島根県

奴多之神社(松江市大垣町)

奴多之神社(ぬたしじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「奴多之社(ぬたし)のやしろ」とされています 高姫命が女嵩野山に降臨なされた際 猿田彦命はみずから船の艫をとり大神をお導きになられ のち高姫命は嵩野山に 猿田彦命はこの地に鎮座されることとなり 故に この社を古人は艫取大明神と呼び崇敬していると伝わります

森清神社(松江市大垣町)

森清神社(もりきよじんじゃ)は『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「阿之牟社(あしむ)のやしろ」の里宮とされます 明和4年(1767)に里宮として創建され 地区の名にちなみ呼称されるようになった 阿之牟社は 本来山一帯をご神体とする神社で 山中の中腹に本宮とされる巨岩が鎮座します

内神社(松江市大垣町)

内神社(うちじんじゃ)は 『出雲國風土記』の「宇智社」・『延喜式神名帳』の「内神社」に比定され 出雲国二大社(出雲大社・佐太神社)の支配を受けない「一社一例社」の特例を中世から継続して来た格別の神社で 江戸時代は松江藩四所祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)のひとつでした 創建は霊亀元年(715)高野山の頂に光輪を見て神垣を結んだとされ 養老元年(717)今の宮地に移し宮殿を再興したと伝わる

五十田神社(松江市古志町)

五十田神社(いそだじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 大井社です もとの鎮座地は現在地の東方にあった佐太水海の沖の大井の輪と言われる浜にあったが 洪水により社殿が西の丘麓の大井垣の輪に漂着し大井神社と称した 更に現在地の磯田に遷座し磯田神社となり 『日本書記』にある武甕槌命・経津主命が「出雲の国護りの舞台」五十田狭の小汀に天降ったのは ここなりとしての両神を祀り 五十田神社と改称した

惠曇神社(鹿島町佐陀本郷畑垣)&畑垣神社〈惠曇神社に合祀〉

惠曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命(いわさかひこのみこと)を御祭神としています 神名の「磐坂」は「磐境(いわさか)」と同義とされ 「座王さん」と呼ばれる当社境内に鎮座する磐座を神名として象徴化したものと考えられています 『出雲國風土記 733AD』所載の「恵杼毛社 (えとも)のやしろ」「毛之社 (もし)のやしろ」の論社とされています

惠曇神社(鹿島町恵曇)

恵曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命〈須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子〉を祀り 『出雲國風土記 733 AD』所載の神祇官社「惠杼毛社(えとも)のやしろ」の論社です また境外社の恵曇海辺神社は『出雲國風土記』所載の不在神祇官社 二ヶ所の論社となっています

垂水社〈国司神社に合祀〉&國司神社(松江市西長江町)

國司神社(くにしじんじゃ)は 慶長年間(1596~1615)に旧社地 本国司より 現今の社地へ奉遷しました 垂水社〈国司神社に合祀〉については 明治41~42年(1908~1909)に往時 垂水社(式内社)を合祀してある西長江の新宮 東長江の姫二所 日御碕 天森の四社がこれに合祀された

御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地(松江市秋鹿町)

御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地は 現在の秋鹿神社の南方 約100m程の位置に神井があったと伝承があります〈現在は民家が建つ〉

秋鹿神社(松江市秋鹿町)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉

秋鹿神社(あいかじんじゃ)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉は 御祭神の秋鹿日女命(あいかひめのみこと)の名から『出雲國風土記(733年)』の秋鹿郷の名の由来とされています 所載社として「秋鹿社(あきか)のやしろ」と〈秋鹿神社に合祀〉の「御井社(みい)のやしろ」の二つの論社とされます

手間天神社(松江市竹矢町)〈少彦名神の神廟〉

手間天神社(てまてんじんしゃ)は 少彦名神の神廟と伝えられます 社名の手間天神とは 記紀神話にある「神産巣日神の手の指の間から落ちた天神」の名を冠します 733 AD出雲國風土記に所載の不在神祇官社「米那為社(まない)のやしろ」の論社とされています

八重垣神社(松江市佐草町)

八重垣神社(やえがきじんじゃ)は 八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)伝説 ゆかりの地です スサノヲノミコトと国の乙女の花と歌われた櫛名田比売命(クシナダヒメ)の夫婦が御祭神で 恋愛成就の大神として知られる聖地です

佐久多神社・韓國伊太弖神社〈来待本宮に合祀〉&来待本宮(松江市宍道町)

来待本宮(きまちもとみや)は 月夜見神を祀ります 勧請創立年代は 後奈良天皇の天文年中(1532~1555)とされ 明治41年(1908)配祀神の上来待 佐久多(佐久良=佐倉)に鎮座の佐久多神社と同社坐韓國伊太弖神社を本社に合祀しました

三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉

三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉は 出雲国風土記 延喜式には見えないが元祇園社と称し 貞観18年(876)この地方に流行した悪病の平癒を祈願して京都より勧請 祇園社を氷川神社と改称し 明治7年 猪道山にあった三崎神社(完道社)及び町内にあった客社 恵美須社焼火社を合祀して宍道町の氏神となった

比婆山久米神社(安来市伯太町)

比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は 古事記に「かれその神避りし伊弉那美の神は 出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺 比婆の山に葬りき」と 国生みの母神〈伊弉那美の神〉は比婆山の山頂に埋葬されたと記されていて 今でも 御神陵と言い伝えられる古い塚があり 山頂の奥宮と麓の里宮が鎮座します 

久多美神社〈忌部神社(松江市東忌部町)に合祀〉

忌部神社(いんべじんじゃ)は 平安朝に忌部神戸内鎮座の二十二社を合祀し 二十二社総権現 総社大宮大明神と称し 明治44年(1911)一村一社との政府の指示に基き「式内 村社 久多美神社(御祭神 大穴穿遲神外三神)」無格社山智神社(御祭神 事解男神外一神)無格社七次神社(御祭神 國常立尊外十四神)無格社素鵞神社(御祭神 素盞鳴命)を合祀して社名を忌部神社と改称

勝日高守神社(安来市広瀬町富田)

勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)は 月山山頂の富田城の本丸跡の奥に鎮座し 城の守護神社として歴代城主の信仰が厚く 特に尼子氏はたいへん熱心でした 「古事記」にも記載があると伝えられ 築城以前から所在していて 里宮(富田八幡宮)に対して山頂の奥宮とされています

大山代神社(松江市西津田町)

大山代神社(おおやましろじんじゃ)は 西津田に古くからあった2つの神社(大山代神社と大山神社)が それぞれ鷹日神社に合祀された後 昭和48年に統合され 現在の場所に新社殿が建てられました 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「山代社(やましろ)のやしろ」の論社ともされています

剣神社(松江市八雲町)

剣神社〈劔神社〉(つるぎじんじゃ)は 男神イザナギノミコトが黄泉の国から剣を抜き打ち振って この地まで逃れたという言い伝えから 鎮座地を「剣山」と呼びます 本殿南側斜面の山中には黄泉坂への穴があり 入った人は帰ってこないと言われています 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「詔門社(のりと)のやしろ」の論社です

福富神社(松江市乃木福富町)

福富神社(ふくとみじんじゃ)は 鳥居松に御鎮座あったのを永享年中、社地替をしたといわれ 其後 正保元年(1644)雷火により現地社殿が焼け旧記録等も焼失して以前のことは口伝による以外には知ることが出来ません 出雲風土記に御当社とおぼしき社名が載っていて 当時すでに御鎮座あったことがうかがわれます

野白神社(松江市乃白町)

野白神社(のしらじんじゃ)は もともとは 舳田山(現・田和山)に鎮座しましたが 毛利氏と尼子氏の戦で焼失し 宝物などすべてを失います 慶長十六年(1611)に現社地に遷座したと伝わります

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