竹佐々夫江神社(明和町大字山大淀)〈『倭姫命世記』佐々牟江宮〉

竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)は 倭姫命世記垂仁天皇22 佐々牟江宮を造営したと記され 又 眞名鶴の住む所に造営されたと伝わる八握穂社を合祀します 元々は佐々夫江橋付近にありましたが 後年現社地に移されたと伝えられる 延喜式内社 伊勢國 多気郡 竹佐佐夫江神社(たけささふえの かみのやしろ)です

Please do not reproduce without prior permission.

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

竹佐々夫江神社(Takesasafue shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県多気郡明和町大字山大淀 3004

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)

《配》大歳神(おほとしのかみ)
   栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

竹佐々夫江神社 由緒

 当社の社名「竹佐々夫江」の「竹」は、多気郡の意で、和銅六年、全国の一字名の郡名を二字にする政令により、「竹郡」を「多氣郡」とした。「佐々夫江」は後述するが、地名に由来すると考えられる。

倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に、垂仁天皇の二二年、皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉載し、 飯野高宮より五十鈴川上に行幸の折、佐々牟江に船を留め、その地に佐々牟江宮を造営、そして佐々牟江社を定められたとあり、その創始は垂仁天皇二二に遡るものと思われる

当社は『延喜式神名帳』多氣郡五二座に登載の式内社に比定され、江戸中期には知地の御前と呼称、佐々夫江橋付近に奉斎されていたが、後年現社地に移されたと伝えられる。

明治四〇年一二月、当社境内社の八握穂神社(やつかほじんじゃ)、山大淀天王の津島神社(つしまじんじゃ)二社を合祀し、大正元年に神饌幣帛料供進社に指定。尚、八握穂神社に関しては、垂仁天皇二八秋、日夜真名鶴が北より皇太神宮に飛来し、鳴き止まないので、倭姫命が不審に思い、鶴の行方を探すように足速男命(あしはやおのみこと)に下命、鶴は佐々夫江宮前の葦原の中に帰って行き、八百穂に茂る稲をくわえて鳴いていた。使者はこの旨を復命したところ、倭姫命は喜び、竹連吉比古(たけのむらじ よしひこ)(多氣郡の豪族)に命じて、稲を刈り取らせ、税(かけちから)として、その鶴の住む所に八握穂社を造営されたとあり、それが税(神宮へ稲を献上)の始まりとされる
伊勢神宮の末社であった

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容

【抜粋意訳】

佐々夫江(タケササブエノ)神社

此社は 太神宮本記、皇大神 飯野高宮を発て、櫛、魚見、眞名胡等幸行く、に其處 幸行して、佐々牟江御船泊給、共處佐々牟江宮造ますとある行宮の舊蹟にして、竹郷名、佐々夫江地名なり

神名帳考證に、大淀西與行部(ユクヘ)村之間小入江此有佐々夫江、と いへるか、山大淀河西江にすス所に其せれば、其江水 佐々夫江たる事論たず。然して考、諺、地志等今社亡しとふは麁(ソ)なり

勢陽雜記には、根倉村とあれど臆度なり

案内記、山大淀にます産、國誌、遺響、案内等これに随へり
大神宮蹟考に、里人、此山大淀村り二町許ありて、観福寺云宮寺あり、其處小社 二つあり、左八握穗社、右佐々夫江社なりくす
其地するに、其社地笹笛橋より巽位、上古江河の東涯たりし勢なり。古樹稠茂して千載の舊風あり。神殿に宇東西に並ヘり。土人は東を千々姫、又は千々御前と云ひ、西を佐々牟江社なりと謂ふ。恐くは東西を倒するか。但慈眼山観福寺と號するもの域に迫りて建てるか故に、其庭畔に神祠は あるが如し。併本社の遺存なる事異論なかるへし。
抑 山大淀と號する村邑は中大淀より出たる支邑なるに、舊祠の其處に存するは建置の前より在たるを卽ち産神と奉祀するにこそあらめ。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755

御由緒

「竹佐々夫江」の「竹」は多気郡の意で、佐々夫江は地名に由来する。
「倭姫命世記」に垂仁天皇の22年、皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉載し、 飯野高宮より行幸の折、佐々牟江に船を留め、その地に佐々牟江の宮を造営して、佐々牟江社を定められた。延喜式内社である。
明治40年、八握穂神社、津島神社を合祀し、 大正元年に神饌幣帛料供進社に指定された。明治初期には敬神社と称する宮座があり、1月2日に御頭神事が斎行され、毎年4月には境内で獅子舞の奉納があったが、いずれも現行されていない。

三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%E7%AB%B9%E4%BD%90%E3%80%85%E5%A4%AB%E6%B1%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)

[旧 神社 名称 ] 竹佐々夫江神社
[ふ り が な ]たけささふえの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takesasafue no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『倭姫命世紀(Yamatohime no mikoto seiki)』〈平安初期806~906頃の成立〉に記される伝承

延喜式内社 伊勢國 多気郡 竹佐佐夫江神社(たけささふえの かみのやしろ)について

垂仁天皇二十二年 皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉り 飯野の高宮より五十鈴川上に行幸された時 佐々牟江に船を留め そのに佐々牟江宮を造営したと記されます

その他 飯野高宮・櫛田社・魚見社・眞名胡神社佐々牟江社・大與度社・礒ノ宮の創建について記されています

【抜粋意訳】

二十二年 癸丑

飯野の高宮に遷りて 四箇年奉斎す この時 飯高ノ縣(サトツクリ)の祖 乙加豆知(ヲトカツチノ)命に「汝が国の名は何そ」と問ふ賜ふと「意須比(イスヒ)飯高」と申上げて 神田と並び神戸を進る 倭姫命は「飯高 志止(シト)白す事 (キイナリ)し」と悦び賜われた

 次に、佐奈(佐那)(サトツクリ)の祖 弥志呂(ミシロノ)宿祢命に「汝がの名は何そと」問ひ賜ふと 曰く許母理(コモリ)國 志多備(シタヒ)之 眞久佐牟(マクサム)(ケクサ)ムカウクニ)」と申上げて 神田  神戸を進

 又 大若子命に「汝がの名は何そ」問ひ賜ふと 曰く「百張蘇我(モモハルソカ)乃 五百枝刺(イホエサス)竹田之國」と申上げた そのに御櫛(オクシ)を(オトシ)給(タマ)われたので そのを櫛田(クシタ)号(ヨバレ)給(タマ)われたので 櫛田社を定め賜れた

 その所から御船に乗り給い幸行(ミユキナリタマフ)と 河後の江に到り坐(マシマス)時に (マナ)が自然り出て 御船に参乗(トヒノリ)ました 倭姫命は それを見て悦び給い その所に魚見社を定め賜れた

 その幸行に従うと 御饗(ミアヘ)を奉(タテマツル)(カミ)参(マヒ)り 相支(アヒタテマツリ)「汝がの名は何そ」問ひ賜ふと 曰く「白濱(シラハマ)眞名胡(マナコノ)國」と申された その所に名胡神社を定め賜れた

 又 乙若子(ヲトワカコノ)を以て 麻神草霊(ヌサクサ ヒトカタ等を進に 倭姫命解(ハラヘ)を令(メイジ)及に 陪従(シタカヘノヒト)に弓剱(ユミ ツルギを留めるに 兵器を共に入り座(マシマス)に 飯野高宮を遂に得たまへり 五十鈴宮に向かう それ以来 天皇太子(ミカドノミコ)は 斎宮(イツキミヤ)驛使(ムマノツカヒ)國司人等に至るまで 川辺で祓解(ハラヘ)をし 鈴声を止む これその儀の所縁

 その幸行に従うと 佐々牟江(ササムエ)に御船を泊め給い その所に 佐々牟江宮を造(ツクリ)令(シメ)坐(マシマ)し給われた 大若子命は「白鳥之眞」と國保伎(クニホギ)〈寿き〉曰く その所佐々牟江社を定め賜れた

 その幸行に従う間に 風浪は無く 盬(ウミノシオ) 大與度(ヲヲヨト)〈大淀に淀み 御船が幸行できた その時 倭姫命は び給い その大與度を定め賜れた

〔天照太神 誨を〈教へ賜い〉倭姫命に曰く「これ神風 伊勢国は 即ち常世の浪の重浪(シキナミ)(ヨスル)國なり 傍国(カタヘノクニ)可怜(ウマシ)國なり このに居(ヲラント)と欲ふ」と 太神の教への其の祠を伊勢因って立てるに 斎宮を五十鈴上に興す これをといふ 天照太神の始めて天より降りしなり〕

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

〈垂仁天皇二十八年秋〉竹佐々夫江神社に合祀される八握穂神社について 真名鶴が北より皇太神宮に飛来し 鳴き止まないので 倭姫命は鶴の行方を探させると 佐々牟江宮前の葦原の中へ帰り行き 八百穂に茂る稲を咥えて鳴いていた 倭姫命はこれを喜び 稲を刈り取り懸税とし 鶴の住む所に八握穂社を造営したと記されています

皇太神の摂宮 伊雑宮 八握穂(ヤツカホ)社について 創建の由来を記しています

【抜粋意訳】

二十七年戊午 秋九月

鳥の鳴声が高く聞えて 晝(ヒルモ ヨルモ)(ヤ)まず (カマヒスシ)かったので「此(コレ)(アヤシ)」と宣(ノタマフ) 大幡主命と舎人(ミヤツコ)紀麻良(キノアサヨシ) 使(ツカヒ)に遣って 彼(カ)の鳥の鳴く罷(マカリ)に行かせて見ると 島國の伊雑方(イサワノカタ)(カミノ)葦原(アシハラ)の中に 根本は一基で 末は千穂に茂ってゐた稲一基があった その稲を白き眞名鶴(マナツル)が咋(クイ)て廻(メグリ)ながら(ナキ)これを見顕(ミアラハス)すと その鳥の鳴声は止(ヤミ)かく返事を申された

 この時 倭姫命が宣(ノタマフ)て「恐(ヲソロシ)し 不問(コトトハヌ)鳥すら田(ミタソ)を作りて 皇太神に奉(タテマツ)れる物を」と詔して 物忌(モノイミ)を始められました 彼の稲を伊佐波登美神(イサハツミノカミ)抜穂に抜かしめて 皇太神の御前に懸久眞(カケクマ)に懸け奉(タテマツリ)(ハシメ)すなわち その穂を大幡主の女子(ムスメ)乙姫に清酒(カカミキ)に作らせ 御饌津(ミケツ)に奉(タテマツリ)(ハシメ)千税(チクラ)を奉(タテマツリ)(ハシメ)る事 茲に因る也 彼の稲の生(ウメル)(トコロ) 千田(チモトタ)となづけ 島國の伊雑方(イサワノカタ)(カミノ)在る その伊佐波登美神宮を造り奉り 皇太神の摂宮 伊雑宮がこれである 彼の鶴鳥を名づけて称すに大歳神同じ所に宛(オオナカラト)(ツカマツル)なり 又 その神は 皇太神朝熊の河(モリヘノ)の葦原の中に 石に坐(マシマス)神を小朝熊山嶺に社を造(タテ)り祝奉(イハイタテマツル)て坐す 大歳神と称するは是なり

又 明る年秋のころ〈垂仁天皇二十八年秋〉

 眞名鶴は 皇太神宮に當(アタリテ)天翔(アマカケリ)北より来て 日夜(ヒルヨル)(ヤマズ)に翔鳴(タケリナキ)に當(アタリテ)昼の始め 倭姫命は (アヤシミ)給(タマヒテ)足速男命(アシハヤヲノミコト)を使(ツカヒ)として罷(マカリ)に行かせて見ると 使が到(ユキテ)見ると その鶴は佐々牟江宮(ササムエノミヤ)の前の葦原の中に還(カヘリ)行きて鳴いてゐた 使が到(ユキテ)見ると 葦原の中稲本は一基で 末は八百穂(ヤホホ)に茂り生(ハヘ)ていた (クワヘ)(ササゲテ)持鳴(アラケナキ)  使が到(ユキテ)見て顕(アラハス)時 鳴声は止みて 天翔(ソラニカケル)事も止めた この時 かく返事を曰く申上げた

 この時 倭姫命は 詔ふに「恐し 皇太神入り坐(マシマス)鳥禽(トリケモノ)(トモニ)悦び 草木(クサキ)(トモ)相随(シナヒナビキ)(タテマツル)稲一本は千穂八百穂(チホヤホホ)に茂れり」と詔して 竹連(タケノムラジ)吉比古(ヨシヒコ)等に仰せて 先(ハツホ)を抜穂(ヌイホ)に半分(ナカラ)をくに 大税(オオチカラ)に苅られて 皇太神の御前に懸け奉り 抜穂は細税といひ 大苅は太半といひ 御前に懸け奉り よって 天都告刀(アマツノト)に「千税(チカラ)餘 八百税餘(ヤホチカラアマリ)」と称白(ホメモウシ)仕奉(チカエタテマツル)なり 因って その鶴の住に八握穂(ヤツカホ)社を造(ツクリ)(マツル)なり

 「伊鈴(イスズ)(ミカハ)の漑水道田(ミスナカラミタ)には 苗草敷かずして 作り養へ」と詔られた
 「朝御饌(ミケ)のの御饌(ミケ)の御田作る家田の堰水の道の田には 田蛭(タヒル)(ケガハラシ)ければ 我田には住まはせじ」と宣られた・・・・〔略〕

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用

延喜式内社 伊勢國 多気郡 竹佐佐夫江神社(たけささふえの かみのやしろ)の論社について

・竹佐々夫江神社(明和町山大淀)

・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈竹佐々夫江神社の論社〉の旧鎮座地〉

・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈竹佐々夫江神社の論社〉〉

スポンサーリンク

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄山田線 斎宮駅から北東方向へ約5.7km 車での所要時間は12~15分程度

鎮座地の山大淀について 明和町の公式HPに゛大淀、地名の由来は地形にあり !?゛という資料あり

「『倭姫命世紀』によると、大淀に関して次のように記述されています。

「…風浪無くして、海の塩大与度に与度美て、御船をして幸行せしむ。その時倭姫命悦び給ひて、その浜に大与度社を定め給ひき…」

 この神話が「大淀」という地名の由来になっています。

 さて、どうして倭姫命は大いに淀んだ海に喜んだのでしょうか。また、どうして淀んでいたのでしょ

うか。その謎を解くヒントが、実は地形に隠されています。」

とあり  昭和 23 年に撮影された古い航空写真をもとに、明和町の古代の海岸部の地形を推定している地形図が載せていますので参考に良いと想います

「現在の集落や遺跡は、砂堆や自然堤防の上にあり、比較的自然災害に強い場所に立地している」と記されていて 納得がいきます

文中の大淀の「大与度社」とは・竹大與杼神社(明和町大淀乙)のことです 別記事を参照ください

・竹大與杼神社(明和町大淀乙)

今回の山大淀の竹佐々夫江神社は 大淀の「大与度社」の近く 地形図の右下の辺りです

社頭は観福寺の東南にあり 社頭の向きは北東を向いています

竹佐々夫江神社(明和町大字山大淀に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから鳥居をくぐると 二の鳥居があり その先で参道は右に折れています

Please do not reproduce without prior permission.

社殿と境内は東南方向を向いていますので ほぼ直角に折れた参道となっています

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

境内は 隣接する観福寺と共有しているのか 境界線はわかりません

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛祭神在所等詳ならず゛〈所在不明〉と記しています

【抜粋意訳】

竹佐々夫江神社

竹は前に同じ、佐々夫江は假字也、

○祭神在所等詳ならず

○倭姫世記云、遂向五十鈴宮、〔中略〕從其幸行弖、佐々牟江御船泊給比、其処爾佐々牟江宮造令坐給支、大若子命白鳥之真野國止 國保伎白天、其処爾佐々牟江社定給支、又云、垂仁天皇廿六年秋之比、真名鶴皇太神宮、天翔從北來天、日夜不止、〔中略〕彼鶴佐々牟江宮前之葦原中還行鳴、使到見、葦原中生稻、本波一基為天、末八百穂茂也、〔中略〕同其鶴住処、入握穗社造祠也、

 云、按八握穂社者佐々夫江神社歟、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛今 大淀西に小入江ありて、其處に佐佐夫江橋といふあり、盖 舊地なり゛〈現 竹佐々夫江神社(明和町山大淀)〉と記しています

【抜粋意訳】

竹佐々夫江(タケササフエノ)神社

〔〇按 神名帳考証、今 大淀西に小入江ありて、其處に佐佐夫江橋といふあり、盖 舊地なり、姑附て考備ふ

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 竹佐々夫江神社について 所在は゛三重縣 (多氣郡大淀村大字山大淀 )山大淀村゛〈現 竹佐々夫江神社(明和町山大淀)〉と記しています

【抜粋意訳】

竹佐々夫江神社

祭神

 今按 倭姫命世記に從其幸行弖、佐々牟江御船泊給比、其 佐々牟江宮ヲ造リ令レ坐給支、其處爾佐々牟江ノ社ヲ定給支とあるを思ふに こも亦 天照大御神の御魂を祭れる御社なるべし

祭日 五月晦日 十一月十九日
社格 村社

所在 三重縣 (多氣郡大淀村大字山大淀 )山大淀村

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

竹佐々夫江神社(明和町大字山大淀 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2025 All Rights Reserved.