伊勢125社

志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

賀多神社(鳥羽市鳥羽)

賀多神社(かたじんじゃ)は 聖武天皇の神亀元年(724)の御鎮座と云い 古くは八王子社と称されていましたが 明治四年(1871)郷社 賀多神社と改め 明治四十年に近郷の十二社を合祀して今日に至っています 豊受大神宮(外宮)末社の赤崎神社の旧跡とも伝わっています

赤崎神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

赤崎神社(あかさきじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の末社です 建久年間(1190~1199年)の皇太神宮年中行事〔贄海神事 六月十五日條〕に゛悪志(アクシ)・赤崎(アカサキ)加布良古(カブラコ)明神を祭る゛と記されています 御祭神は 荒崎姫命(あらさきひめのみこと)贄海〈海の海産物を捧げる〉の守り神とされています

棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります

御船神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟彌乃神社(内宮末社)〉

御船神社(みふねじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟弥乃神社(むみのじんじゃ) (内宮末社)〉は 2社ともに゛倭姫命が祝ひ定め給ふ所゛と伝わります ともに中世に廃絶してしまいますが 御船神社は寛文三年(1663)の再興 牟弥乃神社は 御船神社の附近にあったとされますが確定されず明治四年(1871)に 御船神社に御同座奉祀されました

川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

川原神社(かわらじんじゃ)は 『倭姫命世紀』によると倭姫命が宮川の上流から此の邊りを御通過の時 澤道(さはち)の野原を「澤道の小野(さはちのをの)」と名付け祝ひ定められた神社と云う 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)゛と記される古社で 皇大神宮(内宮)の摂社です

松下社(伊勢市二見町松下)

松下社(まつしたやしろ)は 倭姫命御一行が二見を訪れ 船を泊められたことから 御船社とも云うとの伝承を持つ古社 現在の神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉の旧地とも伝わる為 延喜式内社 伊勢國 度會郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)の旧鎮座地とされます

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)

神前神社(こうざきじんじゃ)〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)・荒前神社(あらさきじんじゃ)〉は 3社ともに『皇太神宮儀式帳(804年)』に所載の古社 中世頽廃し廃絶の後 寬文三年(1663)松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」再興〈儀式帳所載の舊地ではない〉其の後 高浪により山上に移転 さらに明治40年(1907)に現在地に移轉され2社が御同座したものです

久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)摂社として『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛久具神社一處゛(クグノヤシロ ヒトトコロ)と記載される古社 かつては正殿が三區あったとされ゛一區は久々都比女命の御形(ミカタ)を齋(イハ)ひ ー區は久々都比古命を齋ひ 又一區は前社にて 右の神 の御蔭(ミカゲ)を祭奉る゛とあります

山末神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

山末神社(やまずえじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』には゛山末社(やまずえのやしろ)゛とあり 『延喜式神名帳〈927 AD.〉』には 伊勢國 度會郡 山末神社(やますえの かみのやしろ)と記載されます 中世に廃絶し 廃亡した為 寬文三年(1663)に旧地が判明せず 現在地に再興されたものです

伊我理神社〈御同座 井中神社〉〈豊受大神宮(外宮)末社〉

伊我理神社(いがりじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載のある古社〈豊受大神宮(外宮)末社〉です 中世に頽廃しますが 寬文三年 (1663)舊地に再興されました “鍬山伊賀利神事”に深く関わりがある伊我理比女命が祀られています 御同座するのは 同じく(外宮)末社の井中神社(いなかじんじゃ)が坐ます

度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です

田上大水神社〈御同座 田上大水御前神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)・御同座 田上大水御前(たのえおおみずみまえ)神社は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載ある古社ですが 中世に頽廃してしまい 権禰宜 出口延良が承応元年(1652)度会四門の氏人らとともに現地に再建したものです 寛文三年の再興では取り上げられず 明治四年の神宮御改正までは氏人により社殿の造替えが続けられました

上宮古神社(玉城町宮古)

上宮古神社(かみみやこじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説があります 江戸時代末期の国学者 御巫清直(みかなぎ きよなお)〈1812~1894年生没〉は 廣泰寺寺地を比定地としています

奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

奈良波良神社(ならはらじんじゃ)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』゛楢原神社 大水上の兒 那良原比女(ナラハラヒメ)命を祀る 倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と記される古社です 中世に頽廃しますが 寛文3年(1663)大宮司 大中臣精長によって再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の論社です

八尋殿・神麻續機殿神社(松阪市井口中町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神麻續機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 八尋殿(やひろでん)の守護神゛神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)゛を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した荒妙(あらたえ)(麻)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます

八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします

御鹽殿・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉

御塩殿神社(みしおどのじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 元来 御酒殿神又は由貴御倉神と同じく 独立の神殿を設けず 御鹽殿内に奉祀されていました 後世に至り 別に神殿を造立し 現狀と為します 御塩殿(みしおどの)では 三角錐の土器型に荒鹽(あらしお)を入れ 忌火で焼き固めた堅鹽(かたしお)を作り これを御鹽(みしお)と云い 神宮に調進します

御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます

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