延喜式神名帳

〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)〈丹後國一之宮〉&天橋立

籠神社(このじんじゃ)は 宮司は83代も続く 海部(あまべ)家〈「国宝 籠名神社祝部海部直氏系図」あり〉その祖神゛彦火明命゛が゛籠船゛に乗り 海神の宮へ行かれた故事により゛籠゛の社名となります 正式名称は「丹後一宮 元伊勢 籠神社」一般呼称は「元伊勢籠神社」と呼ばれる由緒正しき古社です

佐紀神社〈西畑鎮座〉&釣殿神社(奈良市佐紀町字西畑)

佐紀神社〈西畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式(927年)所載 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)の論社です しかし 佐紀神社〈西畑鎮座〉を佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀とする説もあります 釣殿神社(つりどのじんじゃ)は 佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀であり 三社は同じ神を祀ります

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(奈良市佐紀町)〈延喜式内社〉

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)です 由緒は 天武天皇御宇 白鳳三年(674)鎮祀 寛平3年(891)官社に列し 治承4年(1180)焼失し 文治6年(1190)超昇寺と併せて再興 天正6年(1578)再び兵火のため焼失 その後再興されて現在に至ります

愛宕神社(堺市中区福田)〈延喜式内社 火雷神社の古社跡地〉

愛宕神社(あたごじんじゃ)は 延喜式内社 和泉國 大鳥郡 火電神社(いなひかりの かみのやしろ)の古社跡地です 愛宕大権現〈式内社 火電神社〉は 明治41年(1908)明治政府の「神社令」により 陶荒田神社に合祀されました 現在の社殿は 戦後新たに福田の人々の信仰によって 元の境内地の一隅に愛宕神が奉斎されたものです

葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

為志神社(葛城市林堂)〈延喜式内社 為志神社(いしの かみのやしろ)〉

為志神社(いしじんじゃ)は 創建・由緒は不詳ですが 延喜式内社 大和國 忍海郡 為志神社(いしの かみのやしろ)です 明治四十三年(1910)神社合祀政策により 式内名神大社 葛木坐火雷神社に合祀され 当地に石碑を立てて旧跡の地されましたが 昭和五十七年(1982)旧地に復し再建され現在に至ります

火雷神社(五條市御山町)〈二つの式内社〈①宮前霹靂神社②火雷神社〉の論社〉

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は 丹生川の吉野川への合流地点に近い南岸に鎮座 『延喜式』には火雷神を祀る゛大和國 宇智郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)゛とされます 祭神は・火産霊神・軻遇突智神など諸説あり 又一説に 火雷神とは 井上皇后の若皇子とされ 地元では若宮大明神とも称されます

宮前霹靂神社(みやさきのかんとけ じんじゃ)(五條市西久留野町)

宮前霹靂神社(みやさきかんとけじんじゃ)は 社号゛靂霹゛は 一般に「へきれき」と読みますが 当社の祝詞では「かんとけ」です また 井上内親王が 当社に御祈願され荒坂で御子を産まれた地と伝えられ゛おびや峯明神゛と俗称されます 延喜式内社 大和國 宇智郡 宮前霹靂神社(みやさきのかんとけの かみのやしろ)です

高天岸野神社(五條市北山町)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉

高天岸野神社(たかまきしのじんじゃ)は 現在 一尾背神社の境内に祀られています〈一説に 里宮とも遥拝所とも 遷座先とも〉 延喜式内社 大和國 宇智郡 髙天岸野神社(鍬)(たかまのきしのの かみのやしろ)とされ 江戸時代には旧鎮座地にあり 岸野辨天さんと俗称されていました 祭神などの伝承は途切れています

一尾背神社〈通称゛水分さん゛〉(五條市北山町)

一尾背神社(いちおせじんじゃ)は 創建について年代等は不祥ですが その歴史は古く 延喜式内社 大和國 宇智郡 一尾背神社(ひとをせの かみのやしろ)とされます 江戸時代以前は゛水分社゛と称し 現在も通称゛水分さん゛と呼ばれ 里人から篤い信仰があります

高天山佐太雄神社(五條市大澤町)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉

高天山佐太雄神社(たかまさたおじんじゃ)は 金剛山の尾根を、千早峠に向かう途中の神福山 (七九二メートル )の頂上に鎮座します 金剛山(kongo san)山麓に東から南に並び鎮座する式内社「高天三座」の一つ 延喜式内社 大和國 宇智郡 髙天山佐太雄神社(鍬)(たかまのやまさたをの かみのやしろ)とされます

織幡神社(宗像市鐘崎)〈赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社〉

織幡神社(おりはたじんじゃ)は 海路守護の神 異国襲来守護の神として゛赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)゛をお祀りし 鐘崎の海辺に鎮座します 神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります

神興神社(福津市津丸)〈宗像大社の旧鎮座地゛神興(かみおこり)ます所゛〉

神興神社(じんごうじんじゃ)は 『宗像社縁起』には゛宗像三女神が初め室木の六ヶ嶽に天降り その後この地に留り給う 此の村に於て神威輝耀を以って神興と號す その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々゛と 宗像大社の゛神興ります所゛旧鎮座地であると伝えます

六嶽神社(鞍手町室木)〈宗像三女神が初めて降臨した六嶽〉

六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は ゛宗像三女神が初めて降臨した六嶽 崎門〈サキト〉峰゛と伝わる地に上宮 里宮〈下宮〉は 第13代 成務天皇7年(137年頃)創建゛前戸(サキト)神社゛と称したと『宗像神社末社記』に載る古社です 宗像三女神は 第7代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝 

宗像大社 沖津宮(沖之島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社 沖津宮(おきつぐう)〈一般参拝は不可〉は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛を祀る 三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉の内 玄界灘の沖に浮かぶ゛神宿る沖ノ島゛に鎮座 島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから〈一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉 限られた人のみ参拝が叶います

宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました

沖津宮遥拝所(宗像市大島 字伊東)& 御嶽山祭祀遺跡

宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています

宗像大社 辺津宮(宗像市田島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社(むなかたたいしゃ)は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛が三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉に坐ます ゛辺津宮(へつぐう)の起源゛は 背後の宗像山〈辺津宮古代祭祀の場〉゛高宮祭場゛の麓に本土の信仰の場として社殿が造営されたものです 古から受け継がれる宗像信仰の中心地となっています

美奈宜神社(朝倉市荷原)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉

美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は 創始について 神功皇后の 熊襲゛羽白熊鷲(はしろくまわし)の平定゛に由来します 『六国史』には 貞觀元年(八五九)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記され 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)とされます

美奈宜神社(朝倉市林田)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉

美奈宜神社 (みなぎじんじゃ)は 社説に゛今から千八百年前 神功皇后が三韓征伐の御時 冥助あり 此所に祭り給い゛と云え 『六国史』にも貞觀元年(859)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記される由緒ある古社です 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)の論社です

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