延喜式神名帳
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熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 鯨伏郷の産土神で 神社考には「立石村の海辺に温泉あり 昔の代には 地名を「アタミ」と言えり 今は湯ノ本と言う 温泉に近い熊野権現を湯屋権現とも言えり」とあり この「アタミ」から式内社 阿多彌神社(あたみの かみのやしろ)とされます 傳では 橘貞兼が神功皇后の新羅出兵の際に祈った紀伊国 熊野神を 帰国後 ここに祀ったとされます
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阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)
阿多彌神社(あたみじんじゃ)は 『神社考』に 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが 延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり この音より 式内社として比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉したとあります
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佐肆布都神社(壱岐市芦辺町箱崎大左右触)
佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 昔は 境内には椎や松が茂り 川が流れ 瀬戸もあり 眺望は無双の地であったと伝わります 『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐郡 同 佐肆布都神社(おなじき さしふつの かみのやしろ)とされます 同じ壱岐郡には佐肆布都神社も所載されており 同郡に同名の神社が連続して記載されている大変珍しい神社です
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月読神社(京都市西京区松室山添町)
月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています
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男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です
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月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
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箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
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高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
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水神社(壱岐市勝本町布気触)
水神社(みずじんじゃ)は 社伝に 御祭神 速秋津日神が 布氣川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています 式内社の水神社(みつの かみのやしろ)とされています
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津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)
津神社(つじんじゃ)は 社伝に「嵯峨天皇 弘仁二年(811)の草創 延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 石田郡 津神社(つの かみのやしろ)の論社です 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)の津ノ上山(つのかみさん)〈角上山〉は 壱岐郡と石田郡の郡境にあり 式内社 壱岐郡 角上神社(つのへの かみのやしろ)ともされます
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津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)
津之宮神社(つのみやじんじゃ)は かつて神坂津宮大明神と称され 国府に近く 壱岐国の津〈現 印通寺港〉であったこの鎮座地は 地名も津宮と呼ばれる程の大社であったとされます 故に二つの式内社・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)の論社とされています
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國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
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佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)
佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 明治41年(1908)中津神社に合祀された佐肆布智明神の旧 鎮座地です 式内社の佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)とされます 石祠の背後の゛巨石゛は〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています
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中津神社(壱岐市勝本町北触)
中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています
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聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
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手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
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國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
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天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
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天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
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香取神宮 奥宮(香取市)
香取神宮 奥宮(おくのみや)は 御祭神として 経津主大神の荒御魂を祀ります 香取神宮の境内域は「亀甲山(かめがせやま)」と呼ばれる台地に鎮座していて その頂上付近を通る香取神宮の旧参道の中程に 奥宮は鎮座しています 現在の社殿は 昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものです