名神大社〈延喜式内〉

山宮神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈浅間神社の〈本宮〉旧鎮座地〉

山宮神社(やまみやじんじゃ)は 浅間神社の゛創祀の地 本宮゛とされます  垂仁天皇の御代〈二千年以上前〉この地〈神山の麓〉に三柱の神を勧請〈現在は二柱・大山祇神・天孫瓊々杵命を祀る〉残る一柱 木花開耶姫命は〈貞観七年(865)遷座〉現在は 里宮〈現 浅間神社〉に祀られ 毎年3月に厳かに山宮神社へ神幸が行なわれています

住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『日本書紀』に記される 神功皇后が三韓征伐より凱旋の折 神託を得て 住吉三神の荒魂(あらみたま)を穴門 山田邑(現在地)に奉斎したとこれが住吉神社の起こりとされます 式内社 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしにゐますあらみたまの かみのやしろ みくら)・長門国一之宮です

若久住吉神社(福岡市南区若久)

若久住吉神社(わかひさすみよしじんじゃ)は 「御鎮座は 遠い遠い神代のことで年代を定めることは出来ませんが 全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです」と由緒にあり 式内社 住吉神社 三座(並 名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)とする説 筑前国福岡藩初代藩主 黒田長政によって江戸期前期頃の創建造営とする説もあります

住吉神社(福岡市博多区住吉)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 延喜式神名帳に所載「筑前国那珂郡 住吉神社三座 名神大」とされ 筑紫国一之宮です 社伝には 伊弉諾尊が黄泉國から戻り祓い清めた地「筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」〈住吉三神の御出生の地〉とされ神代より此地に鎮座 後に 神功皇后が三韓征韓の途中に祭祀を行ったので 住吉本社 又 日本第一住吉宮と伝えています

住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています

兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)

兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています

月読神社(京都市西京区松室山添町)

月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています

男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)

男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です

月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)

月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます

箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)

天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です

天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした

香取神宮 奥宮(香取市)

香取神宮 奥宮(おくのみや)は 御祭神として 経津主大神の荒御魂を祀ります 香取神宮の境内域は「亀甲山(かめがせやま)」と呼ばれる台地に鎮座していて その頂上付近を通る香取神宮の旧参道の中程に 奥宮は鎮座しています 現在の社殿は 昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものです

香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

速谷神社(廿日市市上平良)

速谷神社(はやたにじんじゃ)は 正史上に初見するのは古く『日本後紀』弘仁2年(811)7月 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神例に預かったと記されます 古代 神祇官〈朝廷〉から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社で 安藝一之宮でしたが 厳島神社が平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます

松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)

松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)は 平安時代末~鎌倉時代初めに 京都石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり 元暦2年(1185)源頼朝の下文に「松崎別宮」と記されます 江戸時代には 境内 たけい社を『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)であると主張して総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった松崎八幡宮の旧跡です

総社跡(安芸郡府中町本町)

総社跡(そうじゃあと)は 安藝国 府中の在庁官人(ざいちょうかんにん)となった田所氏が平安時代終わり頃に創建した総社と思われます 江戸時代には『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)の所在をめぐり南部の八幡社と総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった総社の旧跡です

多家神社(安芸郡府中町宮の町)

多家神社(たけじんじゃ)は 延喜式に載る 安藝国 名神大社 多家神社(おほいえの かみのやしろ)の後継社です 中世になると社運が衰え 江戸時代には南氏子(松崎八幡宮 まつざきはちまんぐう)と北氏子(総社 そうじゃ)が 互いに多家神 埃宮を主張して論争対立が絶えず 明治六年(1873)松崎八幡宮と総社を合わせ現在の社地「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社を復興したものです

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