延喜式神名帳

古代氏族 倭文氏に祀られた『延喜式神名帳』(927年編纂)所載社について

古代氏族 倭文氏(しとりうじ)は 「天羽雷命(あめはいかづちのみこと)〈建葉槌命(たけはつちのみこと)〉」を祖神とします 全国各地に祀られた式内社は 「倭文(しとり しずり しどり しとおり)」を社名に持ち 倭文氏の祖神を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社も紹介します

葛木倭文座天羽雷命神社(葛城市加守)〈『三代実録』葛木倭文天羽雷命神〉

葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいます あめのはいかづちのみことじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社(大月次 新嘗)(かつらきの しとりにゐます あめのはづちのみことの かみのやしろ)とされ 相殿には加守神社と葛木二上神社が祀られ 二上山の雄岳山頂「葛木二上神社」の里宮とも云われます

波布比咩命神社(大島 波浮港)〈『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』波布比賣命神社〉

波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 「波浮ノ池」〈火山の火口に水を湛えたカルデラ湖で外海とは遮断されていた〉の畔に鎮座していました 元禄16年(1703)大津波によって外海と繋がり波浮湾となったと云う 『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)です

波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)〈『延喜式』波治神社〉

波知加麻神社(はちかまじんじゃ)は 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)です 祭神は 明治十八年祠宮 藤井重利より東京府知事宛『神社明細帳』に゛大廣祇命゛ 古老の口碑や『三宅記』〈一名『三嶋大明神緣起』〉に「三島大神の后 波布比賣命 王子二人坐す 一人を次郎の王子すくない所」゛波知命゛とします

阿治古神社(熱海市網代)〈『延喜式』阿治古神社〉

阿治古神社(あじこじんじゃ)は 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 阿治古神社(あちこの かみのやしろ)の噴火時の避難先とも遥拝所とも云われます 始め網代 朝日山に鎮座 元和元年(1615)字別所より現在地に還祀と云う 又 相殿の來宮は 初め下多賀村中野に鎮座し洪水で 網代村 日寄山に遷座 明治16年(1883)本社に合祀されました

大宮神社(伊豆大島 野増)〈『延喜式』阿治古神社〉

大宮神社(おおみやじんじゃ)は 元々は三原山の近くに阿治古(あじこ)と呼ばれる古い地域に集落があり 阿治古神社が鎮座していた たびたびの噴火降灰により 室町時代 文正二年(1466)大宮の現在地に遷座され その際に天照皇大神が合祀されたと云う 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 阿治古神社(あちこの かみのやしろ)です

賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〈『延喜式』賣夫神社〉

賣夫神社(めふじんじゃ)は 『日本書紀』崇神天皇10年 四道将軍派遣の時 武淳川別命に従ってきた大咩布命〈第十代 崇神天皇の御母の弟 伊香色雄命の御子〉が この地に留まり その子孫が繁栄しやがて命の靈を氏神として祀ったと云う 延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(ひめふの かみのやしろ)とされます

高売布神社(三田市酒井字宮ノ脇)〈『延喜式』高賣布神社〉

高賣布神社(たかめふじんじゃ)は 推古天皇の頃の創立と伝えますが明らかでない 神社の後方に独立丘は 古の齋場の跡とされ 土俗は酒井の斎さま(さかいのいつきさま)と称し 勧請の昔は齋女が神の意を伝えた古代の様子を今に伝えている 延喜式内社 攝津國 河邊郡 髙賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)です

賣布神社跡(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社跡(めふじんじゃ あと)は 延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の跡地です 往古は禰布ヶ森に鎭座し 洪水で社殿が流され 中世に天神山中腹に遷宮 萬延元年(1860)本殿再建 文久二年(1862)この地に遷座 令和元年(2019)中世の鎮座地〈現 荒神神社に合祀遷座〉へと戻りました

賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 垂仁天皇90年 但馬国造 田道間守は 勅を奉じて常世國に渡航し 不老不死の香菓たる橘を得て 景行天皇元年に帰国しました この時 報賽の爲めに この地〈田神山〉に神籬を設けて奉祀したのが 当社の創始と伝わります 延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です

矢田神社(京丹後市峰山町矢田)〈『延喜式』矢田神社〉

矢田神社(やたじんじゃ)は 『丹後舊事紀』に「元は屋退(やた)〈養父 和奈佐翁の家を退去された比治山の天女 豊宇賀能賣命を祀った意〉」と記され 元明天皇 和銅六年(713)地名は好字を用いるとの勅により 「屋退」は不吉 好字の「矢田」とした とも云う 延喜式内社 丹後國 丹波郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)です

矢田八幡神社(京丹後市久美浜町佐野)(『延喜式』矢田神社)

矢田八幡神社(やたはちまんじんじゃ)は 崇神天皇の御代 四道将軍 丹波道主命が勅命により丹波国に至り 山陰の平定祈願のため矢田神社〈矢田部の祖神〉を創祀 奈良朝に至り蘇我氏との争いに物部氏亡び 恐れた矢田部氏は宇佐八幡宮を勤請し矢田八幡と改称 延喜式内社 丹後國 熊野郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)の論社です

矢田神社(京丹後市久美浜町海士)〈『延喜式』矢田神社〉

矢田神社(やたじんじゃ)は 口碑によれば 元の鎭座地は 御祭神 建田背命〈丹後国造 但馬国造等の祖〉別名 神服連海部直(かんはとりのむらじあまべのあたえ)の館跡 六宮廻(ろくのみやまわり)辺り 矢須田(久美浜町橋爪)と云い 廃絶後 中世に現在地に遷座した 延喜式内社 丹後國 熊野郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)です

伊豆志彌神社(京丹後市久美浜町出角宮ノ谷)〈『延喜式』伊豆志彌神社〉

伊豆志彌神社(いずしやじんじゃ)は 『丹後舊事紀』に第11代 垂仁天皇の時代〈皇紀632年~皇紀730年〉川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)によって勧請と記されています 延喜式内社 丹後國 熊野郡 伊豆志彌神社(いつしみの かみのやしろ)です 江戸時代の旧称は 筈森大明神(箱森大明神)と呼ばれていました

圓田神社(上越市名立区丸田)〈『延喜式』圓田神社〉

圓田神社(まるたじんじゃ)は 『神社明細帳』によると 天應元年(781)四月の創立 社殿は大同二年(807)飛騨の内匠の作と伝える 丸田を中心に名立谷に勢力をもつた有力氏族が奉斎したのであろうとされます 延喜式内社 越後國 頸城郡 圓田神社(まろた〈えんた〉の かみのやしろ)です

蛭子神社&奥宮〈末社〉丸田神社(京丹後市久美浜町関家ノ上)〈『延喜式』丸田神社〉

蛭子神社(ひるこじんじゃ)は 関地区の氏神で 奥宮〈末社〉丸田神社(まるたじんじゃ)〔境内に合併とも〕は 創立年代等不詳ですが 往古 七ケ村の氏神であったと伝わります「丸田神社は奥宮」「蛭子神社は里宮」の関係にあり 奥宮〈末社〉丸田神社は 延喜式内社 丹後國 熊野郡 丸田神社(まろたの かみのやしろ)の論社とされます

丸田神社(京丹後市久美浜町甲山亀石)〈『延喜式』丸田神社〉

丸田神社(まるたじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時代 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)によって建立されたと伝わります 神体山 甲山(カブトヤマ)山上の〈式内社〉熊野神社を奥宮とし 里宮として大膳職(食物)の神を祀られた 延喜式内社 丹後國熊野郡 丸田神社(まろたの かみのやしろ)です

三嶋田神社(京丹後市久美浜町金谷今ゴ田)〈『延喜式』三嶋田神社〉

三嶋田神社(みしまだじんじゃ)は 七代孝靈天皇の御宇 武諸隅命(海部直の祖)が 往古 川上谷にあった三ヶ所の嶋に神々を祀り 生嶋(金谷)に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀り三嶋神社と称した 又 別説には 垂仁天皇の朝 川上摩須の勸請なりとも云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 三嶋田神社(みしまたのかみのやしろ)です

布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)〈『延喜式』賣布神社〉

布森神社〈布杜神社〉(ふもりじんじゃ)は 由緒など不祥ですが 賣布神社の神幸時の御旅所で 元宮であるとも云います 里での呼称も 賣布神社を大宮 布杜神社を小宮と呼んでいます 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の参考論社とも考えられています

賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(ひめふじんじゃ)は 『丹後一覧記』等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります

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