位
嵯峨天皇 弘仁十三年八月庚申、奉授龍田神從五位下文徳天皇 嘉祥三年七月丙戌、大和国籠田天御柱命神、國御柱命神、並加從五位上、策命曰云々、仁寿二年七月庚寅、大和国天御柱命神、國御柱命神加從四位下、同年十月甲子、大和国天御柱命神、国御柱命神、加從三位、
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和國從三位龍田神正三位、貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉大和國 龍田神。等遣使奉幣 爲風雨祈焉祭日 四月四日 七月四日
社格 官幣大社
所在 立野村(生駒郡三郷村大字立野)龍田比古龍田比賣(タツタヒコタツタヒメノ)神社
祭神 龍田比古ノ神
龍田比女ノ神祭日
社格
所在 立野村
【原文参照】
龍田大社(三郷町立野南)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)