磯神社(伊勢市磯町)

磯神社(いそじんじゃ)は 倭姫命(やまとひめのみこと)の巡幸地の一つ伊蘇 或は磯宮゛とされ 旧地は宮川の氾濫によって崩壊 水没した 現在地に遷座したと伝わります 旧地は延喜式内社 伊勢国 度會郡 磯神社いその かみのやしろとされますが 皇大神宮・豊受宮の管攝する社にはその名が見えず ゛磯宮・伊蘇宮゛と゛磯神社゛との関連性にも諸説があります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

磯神社(Iso shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市磯町権現前1069番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》正殿一座
 天照神御魂(あまてらしますすめおほみかみみたま)

《配》相殿二座
 宇気昆賣大神(とようけびめのおほかみ)
 木花佐久夜毘賣神(このはなさくやびめのかみ)

《合》境内社
 宇都志國玉神(うつしくにたまのかみ)清濱神社
 菊里姫神(くくりひめのかみ)白山社
 大山津見神(おおやまつみのかみ)山神二柱

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 元伊勢゛伊蘇宮 或は磯宮゛

【創  (Beginning of history)】

磯神社

鎮座地 三重県伊勢市磯町字権現前1069

 神 天照大神 ・豊受毘売神・木花佐久夜毘売神・宇都志国玉神・菊里姫神・大山津見神

祭日 二月十一日 お頭神事  四月二十一日 例祭
社宝 獅子頭(元禄年(1697)箱書銘)
境内 927坪・境外1137
氏子 146

由緒
 創立は崇神天皇二十五年、倭姫命が天照大神を奉じて、当地の行宮に留まられたとき、そこを磯宮と称しました。大神が宇治の五十鈴川のほとりにご鎮座の後は、磯宮を磯神社と称し、延喜式内社の一つとして古くから広い信仰を集めてきました。
 なお近くの字下条には神宮大宮司大中臣公宗(在任1141~1153)邸跡や、字袴田(こうだ)には南朝祠官で外宮長官であった宮後朝棟(在任1339~1341)邸跡などがあります。

社頭の案内板より

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【由  (History)】

延喜式内社 元伊勢宮

磯神社

縁起
当社の創祀は古く皇大神宮(内宮)祀の神代に遡り「皇大神宮儀式帳」「延喜式神名帳」等、著名な古書に社名が記載されている。

 なかでも「倭姫命世紀」に、垂仁天皇二十五(紀元前五年頃)三月、皇女倭姫命が大神を奉じ「大神を鎮めさしむ処を求めて」つまり永遠に安定した神事を続けることができる最適地を求めて、大和から近江、美濃の諸国を巡られた。漸く辿り着いた地を「伊蘇 或は磯宮」と称したのがその祀である。

天照大御神が宇治郷五十鈴川の現在地に御鎮座後も、の行宮跡を磯神社と号し、近隣の人々に尊崇されていたが、後年宮川の度重なる洪水旧地崩壊、水没した「神名帳考証/伴信友」に記されている磯の八王子社の鎮まり坐す現在の社地「権現林」に遷祀したとされている。
明治期に「清濱社」「白山社」「山神」を合祀し現在に至っている。

延喜式神名帳の伊勢度會郡磯神社』がこれであり、延喜式内郷社に列せられた。又、倭姫命巡行時の仮宮旧跡「元伊勢」(伊勢神宮鎮座伝承に関わる神社)古社に比定され、二千年あまりの歳月、多くの方々から敬慕されてきた。

神社配布パンフレットより

延喜式内社 元伊勢宮

磯神社

鎮座地 三重県伊勢市権現前1069番地

祭神 正殿一座 天照神御

   相殿二座 宇気昆賣大
        木花佐久夜毘賣神

   境内社  宇都志國玉神
        菊理姫神
        大山津見神

一、由緒創立
垂仁天皇二十五月(約,〇〇〇年前)

垂仁天皇の御世に天照大神を倭姫命に奉戴せしめて諸國を経歴せられし時玉伊蘇國に行幸あり、今の伊蘇郷 磯村の辺を謂う。
其の地に行宮を造って皇大神を安鎮奉斎し、伊蘇宮、亦 磯宮と稱す
然して皇大神は宇治郷 内宮に御鎮座ありし後も その行宮の遺跡を磯神社と唱へて 延喜式神名帳官社の列に入れらる。

本社 即ち是なり。但し、旧地は後年 宮川 洪水にため崩壊せるに依って 今の社地 権現林に年月日不詳 移遷し 古跡を宝殿の脇と号す。
明治四十一十八 境内社 清濱神社、無格社 本殿社無格社 白山社無格社 山神二座 合祀するの許可を受け 同年日合祀執行す。

戦後宗教法人により昭和二十一一日三重県知事に届出宗教法人「磯神社」となり今日に至っている。

境内案内板より

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由緒

当社の創立は垂仁天皇25年3月と伝えられている。
当社の由緒は『内宮儀式帳』『倭姫命世記』『神名帳考證』『勢陽雑記』『案内記』等の諸書に見られるが、それによれば、垂仁天皇の御世に倭姫命が天照大御神を奉載して諸国を経歴し、伊蘓国(伊蘓郷磯村の辺り)に行幸なさった時に、そこに行宮を造営して皇大神を安鎮奉斎し、伊蘓宮或は磯宮と称したのが、その創祀である。

そして天照大御神が宇治郷五十鈴川上の現在の地に御遷座された後も、伊蘓国の行宮の遺跡を磯神社と号し、信仰を集めたという。
『延喜式神名帳』にある伊勢国度会郡の磯神社がこれである。

しかし、後年、宮川の洪水のため、旧地は崩壊してしまったため、今の社地である権現林に移遷したというが、その年月は不詳である。又その古跡は宝殿の脇又本殿の脇と号されたとも言われている。
明治41年には、境内社清濱神社、無格社本殿社、無格社白山社、無格社山神二座を合祀し、今日に至っている。

当社の特殊神事として、先述の如く、2月11日の獅子舞が古式ゆかしく斎行されているが、その獅子舞に用いられる獅子頭は、制作年代こそ不詳であるが、箱書に「元禄十丑丁念日天子八王子正月吉祥日」とあることから推察しても、由緒のあるものであり、当社の社宝として大切に保管され、継承されている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 神社
[ふ り が な ]いその かみのやしろ
[Old Shrine name]Iso no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

元伊勢(もといせ)伝承をたずね

 皇大神宮(内宮)の御祭神は 皇祖神 天照大御神です
かつて 天照大御神と天皇は〈共に皇居内に祀られていた〉゛同床共殿゛であったと伝えらています
やがて 第10代 崇神天皇の時代 崇神天皇6年(BC92年)疫病を鎮めるべく 従来から宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に遷したと伝わります

 それは゛同床共殿゛の状態を畏怖した崇神天皇が 皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に その神霊を託して 倭国 笠縫邑 磯城の厳橿の本に゛磯堅城の神籬゛を立てたことに始まり さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々と遷座し
 第11代 垂仁天皇の第四皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこれを引き継ぎ およそ90年をかけて現在地三重県伊勢市宇治館町〉に遷座したとされます

遷座の経緯については
『古事記』では記載なし
『日本書紀』では簡略に
『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく
中世の『神道五部書』の一書 『倭姫命世記』に より詳しく記される

元伊勢(もといせ)とは 〈伊勢神宮皇大神宮(内宮) 現在地三重県伊勢市宇治館町に定まるまで 遷座を繰り返し その時に一時的に祀られていた場所のことで
 元伊勢の伝承地は 主に近畿・東海地方に点在します

又 豊受大神宮〈外宮〉は 雄略天皇の時代に 丹波國の比沼乃真名井爾坐(ひぬまのまないなまします)我御饌津神(わがみけつのかみ)由氣太神(とゆけのおおかみ)を招き 度会の山田原に立派な宮殿を建て 祭祀を始められたものです その際の遷座先も゛元伊勢゛とも呼びます

詳しくは゛元伊勢(もといせ)伝承をたずねて゛

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄山田線 小俣駅から 宮川に沿ってを下るように県道511号を北東へ 約2.3km 車7分程度

駐車場は境内の南東にあり

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境内の入り口は東側にあります

磯神社(伊勢市磯町)に参着

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社号標には゛式内 郷社 磯神社゛と刻字があります

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社務所に立つ石碑には゛伊蘇前司 公宗入道長官之里゛建久三年伊勢神宮と刻字がされています

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入り口の鳥居の柱には 神宮と同様に゛榊゛が祀られています
一礼をして 鳥居をくぐります

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参道の右手に手水舎があり清めます

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その先には 二連の鳥居が建ち 参道は右に折れています

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参道を折れると 四連の鳥居が建ち くぐり抜けます

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四連目の鳥居の先は 石垣で神域が囲われていて 左手には幹に注連縄が廻された御神木が見えます

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御神木は゛推定樹齢七〇〇年の御神木の大楠(幹経約十㍍)

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拝殿にすすみます

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賽銭を納め お祈りをしま

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 玉垣〈連子板打〉の中に正殿が鎮座します 

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 磯神社について 所在 祭神ともにわからないと記しています

考証には「礒村八王子社」〈現 磯神社(伊勢市磯町)〉としている

しかし 大神宮摂社廿四座に含まれていないことは 不思議であるとして 様々な検証が述べられています

【抜粋意訳】

磯神社

磯は以曽と訓べし、和名鈔、郷名部 伊蘇、以曽

○祭神在所等詳ならず、考証に、今云礒村八王子社乎、

連胤云、
社と下なる榎村神社の事、郡二所大神宮の別宮四社を除て、朝熊神社より以下四十四座の中、両宮儀式帳、また延喜大神宮式等に戴る大神宮摂社廿四座、(儀式帳に、官帳社廿五とあれど、其中に瀧祭神社無御殿と見ゆ、然れば此神名式に載せず、故に廿四座也、)
 葦原神社(此社儀式帳に、未官帳入旧社の條に載す、大神宮式、には載せず、猶其考は下なる葦原神社のにいふべし、)
度會宮摂社十六座、(外宮儀式帳に、名社十六とあり、其中に月夜見神社は別宮とする故に十五となる、にわかりたし、)
合せて四十一座の外、雷電官ノ両は離宮院の地に在す、両宮の摂社に准ふべし、(神名略記再興の事をいへり)
 齋宮寮式祈年祭神小社九十八座の中には、礒社 榎村社も見えたり 然るに自神宮の、諸書に出ざるは如何なる事にやあらん、
按るに、礒神社は、垂仁天皇二十五三月、随大神教、其祠立於伊勢國、囚興斎宮于五十鈴川上、是謂礒宮、とある礒宮の趾に遺ししならんと思ふからに、故人の書を閲するに、古事記にくだくだしく書たれど、礒宮はすなはち五十鈴宮の事にいひせり、
また儀式解は、伊勢風土記を引て解たれど、終に 古跡今知がたし、但し後の考の為に愚考の旨をいはん、多氣郡逢麻村に、字古宮といふ所あり、是磯宮の古跡也、(此に伊蘇といふ地名ありし、齊宮式、神名式、多気郡伊蘇上神社司家公文抄、伊蘇之禰宜下文中万郷阿波曾村など見えたれば、古跡は麻村なるべき、)
或人の説、神名式度會郡 磯神社、和名鈔同郡伊曾あり、又 佐々夫江宮より宇治に還り給ふ順も、必度會郡に在て宜しければ、湯田郷小俣村に隣りたる磯村なるべしといふもあり(此村を磯と號するは、豊宮川の磯なる村なればなるべし、)と云り、」
此磯村なる八王子社ならんかとは、既に考証に云り、前件或人の説は、此磯神社にも及びれど、、解共に大神宮御鎮座の事を主として、社の考には至らず、そはとまれ、郡中 若干座の中に、社と榎村神社の二、両宮の所撰に洩れ給へるは、いかにと左に右に惑へる也、
儀式帳を考るに、皇大神國々々廻り給ひて、磯宮に坐し、夫より今の五十鈴宮に鎮りしなれば、必こなたに近く度會郡にぞ有べき、然れど其磯宮とし、行宮の地は、今知がたきよし、其所なる雅神主のいひ置しを、他國よりしていかが探るべき、されど礒神社は、かの磯宮の跡に建給し社には究めて違ふまじ、神名略記に、雷電官舎の両社は取出て注解ありしに、礒神社、榎村神社の沙汰に及ばざるは、不審の事にぞありける、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 磯神社について 所在 伊蘇郷磯村にあり〈現 磯神社(伊勢市磯町)〉と記しています

【抜粋意訳】

(イソノ)神社

今 伊蘇郷磯村にあり、神名帳考証 度會縣神社帳

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 磯神社について 所在 度會郡豊濱村大字磯村〈現 磯神社(伊勢市磯町)〉と記しています
旧地は宮川の氾濫で崩壊し 現在地に遷座したと記しています

【抜粋意訳】

磯神社 一云 伊蘇社

祭神
祭日

社格 外宮所攝 天喜應宣十八社之一 當今郷社(郷社)

所在 三重縣第一大區小七區伊蘇郷磯村(度會郡豊濱村大字磯村)
今按 舊地は宮川洪水にて崩壊せし故 今地に遷す 其跡を寶殿のわきと云り

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

磯神社(伊勢市磯町)ついて 皇大神宮・豊受宮の管攝する社のうちにはその名がみえず 様々な書籍から検証しています

【抜粋意訳】

〇三重縣 伊勢國 度會郡登濱村大字磯

郷社 磯(イソノ)神社

祭神 天照大神御霊(アマテラスオホミカミノミタマ)

相殿 二座 神名不詳

垂仁天皇二十五月の創建にして、地は後年(年代不詳)宮河氾濫して崩壊するに依り現社地に奉遷せし者なれ、其古蹟を殿の脇 又は 本殿の脇とす、
延喜の制式の小社に列す、
即ち神名帳考証に云く、「磯神社、倭名鈔云、伊蘇、今云ふ磯村八王子社乎、」
神名帳考証再考に云く、「宮川の邊に磯村有、 大己貴命を祀ると云ふはなし、前の例の如く御経行の地にして、暫止りましまし、倭姫命の南の方に善宮有との給ふ事跡(南北の方角あたれり)なれば、祀る所は後人の充たるにて、強て神名を需むべから、此社地 神名秘書に、多郡逢鹿村(字は古宮本)に在りといふ不可也、世記道路の順にもあら、其所より善宮所の見ゆべきにも非、南の方角もたがへれば、今の磯村なるべし」と、
神祇宝典に云く、「磯社者、伊勢大神之齋宮也、」
神祇志料に云く「磯神社、今伊蘇郷磯村にあり、
大日本地名辞書に、「伊蘇郷、今豊濱村北濱村是也、豊濱に大字磯あり、宮川の西岸、北は海、西は多氣郡に至る、南は小俣村に接す、延喜式、度會郡磯神社云々、按るに延喜式度會郡 磯神社  磯上神社あり、磯部姓は和銅 度曾神主と改め、其氏人の神宮に奉仕したる事は、日本紀 延暦儀式帳等に歴然たり」と見ゆ、
神社覈録には、「磯神社、磯は以曾と訓べし、和名鈔(郷名武)伊蘇(以曽)祭神在所等詳ならすと云ふ、連胤云く、当社と下なる榎村神社の事、当郡二所大神宮の別宮四社を除て、朝熊神社より以下四十四座の中、両宮儀式帳、また延喜大神宮式等に載る大神宮摂社廿四座(儀式帳に、官帳社廿五処とあれど、其中に瀧祭神社無御殿と見ゆ、然れば此神名式に載せす、故に廿四座也)、及葭原神社(此社儀式帳に、未官帳人田社の条に載す、大神宮式には載せす、猶其考は下なる葭原神社の処にいふべし)、度會宮摂社十六座(外宮儀式帳に、名社十六処とあり、其中に月夜見神社は別宮とする放に十五処となるが、俄にわかりがたし)、合せて四十一座の外、雷電官社の両社は離宮院の地に在す、両宮の摂社に準ふべし(神名路記再興の事をいへり)、抑齋宮寮式祈年祭神小社九十八座の中には、磯社榎村社も見えたり、然るに自余神宮の、諸書に出でざるは如何なる事にかあらん、按するに、磯神社は、垂仁天皇25年3月、随大神教、其祠立於伊勢國、因興斎宮于五十鈴川上、是謂磯宮、とある磯宮の趾に遺しし社ならんと思ふからに、故人の書を閲するに、古事記伝にくだくだしく書きたれど、磯宮はすなはち五十鈴宮の事にいひ尽せり、また儀式解は、伊勢風土記を引きて解きたれど、終に其古跡今知りがだし、但し後の考の為に愚考の旨をいはん、多氣郡逢麻村に、字は古宮といふ所あり、是磯宮の古跡也(此邊に伊蘇といふ地名ありしは、斎宮式、神名式、多氣郡伊蘇上神社司家公文抄、伊蘇之禰宜下文中萬郷阿波曾村など見えたれば、占跡は逢麻村なるべき)或人の説、神名式度曾郡磯神社、和名鈔同郡伊曾あり、又佐々夫江宮より宇治に還り給ふ、順も必度曾郡に在りて宜しければ、湯田郷小俣村に隣りたる磯村なるべしといふも拠あり〔此村を磯と號するは、豊宮川の磯なる村なればなるべし)」と云へり、
又云く「此磯村なる八王子社ならんかとは、既に考証に云へり、前件或人の説は、此磯神社にも及びだれど、伝、解共に大神宮御鎮座の事を主として、当社の考には至らす、そはとまれ、当郡中若干座の中に、当社と榎村神社の二処、両宮の所撰に洩れ給へるは、いかにと、左に右に惑へる也、儀式帳を考ふるに、皇大神國々処々廻り給ひて、磯宮に座し、夫より今の五十鈴宮に鎮りしなれば、必こなたに近く度會郡にぞ有るべき、然れど其磯宮と称し、行宮の地は、今知りがたし、其所なる経雅神主のいひ置しを、他國よりしていかが探るべき、されど磯神社は、かの磯宮の跡に建て給ひし社には定めて違ふまじ、神名略記に、雷電、官舎の両社は取り出て注解ありしに、磯神社、榎村神社の沙汰に及ぼざるは、不審の事にぞありげる」と付記す、
以て本社の梗概を知るに足らん、明治年郷社に列せらる、同四十一年無格社五社及び境内社清濱神社を合併す。

社殿は一宇にして、境内坪数七百八十一坪(官有地第一種)を有す。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

磯神社(伊勢市磯町) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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