延喜式神名帳

伊加麻志神社(伊豆市堀切)〈『延喜式』伊加麻志神社〉

伊加麻志神社(いかましじんじゃ)は 益山(ましやま)の山上にある益山寺〈空海の創建〉の境内背後に鎮座し『伊豆国神階帳』には「従四位上 高山の明神」と記されている古社です 江戸時代には三島明神と称されていました 延喜式内社 伊豆國 田方郡 伊加麻志神社(いかましの かみのやしろ)に比定されています

神益麻志神社(伊豆の国市神島)〈『延喜式』伊加麻志神社・大朝神社の論社〉

神益麻志神社(かんますましじんじゃ)は 創建年代は不詳です 式内社 大朝神社の論社〈神益村の駒形神社〉で 祭神 長白羽命は麻の神で 社名にも゛麻゛があります 又 式内社 伊加麻志神社については『伊豆國式社考』に「中島村神益村ト同村ナリ コノ里ノ神社カ 又湯ケ島ノ神社カ 益山ノ神社カ」とあり 論社となっています

鷲頭神社(沼津市大平)〈『延喜式』大朝神社の論社〉

鷲頭神社(わしづじんじゃ)は 社伝には 文明元年(1469)伊予国より御祭神 高龗神を神主 磯部伊代守と共に勧請 戸ケ谷 堂返し横に奉安 文明一三年(1481)鷲頭山頂を造成し遷宮 明治七年(1874)天満山(現在地)に遷座と云う 一説には延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)と云われます

大宮神社〈白岩大朝神社〉(伊豆市上白岩)〈『延喜式』大朝神社〉

大宮神社(おおみやじんじゃ)は 正面方向に縄文時代の゛上白岩遺跡゛があり 地名も゛元村゛の名があり 当地方での最古の歴史をもつ神社であると云われます 弘安三年(1280)の棟札がある古社で 旧 下大見村の里人から大朝神社と崇敬される 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)の論社です

楊原神社(沼津市下香貫宮脇)〈『三代實録』楊原神『延喜式』名神大社 楊原神社〉

楊原神社(やなぎはらじんじゃ)は 社記に當社は延喜式内社 伊豆國 田方郡 楊原神社(名神大)(やなきはらの かみのやしろ)と云う 往時は大宮大明神又は香貫大明神とも称していて 往古の社地は 今の楊原(現在地の東南東約500m)でしたが永祿中 北條•武田合戰の時 社殿悉く燒失し 其後 天正年中 今の社地に遷座しました

大朝神社(沼津市下香貫山宮前)〈『延喜式』大朝神社・白浪之彌奈阿和命神社〉

大朝神社(おほあさじんじゃ)は 楊原神社の山宮大明神とも云い 社記には 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)と伝えます 又 往昔 此邊には 津浪が押上げ 田園を荒すことが多かったが 日蓮上人がこの地を過ぎる時 曼陀羅を掛けて祈り 靈驗により 津浪の害を避き 潮留大明神とも称されました

神部社(南アルプス市寺部)〈『延喜式』神部神社〉

神部社(かんべしゃ)は 社記には 草創古代鎮座 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)と伝わっています 鎌倉時代に大井荘地頭の加賀美信濃守遠光が 京都石清水八幡宮を分祀勧請して八幡大神を祀り 加賀美 秋山 南部 小笠原等の氏神を称し 以来 国主武田家の歴代崇敬うけたと伝わります

大瀬神社(沼津市西浦江梨)〈『延喜式』引手力命神社・白浪之彌奈阿和命神社〉

大瀬神社(おおせじんじゃ)は 白鳳十三年(684)大地震で 土佐国で多くの土地が海中に没し 当地では突然 盛り上がり島が誕生した 土佐国から土地を引いてきた伝説もあり その神霊(引手力命)を祀った 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とも 白浪之彌奈阿和命神社ともされます

下多賀神社(熱海市下多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉

下多賀神社(しもたがじんじゃ)は 『豆州志稿』に「多賀両村の總鎮守にして大祠也 末社四十ありしを 皆 近村に移す」とあり 近隣の崇敬を集めた由緒深い神社で もともとは多賀大社と云うと里人は伝え 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社となっています

松尾神社(甲斐市中下条)〈『延喜式』松尾神社の論社〉

松尾神社(まつおじんじゃ)は 創立については明確な記録は残されておらず 社記には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 松尾神社(まつのをの かみのやしろ)であると伝えています 近郷の最古社で松尾大明神と仰がれ 祭神は 大山咋神 大己貴命 若山咋神 少名彦命 中津島姫命の五神で 酒造りの神として多くの酒造家から崇敬されてきました

松尾神社(甲州市塩山小屋敷)〈『延喜式』松尾神社〉

松尾神社(まつおじんじゃ)は 社記によると 遠く景行天皇四十二年 山城国松尾大社より勧請し 現在地の東方四丁余りの地に創祀したと伝えられ 日本武尊(やまとたけるのみこと)が 武蔵へ向かう途中にここで休んだという褥塚(しとねつか)があります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 松尾神社(まつのをの かみのやしろ)とされます

中尾神社(笛吹市八代町米倉)〈『延喜式』中尾神社の論社〉

中尾神社(なかおじんじゃ)は 平成十三年(2001)の失火により社殿は全焼 現在は石の祠と祭壇のみが奉斎されます 『甲斐國志』には「飯田氏の聞書に曰く 昔は大社にて毎年西郡三輪ノ社へ神幸ありしが何れの頃からか廃して小祠となり・・・」とあり 延喜式内社 甲斐國 八代郡 中尾神社(なかをの かみのやしろ)の論社とされます

中尾神社(笛吹市一宮町中尾)〈『延喜式』中尾神社〉

中尾神社(なかおじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇7年〈BC23〉正月の勧請と伝わる 延喜式内社 甲斐國 八代郡 中尾神社(なかをの かみのやしろ)で 天慶年中(938~947)には 藤原忠文が平将門征討の時 幣帛を奉ったと云う 旧号は゛飛永明神゛と呼ばれ 新羅三郎義光以来 武田氏代々に崇敬厚く社領が寄せられました

穴切大神社(甲府市宝)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉

穴切大神社(あなぎりだいじんじゃ)は 社伝に 和銅年間(708~715)当國が未だ湖水であった時 國司が朝廷に奏上し 大己貴命に祈願して鰍沢口を切開き 水を南海に注ぎ盆地一帯を良田とした 御神助に讃仰し神祠を此所に建て 当初は黒戸奈神社と称したが 崇号を朝に奏請して 穴切大明神を賜ったと伝わります

細草神社(甲府市平瀬町)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉

細草神社(ほそくさじんじゃ)は 由緒は不祥ですが 社伝には゛この地は 皇師〈日本武尊〉の駐屯せし所なり゛と云い伝え 『甲斐国志』には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)としています 『甲斐国社記・寺記』に 大永三癸未年(1523)地頭駒井越後守本願 窪寺豊前守御崇敬し社殿を建立とあります

黒戸奈神社(甲府市黒平町)〈『延喜式』黒戸奈神社〉

黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 創建年代は不詳です 社記には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)であるとしています 金桜神社の末社百二十社の内であり 本殿内幣束に大山祇命 手置帆負命 彦狭知命 八耳皇子と共に鎮風神鎮火神と記し 文化二年(1805)とある と伝えています

黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〈『延喜式』黒戸奈神社〉

黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 景行天皇の御宇創立〈天皇皇子 日本武尊 東夷平定の後 当国鎮護 萬民幸福を祈る爲め 素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り 唐土明神と称へ奉る〉文武天皇 大宝二年(702)勅を奉じて社号を黒戸奈神社としたと云う 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)とされます

山梨岡神社(山梨市下石森)〈『延喜式』山梨岡神社〉

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が東夷征伐の折 勧請したと云う 尊が腰を掛けたという御腰掛石があります 神護景雲2年(768)坂上苅田丸が社殿を造営し 貞観元年(859)甲斐守紀貞守 幣を奉る 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社です

山梨岡神社(笛吹市春日居町鎭目)〈『延喜式』山梨岡神社〉

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 背後の御室山(みむろやま)を御神体とする古代信仰であったとされ 第十代 崇神天皇の御代 国内に疫病の流行や災害が多発し これを憂い勅命により御室山中腹に創祀され 第十三代 成務天皇の御代 麓の梨樹を伐り拓いて神戸を遷し「甲斐ヶ根・山梨岡神社」と号したと伝えています

吾妻屋宮(笛吹市春日居町鎮目)〈『延喜式』甲斐奈神社・山梨岡神社〉

吾妻屋宮(あずまやぐう)は 社記に「日本武尊が東征の折に当地の山路〈虫切坂〉で休息したことに因み 旧跡を「四阿山権現(あづまやさん ごんげん)」として尊を祀り創祀」と云う 延喜式内社 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)であるとする説があります

Copyright© Shrine-heritager , 2025 All Rights Reserved.