石川県

滓上神社(小松市中海町)

滓上神社(かすかみじんじゃ)は 社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり もと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 明治二十二年(1888)ここ森山の高台に遷座しました 発祥の地は ここから東南へ2km程の゛奥の宮゛とされ 延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社です

能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について

能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

加賀國(かがのくに)の 式内社 42座(並小)について

加賀国(かがのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 加賀国には 42座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

石部神社(小松市古府町)加賀国 総社〈惣社〉

石部神社(いそべじんじゃ)は 加賀国の誕生にかかわる古社です 弘仁14年(823)3月 越前国から分割して加賀国ができた際 その国府庁の南に 当社が 府南社と称して すでに祀られていたと伝えられます ここから加賀国の一之宮であるとも 加賀国総社であるともされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社です

能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮

能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています

気多御子神社(小松市)

気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です

宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う

宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します

鎌宮諏訪神社(中能登町金丸)鎌打ち神事

鎌宮諏訪神社(かまみやすわじんじゃ)は 社頭に鳥居がありますが 社殿や本殿はありません 境内に玉垣が巡らされたご神域があり その中に御神体として 御神木「タブの木」が祀られています この御神木には 特殊な「鎌打ち神事」という神事があり その祭典は「日足鎌」とも「左鎌」とも呼び 2丁の鎌を タブの神木に打ち込む神事です 由来は 神代の昔 大巳貴命〈大国主命の別名〉と少彦名命の2柱神と力を合わせて 御祭神の建御名方命(タケミナカタノミコト)〈大巳貴命の御子神〉が この鎌で道を開いて 村人を苦しめていた毒蛇や化鳥を退治したことにちなむとされます  

能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります

能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます

天神神社(羽咋郡志賀町穴口)

天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります

八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります

身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました

久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)お熊甲祭(おくまかぶとまつり)の社

久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)は 日本中でも長い名前の神社の部類になると思います 地元では「おくまかぶと」と称されて お熊甲祭りでも有名です 御祭神は 久麻加夫都阿良加志比古神(くまかぶとあらかしひこのかみ)と都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の2柱の神を祀っています この神々は 韓国(カラクニ)の王族だと伝わり 阿良加志比古神については 地神とも言われたり 3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅国の王族とも言われています

大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります

大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています

宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります

宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります

阿良加志比古神社(七尾市)

阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります

能登比咩神社(中能登町)神代より伝わる「能登上布」を生み出した二柱の織姫(オリヒメ)を祀ります

能登比咩神社(のとひめじんじゃ)は 神代の時より伝わる伝統の麻織物「能登上布〈上等な麻織物〉」を生み出した 二柱の織姫(オリヒメ)〈・能登比咩命・沼名木入比賣命〉を能登上布の祖として祀ります 又 同じく能登部に鎮座する能登部神社を兄宮と呼び 当神社 能登比咩神社を妹宮と呼びます

宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります

宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます

気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社

氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています

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