静岡県

劔刀神社(伊豆の国市戸沢)〈『延喜式』剱刀乎夜爾命神社〉

劔刀神社(たちじんじゃ)は 『伊豆国神階帳』に所載の「従四位上 たんかいの明神」で 延喜式内社 伊豆國 田方郡 剱刀乎夜爾命神社(つるきたち をやにのみことの かみのやしろ)の論社です 祭神について 剣刀乎夜爾命(たちおやにのみこと)とされますが 一説には 日本武命と草薙劔とも云われます

赤王神社(三島市大場)〈『延喜式』大朝神社・剱刀乎夜爾命神社〉

赤王神社(あかおうじんじゃ)は 昔は赤王明神と云い 赤王山に鎮座したが洪水に流れて現在の地に止り ここに祀られるようになったと云う 一説には 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)とも 延喜式内社 伊豆國 田方郡 剱刀乎夜爾命神社(つるきたち をやにのみことの かみのやしろ)ともされます

肥田神社(田方郡函南町肥田)〈『延喜式』引手力命神社の論社〉

肥田神社(ひたじんじゃ)は 明治44年(1911)村社 若宮神社に村社 皇后神社を合祀して 肥田神社と改称 本来の祭神については 皇后神社〈三島大神の妃 阿波咩命〉若宮神社〈阿波咩命の御子神 肥田王子〉と伝わり この肥田王子は 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とされます

引手力男神社(伊東市十足)〈『延喜式』引手力命神社〉

引手力男神社(ひきたぢからおじんじゃ)は 社伝には 往昔 第42代文武天皇の御代(697~707年)役小角が大島に遠流の折 手力山に来て通法を修業した由が記され 手力山の中に石造りの小祠が建立されていたと伝わる 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)の論社です

伊加麻志神社(伊豆市堀切)〈『延喜式』伊加麻志神社〉

伊加麻志神社(いかましじんじゃ)は 益山(ましやま)の山上にある益山寺〈空海の創建〉の境内背後に鎮座し『伊豆国神階帳』には「従四位上 高山の明神」と記されている古社です 江戸時代には三島明神と称されていました 延喜式内社 伊豆國 田方郡 伊加麻志神社(いかましの かみのやしろ)に比定されています

神益麻志神社(伊豆の国市神島)〈『延喜式』伊加麻志神社・大朝神社の論社〉

神益麻志神社(かんますましじんじゃ)は 創建年代は不詳です 式内社 大朝神社の論社〈神益村の駒形神社〉で 祭神 長白羽命は麻の神で 社名にも゛麻゛があります 又 式内社 伊加麻志神社については『伊豆國式社考』に「中島村神益村ト同村ナリ コノ里ノ神社カ 又湯ケ島ノ神社カ 益山ノ神社カ」とあり 論社となっています

鷲頭神社(沼津市大平)〈『延喜式』大朝神社の論社〉

鷲頭神社(わしづじんじゃ)は 社伝には 文明元年(1469)伊予国より御祭神 高龗神を神主 磯部伊代守と共に勧請 戸ケ谷 堂返し横に奉安 文明一三年(1481)鷲頭山頂を造成し遷宮 明治七年(1874)天満山(現在地)に遷座と云う 一説には延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)と云われます

大宮神社〈白岩大朝神社〉(伊豆市上白岩)〈『延喜式』大朝神社〉

大宮神社(おおみやじんじゃ)は 正面方向に縄文時代の゛上白岩遺跡゛があり 地名も゛元村゛の名があり 当地方での最古の歴史をもつ神社であると云われます 弘安三年(1280)の棟札がある古社で 旧 下大見村の里人から大朝神社と崇敬される 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)の論社です

楊原神社(沼津市下香貫宮脇)〈『三代實録』楊原神『延喜式』名神大社 楊原神社〉

楊原神社(やなぎはらじんじゃ)は 社記に當社は延喜式内社 伊豆國 田方郡 楊原神社(名神大)(やなきはらの かみのやしろ)と云う 往時は大宮大明神又は香貫大明神とも称していて 往古の社地は 今の楊原(現在地の東南東約500m)でしたが永祿中 北條•武田合戰の時 社殿悉く燒失し 其後 天正年中 今の社地に遷座しました

大朝神社(沼津市下香貫山宮前)〈『延喜式』大朝神社・白浪之彌奈阿和命神社〉

大朝神社(おほあさじんじゃ)は 楊原神社の山宮大明神とも云い 社記には 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)と伝えます 又 往昔 此邊には 津浪が押上げ 田園を荒すことが多かったが 日蓮上人がこの地を過ぎる時 曼陀羅を掛けて祈り 靈驗により 津浪の害を避き 潮留大明神とも称されました

大瀬神社(沼津市西浦江梨)〈『延喜式』引手力命神社・白浪之彌奈阿和命神社〉

大瀬神社(おおせじんじゃ)は 白鳳十三年(684)大地震で 土佐国で多くの土地が海中に没し 当地では突然 盛り上がり島が誕生した 土佐国から土地を引いてきた伝説もあり その神霊(引手力命)を祀った 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とも 白浪之彌奈阿和命神社ともされます

下多賀神社(熱海市下多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉

下多賀神社(しもたがじんじゃ)は 『豆州志稿』に「多賀両村の總鎮守にして大祠也 末社四十ありしを 皆 近村に移す」とあり 近隣の崇敬を集めた由緒深い神社で もともとは多賀大社と云うと里人は伝え 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社となっています

天地神社(田方郡函南町平井)〈『延喜式』阿米都瀬氣多知命神社の論社〉

天地神社(てんちじんじゃ)は 延喜六年(906)創建 棟札に平安時代前半 伊豆山大権現から遷したとあり 稲作の豊作を願い 天(天候)地(土 地方)の恵みを祈願し 天地大明神と称したが 天地神社と改称(明治六年) 延喜式内社 伊豆國 田方郡 阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)の論社です

気多神社(沼津市内浦三津)〈『延喜式』阿米都瀬氣多知命神社・井田神社の論社〉

気多神社(きたじんじゃ)は 社記によれば 貞観元年(859)に当地に鎮座したと云い 祭神は意氣長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉とされます 二つの式内社〈阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)・井田神社(ゐたの かみのやしろ)〉の論社となっています

井田神社(沼津市井田)〈『延喜式』井田神社・『伊豆國神階帳』ゐたの明神〉

井田神社(いだじんじゃ)は その歴史は古く 慶長12年(1607)の上梁文には゛井田荘七箇村鎮守 井田明神゛とあり 『伊豆國神階帳(康永2年(1343)』には゛従四位上 ゐたの明神゛ さらに『延喜式927 AD.』には 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)と所載される由緒を持ちます

久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)

久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けた旧蹟の地と云い 功績のあった副将軍の吉備武彦命が 後に廬原の国を賜った時に この地に尊を祀り社殿を造営 創祀した 又 日本武尊の東征に随伴の九万八千の諸神を祭祀奉る所として゛九萬八千社゛とも云い 古くは九万八千の幣帛を奉り 昭和までは九十八本の幣帛を奉っていたと社傳に云う

古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉

古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります

草薙神社(静岡市清水区草薙)

草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています

駒形神社(御前崎市御前崎)

駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

白羽神社(御前崎市白羽)

白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

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