延喜式神名帳
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熊野大神社(深谷市東方)
熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります
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虎狛神社(調布市佐須町)
虎狛神社(こはくじんじゃ)は 今から1430年以上前の崇峻天皇2年(589年)8月に創建され 農業の神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)がお祀りされ祭事が始まったと伝えられています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社(とらかしはの かみのやしろ)」の論社の一つです
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虎柏神社(青梅市根ヶ布)
虎柏神社(とらかしわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社」の論社です 社伝によれば 第10代 崇神天皇の御代に勅祭され これを創建とします 天慶3年(940)に平将門征伐の源経基が 相殿に諏訪神社を勧請し 天正18年(1590)木村常陸介 浅野弾正少弼が 当社の由来を記したとされます
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對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について
對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています
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田中神社(熊谷市三ケ尻)
田中神社(たなかじんじゃ)は 『延喜式神名帳』所載「武蔵国 幡羅郡 田中神社(たなかのかみのやしろ)」の論社です 地名「三ヶ尻(みかじり)」は 古くは「甕尻(みかじり)」で 祭神は「甕尻」の祖神として 明治初期頃までは 建甕尻命(タケミカジリノミコト)〈別名 建甕槌命〉との説でした その後 当神社にある要石が 有名な鹿島神宮の要石との付会なのか 現在の祭神は 鹿島神「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」 天神である少彦名命と天穂日命の3柱となっています
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出雲神社(亀岡市本梅町)
出雲神社(いずもじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の丹波國 出雲神社(名神大社)の論社です 創建年代は不詳ですが 境内には 巨岩が 磐座として祀られていて 最古の祭祀形態を存じています かつては磐座の横に出雲大明神といふ祠が祀られていたと伝へ 昭和3年(1928)に大改築を行ない 現在の社殿・鳥居・石段などが整備され 磐座の横の祠から遷座したと伝わります
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出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲無番地)〈丹波國一之宮〉
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は 社伝によれば〈出雲大社の元宮〉「元出雲の社」と伝わり 古来より元出雲の信仰があります 『丹波国風土記』逸文にも「奈良朝のはじめ元明天皇 和銅年中 大国主命 御一柱のみを島根の杵築の地に遷す すなわち今の出雲大社これなり」とあります
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建部大社(大津市)近江国一之宮
建部大社(たけべたいしゃ)は 近江国一之宮です 神社の東側では 近江国庁跡も発掘されています 社伝によれば 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃・布多遅比売命(フタジヒメノミコト)が神勅により 日本武尊を「建部大神」として 神崎郡 建部郷 千草嶽(現・東近江市の箕作山)に祀ったのが始まりとされ 天武天皇4年(675)近江の守護神として 現在地の栗太郡 勢多へ遷座しました
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彌彦神社(弥彦村)越後国一之宮
弥彦神社(いやひこじんじゃ)は 創建から2400年以上であるとも云われ 万葉集にも詠われる由緒ある歴史を持つ古社です 御祭神は 天照大神の曾孫の天香山命(あめのかごやまのみこと)を祀り 人々からは「おや彦さま」と呼ばれ 信仰を集めてきた越後国一之宮です
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彌彦神社 奥宮 御神廟(弥彦山頂上)
彌彦神社 奥宮 御神廟は 弥彦山の頂上に鎮座します 越後国開拓の祖神「天香山命 (あめのかごやまのみこと)」と その妃神「熟穂屋姫命(うましほやのひめのみこと)」が 祀られているとされる御神廟です 弥彦山は 7~8世紀の万葉集にも詠われている古くからの信仰の歴史を持ちます
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寒川神社(寒川町)相模國一之宮
寒川神社(さむかわじんじゃ)は 約1600年以上の歴史を持つとされ 古くは朝廷から さらに歴代の武将〈源頼朝公 武田信玄公 徳川将軍家など〉や 民間からも幅広い信仰がありました 今でも 八方除の守護神〈全国唯一〉として 全国各地から参拝者が絶えない 相模國一之宮です
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射水神社(高岡市古城)越中国一之宮
射水神社(いみずじんじゃ)は もともと霊山である二上山そのものを祀る社で 創祀は太古とされ 二上山の山麓に鎮座していました 明治4年(1871)に「国幣中社」に列格 その4年後 明治8年(1875)二上の地より高岡城跡の「高岡古城公園」へ遷座して現在に至ります 社伝によれば 創建は天武天皇の3年(675)正月奉幣に與られた伝承を以って 鎮座の年と定めたとある古社です
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健男霜凝日子神社 里宮〈神幸所〉(竹田市神原)
健男霜凝日子神社 里宮〈神幸所〉は もともとは 祖母山の神・山頂の上宮・遥拝所の下宮・穴森神社の神幸所でした 國幣小社への昇格の為 昭和9年(1934)相応規模の社殿が建築され とても立派な里宮の形式をとっています 終戦により計画は中断し 神幸所として現用されています
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穴森神社(竹田市神原)
穴森神社(あなもりじんじゃ)は かつて神池があり その池底にあった岩窟をご神体としています 姥嶽大明神(祖母山)の化身である大蛇が住んでいたとされた岩窟からは 元禄16年(1703)大蛇の骨が発見され 藩命で宝永2年(1705)現在の岩穴に神体として祀ったと伝わります 『平家物語』には 岩窟〈穴森神社〉に住んでいた大蛇 姥嶽大明神(大蛇)と華御本姫(はなのおもとひめ)との神婚伝説(神と人との婚姻説)が記されています
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健男霜凝日子神社 下宮(竹田市神原)
健男霜凝日子神社 下宮(たけおしもこりひこじんじゃ げくう)は 上宮が鎮座する「祖母山(ソボサン)山頂」と対面する山の南面の中腹に鎮座しています 参拝には 山麓から約240段の石段を上ります すると山肌に巨大な岩窟があり その岩窟中に社殿が建っています 第36代 孝徳天皇 白雉2年(650)当所に社殿を建立し 下宮と称し遥拝所とされたと伝わります 延喜式内社の論社です
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西寒多神社(大分市寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば 第15代 応神天皇の勅命により 応神天皇9年(278)4月 西寒多山(本宮山)に 祠を建立したと伝わり その後 応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代に守護大名 大友親世公により現在地に遷座されました 豊後国一之宮として信仰されています
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二上射水神社(高岡市二上)越中総社
二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)は 二上山麓に鎮座しています 現在の射水神社〈明治8年(1875)高岡城跡「高岡古城公園」へ遷座〉の旧 鎮座地であり 元々は越中国一之宮でした 遷座後も氏子の信仰心と要請により この地には射水神社の分社として 二上射水神社が残され続けました 第二次大戦後 射水神社から独立して 現在では 正式名称を「越中総社 射水神社」と称しています
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物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
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居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉
居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています
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能登部神社(中能登町能登部上)
能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります