田宮寺神社(たみやじじんじゃ)は 村社 田乃家外城田神社と云い 元 田宮寺鎮守神 天神社のことで 明治四十二年 合祀されたもので この天神社が 皇大神宮摂社の田乃家神社(たのへじんじゃ)であったとも云い 境内には゛御船殿奮趾゛往昔 神宮禰宜 荒木田氏により 式年遷宮毎に御船代を奉納した遣跡もあり 神宮との深い繋がりがあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
田宮寺神社(Tamiya shrine)
【通称名(Common name)】
〈村社 田乃家外城田神社〉
【鎮座地 (Location) 】
三重県度会郡玉城町田宮寺322
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
明治四十二年の 合祀神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『田乃家外城田神社』に記される内容
村社 田乃家外城田神社 (元 田宮寺鎮守神 天神社のことにて明治四十二年 合祀せしものなり。 )と記されています
【抜粋意訳】
・木造 十一面観音立像〔塗箔像〕 ー軀
・木造 十一而観音立像〔彩色像〕 ー軀度會郡東外城田村 田宮寺
観音堂は度會郡東外城田村大字田宮寺字坊垣内四三二番地にあり。富向山御内院と稱し眞言宗古義派に属す。
國寶十一面観音は一木造りの立像にして其の本體は五尺四寸、全姿塗箔なり。頭部は・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・田宮寺傳來観音像由緖取調書に日く、
「元富向山田宮寺は現今の度會郡東外城田村大字田宮寺字御船殿跡なる古刹なりき。今其の由緖を按するに、當寺は眞言宗にして神龜二年聖武天皇の勅願を奉じて僧行基茲に霊刹を草創し、・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・因に寛文年中 柳原権大納言光綱卿の三男落飾して當寺に入り 遍照院良淳僧正と號して茲に古刹に圓寂せられ其の手工に成れる菅神像は今尚 村社 田乃家外城田神社 (元 田宮寺鎮守神 天神社のことにて明治四十二年 合祀せしものなり。 )に御神寶として現存せり。〔下略〕」
本寺は前述の如く伊勢神宮に閲係深かりし爲 神宮関係の書籍中には本寺開係の記事甚だ多しと雖も今之を略す。
【原文参照】
『度會郡勢一覽』〈大正11年〉に記される内容
【抜粋意訳】
御船殿奮趾
東外城田村大字田宮寺 村社 田乃家外城田神社域外にあり
往昔、神宮禰宜 荒木田氏より、遷宮毎に右御船代を奉納せし遣跡なり
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年〉に記される内容
【抜粋意訳】
田乃家神社(たのへじんじゃ)
津布良神社から、路を東北に採って ,約十町程下ると大字矢野(やの)の部落に入る。この部落の西南の端の森の申中あるのが ,皇大神宮の攝社の田乃家神社(たのへじんじゃ)である。儀式帳に來田郷矢野村にありと見えてゐる通り、今でも東外城田村大字矢野の鎭座である。
御社名は延喜式神名帳に田乃家神社、大神宮式斎宮式には、田乃家社、延暦儀式帳には田邊(たのへ)神社と見えてゐる。田乃家(たのへ)といふのは田の戸(たのへ)、即ち御田を耕作する民戸のことを云ふもので ,その田の人家の守り神の社である。
御社殿は正殿ー區、前殿一宇とあれば、もとは二社建てられてゐれことが分る。御祭神は儀式帳に大神御滄川神(おほかみのみさむかはのかみ)とあり、もう一神はその御前神(みまへのかみ)といはれてゐる。
この神は天照大御神の御神徳が、この地方に及び、この地方一帶から崇敬されたためにその御祭神名の上に大神(おほみかみ)の二字を冠したものである。もとは、この矢野の田野を貫流灌漑する外城田川の支流の守護神をお祭りしたものである。この神社は、大長谷天皇(おほはせつのすめらみこと) (雄略天皇 )の御字に祝ひ定められたと見えてゐる。
傳説にしても他の攝末社が倭姫命御世に祝ひ定められたとあるのに比ぶれば、大分後に荒木田氏がこの地方を開墾したとき、その産土神として祀ったことが分るのである。天照大御神の御神德を頂いて祭った神社であるため、昔は造宮使造替六社の一つとして、高い格式が與へられてゐた。ここも中世社殿廃滅に帰したものを、寬文三年に再興したものである。
然し元の御社地であるかどうかといふことは、尚ほ研究を要すべきことで、或は、昔は矢野の範囲内であった。今は大字田宮寺になってゐるが、こゝの産土神の八柱神社 (天神社ともいふ )がその舊阯ではなからうかといはれてゐる。
御再興のとき、本社一宇のみ再興されたが、御前の社は再興されてゐない。境内入口に例の紀州藩の建てた禁殺生石 (享保甲辰建 )がある。又天保十三年銘の水盤もしつらへられてゐる。本社を辞して、次の部落田宮寺へ入ると、ここに田宮寺といふ寺がある。この寺は、昔神宮の神主と綠のあった寺で、奈良朝の頃行基の開基といはれてゐるが、眞言宗の古刹で、その本尊十一面観世音 (平安初期の作 )は國寶になってゐる。中古廃絶したものを、長徳年事に内宮一禰宜 荒木田氏長(うじなが)が再興し、その氏寺とした由緒を持ってゐる。ために、神宮の御関係のものも藏してゐたといはれてゐるが、明治維新のとき廃寺になった。今あるのは観音堂一宇のみである。
【原文参照】
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・正殿と境内社
・拝殿
・社頭
・御船殿跡
御船殿跡
皇大神宮の御船代は 二十年毎の遷宮にお取り替えされ 古い御船代は富向山田宮寺境内の御船殿に 享保十四年 第四十八回遷宮まで 古例によって保安されたと伝えられます
御船殿跡は昔 田宮寺を氏寺とした内宮神宮 荒木田氏を介して神宮とのつながりを物語る遺跡であります
現地立札より
・富向山 田宮寺
富向山 田宮寺
当山は奈良時代行基菩薩が神宮法楽寺として草創されたと伝えられ弘法大師を中興の祖と仰く眞言宗無本寺である
曽って内宮弥宜 荒木由氏の氏寺であって境内には皇大神宮の古御船代(ふるみふなしろ)を奉安した御船殿跡があり神宮との深いつながりを物語る
また紀州藩はじめ北畠・田丸愛洲氏など地方豪族の信仰も篤くそれぞれ寺領を寄進している
寛保元年伊勢順礼三十三ケ所第四番礼所となるが厄除祈祷豊穣祈願の現世利益を祈る庶民の参詣もおこり大いに賑わいをみるに至った
御本尊十一面観世音菩薩は夫婦観音として親しまれ縁結び安産祈願の信仰をあつめている
この立像二体は重要文化財で平安初期の作とされ歴史的美術的価値からも県下屈指の古彫刻である廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により七堂伽藍を失い名刹の盛んな往時を偲ぶ面影はなくなったが明治四十三年伊勢志摩新四国八十八ケ所第七十九番札所となり観音像とともに法灯は里人の篤い信仰で絶えることなく護り継がれている。現地案内板より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 田乃家神社
[ふ り が な ](たのいへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tanoihe no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 度會郡 田乃家神社(たのいへの かみのやしろ)の論社
・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)
〈田乃家神社の遺構とされた゛田宮寺 境内 天神祠゛の合祀先〉
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢自動車 玉城ICから北へ約1.4km 車5分程度
田宮寺神社の鎮守の杜が見えてきます
境内の東側にある富向山 田宮寺を向いて 入り口があります
田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり 砂利が敷き詰められている参道をすすむと すぐに二の鳥居が建ちます
二の鳥居をくぐり抜けると 参道は直角に折れていて 三の鳥居 四の鳥居が建ちます
鳥居の先には 南向きに割拝殿が建っています
割拝殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
正殿の向かって左手前には 境内社が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 田乃家神社について 所在は城田郷矢野村に在す〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
創建年代は 大長谷天皇御宇〈第21代 雄略天皇の御代(457~479年)〉と記しています
【抜粋意訳】
田乃家神社
田乃家は多乃倍と訓べし、和名鈔、郷名部 田部、假字上の如し
○祭神 大神御滄川神
○城田郷矢野村に在す、神名略記
○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第四に載す、
○儀式帳云、田邊神社、稱に大神御滄川神、形鏡坐、大長谷天皇御宇定祝、類社
近江國 高島郡 田部神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 田乃家神社について 所在は來田郷矢野村にあり〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
創建年代は 大長谷天皇御宇〈第21代 雄略天皇の御代(457~479年)〉と記しています
【抜粋意訳】
田乃家(タノヘノ)神社
〇按 延暦儀式帳に、田乃家田邊に作る、
今 來田郷矢野村にあり、神祇本源、神名略記、神名帳考証、
〇按 此の地 古田邊郷也、今猶 上下田邊村あり大神の御滄川(ミサキカハノ)神と稱す、形鏡に坐せり
雄略天皇 御世、祝定奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 田乃家神社について 所在は東外域田村大字矢野〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
旧鎮座地については 矢野村の東なる田宮寺域内の社〈現 田乃家神社の遺構とされた゛田宮寺 境内 天神祠゛〉(玉城町田宮寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
田乃家神社
祭神 大神御滄川神
今按 儀式帳田邊神社とん川邊氏社とも氏経日記に田邊氏神社なとあるは此神社をさして云るなり
祭日 同上
社格 内宮所攝 二十四所之一(内宮摂社)所在 度會懸域田郷矢野村 (度會郡東外域田村大字矢野 )
今按 式内神社檢錄に舊社は矢野村の東なる田宮寺域内の社ならむ其寺を建し 長德以前は田邊郷田邊村 寶藏庵の地に在しなるべしと云へり 今地は寬文三年の再興なり
【原文参照】
田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)