延喜式神名帳
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向日神社(向日市向日町北山)〈『延喜式』乙訓坐火雷神社〔名神大月次新嘗〕・向神社〉
向日神社(むこうじんじゃ)は 延喜式内社 山城國 乙訓郡 向神社(むかへの かみのやしろ)後に同じく式内社 乙訓坐大雷神社(火雷神社)〔名神大 月次新嘗〕(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)を合祀と伝わり この両社は 同じ向日山に鎮座 向神社は上ノ社 火雷神社は下ノ社と呼ばれていたと云う
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角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)〈『延喜式』乙訓坐大雷神社〔名神大月次新嘗〕〉
角宮神社(すみのみやじんじゃ)は 延喜式内社 山城國 乙訓郡 乙訓坐大雷神社(火雷神社)〔名神大 月次 新嘗〕(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)のかみのやしろ)の論社 承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許されず 旧社地 井ノ内の西部(宮山)から文明16年(1484)現在地に再興 井ノ内の産土神です
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大井神社(名古屋市北区如意)〈『延喜式』大井神社〉
大井神社(おおいじんじゃ)は 社伝によれば 和銅・養老年問(700年代)に 現社殿の北西にあった大井の池のほとりに産土神として勧請された延喜式内社 尾張國 山田郡 大井神社(おほゐの かみのやしろ)の論社です 中世 大水の難を避けて現在地へ遷座し 江戸時代には六所明神社と称されていました
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國中神社(越前市国中町)〈『延喜式』國中神社二座〉
国中神社(くになかじんじゃ)は 元は 当社の北西にある三里山の山上に二座が鎮座しており 七堂伽藍を具備し 奉仕の社僧も多かったが 延元天正數度の兵燹に罹り 悉く焼亡してしまった 当郡一の大社であったと云う 延喜式内社 越前國 今立郡 國中神社二座(くになかの かみのやしろ ふたくら)とされます
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國中神社(越前市中津山町)〈『延喜式』國中神社二座〉
國中神社(くになかじんじゃ)は 社伝によれば 当社は越前の中央にあり 越の中山と称し 和名抄に中ツ山の郷とあります 祭神は越國の御霊彦姫の二柱を祭る 延喜式内社 越前國 今立郡 國中神社二座(くになかの かみのやしろ ふたくら)とされ 往古より上宮外宮と分け祀り 当社は上宮の一座であったとされます
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國中神社(四條畷市清滝中町)〈『延喜式』國中神社〉
國中神社(くになかじんじゃ)は 創建年代は不詳です しかし国中と云う名の如く この地域の中心として 鎮座地が創建より一度も移動した記録は無く四神相応の鎮座地であった事が明白であると伝わる 延喜式内社 河内國 讃良郡 國中神社(くなかの かみのやしろ)です
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大井神社(亀岡市大井町並河)〈『延喜式』大井神社〉
大井神社(おおいじんじゃ)は 和銅3年の創建。祭神の木俣命が保津川を鯉に乗って上がってきたと伝えられ、通称「鯉明神」といわれています。この地域ではでは鯉を神の使いと考えられ、鯉を食べず、鯉のぼりも揚げない風習が伝わっています
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走田神社(亀岡市余部町)〈『延喜式』走田神社〉
走田神社(はせだじんじゃ)は 天正の兵亂(1573~92)に古文書 悉く焼け島有に帰して記録はありませんが 口伝によれば 奈良時代の元明天皇 和銅4年(711)創建と云う 走田大明神と呼ばれ厚い尊崇を受けてきた 延喜式内社 山城國 乙訓郡 走田神社(はしりたの かみのやしろ)とされます
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走田神社(長岡京市奥海印寺走田)〈『延喜式』走田神社〉
走田神社(はしりたじんじゃ)は 創建年代不詳ですが 社号「走田」は゛初穂(走り穂)を作る田んぼ゛早稲田(わせだ)の守護神と云う意味 神仏習合期に寂照院(じゃくしょういん)の鎮守として「妙見社(みょうけんしゃ)」と呼称 明治期「走田神社」に改称 延喜式内社 山城國 乙訓郡 走田神社(はしりたの かみのやしろ)の論社です
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出雲路の森(京都市南区久世築山町)〈『延喜式』茨田神社 旧鎮座地〉
出雲路の森(いずもじのもり)は 古くは「出雲路」という小字のあった場所からくる名称です 現地は小高い丘〔古墳(小墳)説あり〕となっていて 現在は祠はありませんが 樫と椿の木立に注連縄が張られ「鎮守の森」の形を残しています 延喜式内社 山城國 乙訓郡 茨田神社(まむたの かみのやしろ)の旧鎮座地と伝えられています
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菱妻神社(京都市伏見区久我石原町)〈『延喜式』簀原神社〉
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は 永久元年(1113)久我家の祖 右大臣 源雅実公が奈良の春日大社から天児屋根命を勧請「火止津目(ひしづめ)大明神」と崇奉った 御遷宮の時は具仁親王・源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両などを連ねた大社であり 延喜式内社 山城國 乙訓郡 簀原神社(すはらの かみのやしろ)との学説あり
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菱妻神社(久世築山町)〈『延喜式』乙訓坐火雷神社 名神大・走田・茨田・簀原神社〉
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は 簀原大明神が前身とされるが 詳細は明らかではありません 13世紀頃社名を乙訓坐火雷神社 16世紀頃 菱妻神社に変更と云う 延喜式内社 山城國乙訓郡 乙訓坐大雷神社〔名神大月次新嘗〕・走田神社・茨田神社・簀原神社と4つの式内論社となっています
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綾戸國中神社(京都市南区久世上久世町)〈『延喜式』大井神社・國中神社・茨田神社〉
綾戸國中神社(あやとくなかじんじゃ)は 元は綾戸宮と國中宮の二社でしたが 現在は合祀され 左が綾戸宮 右が國中宮となっています 3つの式内社〈延喜式内社 山城國乙訓郡 大井神社(おほゐの かみのやしろ)・國中神社(くになかの かみのやしろ)・茨田神社(まむたの かみのやしろ)〉の論社となっています
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大井神社(右京区嵯峨天龍寺造路町)〈『三代実録』山代大堰神『延喜式』大井神社〉
大井神社(おおいじんじゃ)は 渡月橋の北の詰にあり 大堰神社とも称し 大堰川の守り神として『三代実録』貞観十八年(867)山代大堰神と記載があります 又『延喜式』山城國 乙訓郡 大井神社(おほゐの かみのやしろ)の式内論社ともされています
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與杼神社御旅所〔旧鎮座地〕(淀大下津町)〈『三代實録』與度神『延喜式』與杼神社〉
與杼神社御旅所(よどじんじゃ おたびしょ)は 桂川の右岸にあり 古来「大荒木の森」と云われた 延喜式内社 山城國 乙訓郡 與杼神社(よひの かみのやしろ)の旧鎮座地で 淀姫社・水垂社・大荒木神社とも称したと伝わる 現在 與杼神社は明治33年(1900)桂川河川敷改修により淀城内(桂川の左岸)に遷座しています
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與杼神社(京都市伏見区淀本町)〈『三代實録』與度神『延喜式』與杼神社〉
與杼神社(よどじんじゃ)は 旧鎮座地は淀村大荒木ノ森 俗に西淀といわれた所で この地に古くから居住した大与等何々などの住民の祖神を祀ったものと推測される 延喜式内社 山城國 乙訓郡 與杼神社(よひの かみのやしろ)です 明治33年(1900)淀川の改修工事のため現在地に遷座しました
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旦椋神社(宇治市大久保町北ノ山)〈『延喜式』且椋神社〉
旦椋神社(あさくらじんじゃ)は 元々は『日本書紀』仁徳天皇 十二年秋七月に載る「栗隈縣の大溝(おおうなで)」この東側〔地名 旦椋(アサクラ〕に鎮座していた古社 延喜式内社 山城國 久世郡 且椋神社(あさくらの かみのやしろ)です 天文十九年(1550)に焼失し 永禄九年(1566)現在地に移転再興されたと伝わります
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朝椋神社(和歌山市鷺ノ森明神)〈『延喜式』朝椋神社〉
朝椋神社(あさくらじんじゃ)は 社傳には「神代 大國主命が伯耆國より難をさけ 紀伊國の大屋毘古神(伊太祁曽神)を訪れた時 此地に來くると「天つ空なほ明けやらで物の色さへ わからなかったので其地をさして朝暗(あさくら)と名付けた」と云う 延喜式内社 紀伊國 名草郡 朝椋神社(あさくらの かみのやしろ)です
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須佐神社(有田市千田)〈『三代實録』湏佐神『延喜式』湏佐神社〔名神大月次新嘗〕〉
須佐神社(すさじんじゃ)は 和銅6年(713)大和国吉野郡 西川の峯より遷座〈伊太祁曽神社が現在地へ遷座と同日〉中雄山の山頂に海を向いて祀られた 海上を通る船舶が帆を下ろし敬意を表さないと転覆するなど御神威があり 海の見えない中腹〈現在地〉に遷ったと伝わります 延喜式内社 紀伊國在田郡 湏佐神社〔名神大 月次新嘗〕です
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石土神社(南国市十市字石土)〈『続日本後紀』石土神『延喜式』石土神社〉
石土神社(いしつちじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『続日本後紀』承和八年(841)官社に列した記事があり 『延喜式(927)』土佐國 長岡郡 石土神社(いはつちの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です 又 伊豫國の石鎚神社の元社と云われ 石鎚山頂の社は奥ノ院 当 石土神社は前ノ宮と呼ばれています




















