延喜式神名帳

志賀神社(対馬 鹿ノ島)

志賀神社は 浅茅湾に浮かぶ小さな島「鹿ノ島(シカノシマ)」に鎮座します 島全体がご神域となっているとされ 社殿は 下の檀に拝殿 小高い檀には 森に囲まれて本殿 社殿はともに西向きに建てられています 鳥居は 社殿の前に西を向くものと 南を向いて建つ鳥居〈参道か〉の2基が見えます 祭神にワタツミの神を祀り 福岡の志賀島に鎮座する志賀海神社との関係について脳裏をよぎります

那須加美乃金子神社(対馬 志多賀)

那須加美乃金子神社(なすかみのかねこじんじゃ)は 上対馬町 小鹿にも 同一名称の神社があり どちらも『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 当社 峰町 志多賀では 祭祀用の大形の勾玉や 祭祀に使用したと思われる弥生時代の祭祀器として 青銅矛が13本保存されていました さらに弥生時代の遺蹟や古墳があり これらが決め手となり 式内社として有力な比定社となっています

高御魂神社(対馬 豆酘)

高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました

住吉神社〈志賀明神 合祀先〉(対馬 東里)

住吉神社は 対馬 厳原港のシンボルとして 東岸にそそり立つ「立亀岩(タテガミイワ)」の横に鎮座しています 住吉神社は3柱の住吉神を祀ります  又 合祀された志賀明神は 3柱の綿津見神(ワタツミノカミ)を祀る式内社の論社で 以前は 厳原港の西岸の志賀ノ鼻と呼ばれる場所に鎮座していました 厳原港は かつて東に「住吉神」西に「綿津見神」を祀る 航海の神の湊であったのでしょう

雷神社(対馬 豆酘)亀の甲羅を熱して占う 亀卜(キボク)の社

雷神社(いかづちじんじゃ)は 天下国家の吉凶を亀の甲羅を熱して占った「 亀卜(キボク)」を日本に伝えた〈対馬卜部(ウラベ)の祖〉雷大臣命(イカツオオオミノミコト)が御祭神です かつて大和朝廷では 757年『養老令』に「卜部20人」と定員が規定され 927年『延喜式』巻3「臨時祭 卜部 宮主の条」には その術者「卜部(ウラベ)」には 優秀な者を 伊豆5人 壱岐5人 対馬10人を採用すべし と記され 国家の「亀卜」は 対馬卜部が中心でした 神社では 旧歴 正月3日 サンゾーロー祭りがあり その年を卜います  亀卜が 現代まで続く唯一の神社です

雷命神社(対馬 阿連)

雷命神社(らいめいじんじゃ)は 対馬の亀卜(キボク)の祖神 雷大臣命(イカツチノオオオミノミコト)あるいは 御子の日本大臣命(ヤマトオオオミノミコト)の住まいの跡と伝わる古社です 一方で 対馬の天道信仰や水神信仰とも習合して 御祭神は「水神・男神」ともされ 阿連川の河口近くに鎮座し 阿連川の上流には「太陽神」の御日照り(オヒデリ)さまという女神が鎮座しています

〈播磨國一之宮〉伊和神社(宍粟市一宮町須行名)

伊和神社(いわじんじゃ)は《社伝によれば》伊和の恒郷に「我を祀れ」とご神託があり 一夜のうちに草木生い茂り 空に多くの鶴が舞い 石上に大きな鶴が二羽眠っていた そこに社殿を造営したのが 成務天皇 甲申歳2月11日丁卯(144年) 或いは 欽明天皇25年甲申歳(564年)と伝えており『延喜式』名神祭の大社で 播磨国一之宮でもあり 由緒ある古社です

志多留能理刀神社(対馬 伊奈)

志多留能理刀神社(したるのりとじんじゃ)は 対馬の稲作の発祥伝承〈伊奈に 白い鶴が飛来して稲穂を落とし それを志多留の榎田に植えたのが 対馬での米作りの始まり〉を持つ式内社の「伊奈久比(イナクイ)神社」の山麓にある 湿地帯の小高い地 伊奈の志多留に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 行相神社」の論社です

天諸羽神社(対馬 一重)

天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 対馬の上縣の東海岸 県道39号沿い 上対馬町一重の港に注ぐ川の河口に鎮座しています

霹靂神社(対馬 浜久須)

霹靂(ヘキレキ)神社は 「青天の霹靂(セイテンノヘキレキ)」で使われる「雷が激しく鳴ること」を意味する「霹靂」を社号にしています 三韓征伐から凱旋した神功皇后と伴に 御祭神の雷大臣命〈中臣烏賊津(ナカトミノイカツ)〉が 帰還し 上陸したと伝わる地「浜久須」に鎮座してます 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋 上縣郡 能理刀神社」の論社です

天諸羽神社(対馬 吉田)

天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 対馬の卜部の系列の神社とされ その卜術は 亀の甲羅を火に焙って 占を行う「亀卜」と呼ばれるもので 神功皇后に従って三韓に渡り 帰途 対馬に留って縣直(あがたのあたい)となった 中臣鳥賊津使主が 亀卜の法を伝えたといわれ 対馬では 雷大臣命として卜部の神社に祀られています 当神社も卜部の関係した『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社」の論社です

能理刀神社(対馬 西泊)

能理刀神社(のりとじんじゃ)は 社伝によれば「神功皇后が新羅征伐の時 海上安全 戦捷祈願 行宮の古跡の社であり 延喜式神名帳に 能理刀社・・・亀卜所 占祈祷の神霊神をまつる古社とされています この権現山は 古神道の霊神山で 中世に至り 熊野系の修験道者山伏が 入山して修練した 亀卜所であったとされている 」又「文永11年(1274)元寇の時 三所大権現神に祈れば 荒神権現山の中腹より 神石三ツ飛出し来りて 異賊船を打砕き給ひて 浦合の村人を助け給うた神石」とあります

住吉神社(対馬 鶏知)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています

胡禄神社(対馬 琴)

胡禄神社(ころくじんじゃ)は 琴(キン)地区に鎮座し 伝説では 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐への出陣の際 琴崎東沖を過ぎて 御船の碇が海底に沈んだ時に 舵取りの「安曇磯武良(アズミイソラ)」=〈御祭神 磯武良(イソタケラ)〉が 海中に入って 御船の碇を取り上げたと伝わります まさしく海神(わたつみのかみ)を祀ります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 「胡禄御子神社」或いは「和多都美御子神社」であるとの説もあります

島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉

島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影

和多都美神社〈鷄知住吉神社 境内脇宮〉

和多都美神社(鷄知)は 鷄知住吉神社の本殿の脇に鎮座する境内社です 但し 住吉神社の本殿に祀られる御祭神を考慮すると 本来は 住吉神の・上箇之男命・中箇之男命・底箇之男命「墨江之三前大神」の筈ですが 和多都美神の系統である・鵜葺草葺不合尊・豊玉姫命・玉依姫命が 本殿に祀られていて 脇宮と本殿が入れ替わったのではないかとの説もあります

行相神社(対馬 田)

行相神社(ゆきあいじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 行相神社(ゆきあいの かみのやしろ)」の論社とされています 鎮座地は 豊玉町 田ですが この地は もともと 寛元4年(1246)以前は 上県郡に属していたとしています

小牧宿禰神社(対馬 三根)

小牧宿禰神社(おひらすくねじんじゃ)は 現在の御祭神を天菩比命(アメノホヒノミコト)の御子神「建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)」であるとしています  一方 社号とされている神号「小牧宿禰命(ヲヒラスクネノミコト)」は 六国史『日本三代実録 901年成立』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)」とあり『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には「小枚宿祢命神社(をひらすくねのみことの かみのやしろ)」と所載されています こちらが本来の神であろうとされています

伊奈久比神社(対馬 伊奈)

伊奈久比神社(いなくひじんじゃ)は 由緒書きには 白鶴が 伊奈の原に 稲穂を落とし その所を穂流川と云う 里人がその穂を取り 榎田に植えて 御食(ミケ)として神田(カンダ)としたのが 対馬の稲作の起りで それで「伊奈(イナ)」という地名となった「穂落し神」として「大歳神」を祀ると伝わります

那須加美乃金子神社(対馬 小鹿)

那須加美乃金子神社(なすかみのかねこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 由緒書きには「素戔嗚尊 五十猛命を卒い〈引き連れて〉八十木種〈沢山の木の種〉を持ち 韓国 曽尸茂利(ソシモリ)の地に往(ユ)き その地には植えさせたまはずに この山に植えたまう」と『日本書紀』にある 素戔嗚尊の伝承の発祥地ではないかと思う程 とても似ている伝承を持ちます

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