三宮神社(さんのみやじんじゃ)は 怒ツ穂(イカホ)と呼ばれた゛榛名山゛〈古墳時代後期の6世紀代に2回の大きな噴火〉を恐ろしい怒りの山 ゛いかつほの神゛として恐れあがめ信仰し 天平勝宝2年(750)伊賀保大明神 里宮として勧請したと社伝にあります ゛伊香保神社゛は 現在の伊香保温泉の地に遷座する以前は 里宮の三宮神社が祭祀中心地であったとされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
三宮神社(Sunnomiya shrine)〈伊賀保大明神 里宮〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
群馬県北群馬郡吉岡町大字大久保1番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
御神体は 菩薩〈佛〉中世末期の一本彫り立像
゛十一面観音像゛〈頭部に11の顔を持つ菩薩〉の御利益
十種勝利〈10種類の現世での利益〉
①離諸疾病(病気にかからない)
②一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
③任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
④一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
⑤國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
⑥不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず 悪寒や発熱等の病状がひどく出ない)
⑦一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
⑧水不能溺(溺死しない)
⑨火不能燒(焼死しない)
⑩不非命中夭(不慮の事故で死なない)
四種功德〈4種類の来世での果報〉
①臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
②不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
③不非命終(早死にしない)
④從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 上野國三之宮
【創 建 (Beginning of history)】
三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は 天平勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で 彦火々出見命 豊玉姫命 少彦名命の三柱の神を奉斉している
当社を三宮と称する所以は 三柱の神を祭るためでなく 上野国三之宮であったことによる
九条家本 延喜式神名帳には 上野国三之宮は伊賀保大明神とあり 当社はその里宮の中心であったと考えられる
抑古代 当地方の人々は 榛名山を伊賀保山と称し その山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥拝所をつくり里宮とした
上野国神名帳には 伊賀保神が五社記載されてあり その中心の宮を正一位三宮伊賀保大明神と記している
当地三宮神社が伊賀保神を祭る中心地であったため 三宮の呼称が伝えられたのである 近くに大古墳群の存在はそれを裏付ける
当社を伊賀保神とする由縁は その祭神にもよるが 本殿に安置される十一面観音像のあることがこれを証する
南北朝時代の延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀保大明神の由来には 伊賀保神は男体女体の二神あり 男体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で 女体は里に下り十一面観音となるとある
当社は古来 十一面観音像を御神体として奉安してきたのである
慶應四年 神仏分離令が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破却された 当地の先人は 古来三宮神社の御神体として奉安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日に伝えたのである
昭和六十年秋の関越高速自動車道開通に伴い 当社境内地の一部も道路編入の止むなきにいたり この機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑に刻んだ次第である
昭和六十一年九月吉祥日
群馬県史編纂委員 近藤義雄撰文
三宮神社氏子一同建立境内石碑文より
【由 緒 (History)】
町指定重要文化財
三宮神社
指定年月日 昭和63年2月22日
所 在 地 吉岡町大字大久保字宮1番地の1当社は、天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、また「神道集」(14世紀頃の天台系説話集)に「女体ハ里へ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也」とあり、伊香保神社の里官とする説がある。
総欅(そうけやき)造り銅板葺(どうはんぶき)の本殿は、嘉永元年(1848)の改築で明治以降その他の社殿も増改築された。
御神体は一木彫りの十一面観音橡で、像長90cm、右手は施無畏(せむい)に作り、左手には宝瓶(ほうびょう)を持つ丸木彫りの地方的素朴なもので室町時代の作と推定されるが、江戸末期に塗り変えられて極彩色(ごくさいしょく)である。
例祭には、獅子舞、太々神楽(だいだいかぐら)が奉納され、大祭には大久保の各町内から屋台(山車 だし)が曳出(ひきた)されて賑う。
昭和63年10月 吉岡町教育委員会
社頭案内板より
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿・幣殿
・拝殿前の狛犬
・末社祠群〈猿田彦社 八坂社 大山祇社 雷電社など〉
・火防神社
・万葉歌石碑
万葉集のこの歌がうたわれた時代(一四〇〇年前)は、榛名の二ツ岳の噴火がくり返されて、榛名山は恐ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ)と呼んで、神として恐れあがめ信仰の対象としていました。この里宮として三宮神社(イカホ神社)がおかれてました。この歌の伊香保風は榛名山からふき下す空つ風です。
ここで行われた歌垣でうたわれた歌として祖先への敬愛の念をこめて石に刻みます。
揮毫者の伊藤信吉氏は前橋市元総社町出身の詩人・評論家です
現地説明板より
・神楽殿
・三宮神社太々神楽
町指定重要無形文化財
三宮神社太々神楽三楽講(だいだいかぐらさんらくこう)
指定日 平成二十三年十一月二十九日
三宮神社は天平勝宝二(七五〇)年に創祀されたとの伝承を持つ古名社である。
ここ三宮神社に伝わる太々神楽は、一時途絶えた期間もあったが、昭和二十二(一九四七)年に地元有志により復活された。それ以降永きにわたり継承される伝統芸能である。吉岡町に唯一伝承される貴重な神楽(かぐら)である。
神楽の演目には、「戸開の舞(とびらきのまい)」、「天浮橋の舞(あまのうきはしのまい)」など日本国の成り立ちに係わるものや、「蛭児の舞(ひるこのまい)」、「天狐の舞(てんこのまい)」など農耕と深い関わりを持つ舞がある。その内容や舞う姿は、大変に見事で興味深いものである。
神楽は、毎年四月の第一日曜日に開催される三宮神社春祭で、奉納されている。
平成二十六年二月 吉岡町教育委員会
現地案内板より
町指定重要無形文化財
溝祭三宮神社獅子舞
指定日 平成十五年五月二十二日
天正年間(一五七三年頃)からあったと伝えられる獅子舞で、頭(かしら)が毛獅子(けじし)で作られているのが特色である。
この獅子舞は稲荷流佐々良獅子と言い、毛獅子三頭で舞い、氏神三宮神社の祭典に奉納されてきたものである。又、日照り続きの時には雨乞い獅子として、船尾滝(ふなおたき)に登り雨乞い祈願をした事でも知られている。
春秋の神社の祭には、笛の音で白足袋姿の前獅子・中獅子・後獅子が腰に太鼓を付けバチで打ちながらカンカチを交えて舞う。演目も「宮廻り」や「剣の舞」など十数種の舞がある。
平成十七年三月 吉岡町教育委員会
現地案内板より
・社頭の鳥居・社号標
・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
835年(承和2年)9月辛未条で 名神に預っています
【抜粋意訳】
巻第四 承和二年(八三五)九月辛未〈廿九〉
○辛未
以に 上野國 群馬郡 伊賀保社を 預らしむ 之を名神に
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻八 承和六年(八三九)六月甲申〈廿三〉
○甲申
奉授に 上野國 无位 拔鋒神 赤城神 伊賀保神 並に 從五位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻十四 貞觀九年(八六七)六月廿日〈丁亥〉
○廿日丁亥
授 上野國
從四位下勳八等 貫前神 從四位上
從五位上 赤城神 伊賀保神 並 正五位下
從五位下 甲波宿禰神 從五位上
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日〈戊申〉
○廿五日戊申
授
陸奧國 五位上勳九等 苅田嶺神 從四位下
上野國 正五位下 赤城神 伊賀保神 並 正五位上 從五位上 甲波宿禰神
近江國 從五位上 新川神 並 正五位下
美濃國 正六位上 金神 從五位下。勅令 五畿七道諸國 限以三日 轉讀金剛般若經 謝地震風水之 厭隣兵窺隙之寇焉
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻二十八 貞觀十八年(八七六)四月十日〈丁巳〉
○十日丁巳
授 上野國
從四位上 貫前神 正四位下
正五位上 伊賀保神 從四位下
正五位下 甲波宿禰神 正五位上是夜。子時。大極殿。延燒小安殿。蒼竜白虎兩樓。延休堂及北門北東西三面廊百餘間。火數日不滅
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉
○廿五日戊寅
授 上野國
正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城石神 伊賀保神 並從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神 並 正五位上勳十二等
從五位上 賀茂神 美和神 並 正五位下勳十二等
正六位上 稻袋地神 從五位下勳十二等内藏寮置寮掌二員 其衣粮、以藏部料内、給之
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
貫前神社 一座 伊香保神社 一座 赤城神社 一座 巳上 上野國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)群馬郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 伊加保神社(名神大)
[ふ り が な ](いかほの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ikaho no kamino yashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 上野国 群馬郡 伊加保神社(名神大)(いかほの かみのやしろ)の論社について
・伊香保神社(渋川市伊香保町)
・三宮神社(吉岡町大久保)
〈伊賀保大明神 里宮(旧本社)〉
・若伊香保神社(渋川市有馬)
〈伊賀保大明神 当初の鎮座地〉〈豪族・有馬氏が里宮・三宮神社を勧請した際に旧地に存続した社〉
スポンサーリンク
『神道集』〈南北朝時代に編纂〉に記される゛伊香保大明神゛の伝承
『神道集』第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事
伊香保大明神は 赤城大明神の妹で、高野辺大将の三番目の姫君である。 高野辺中納言の奥方の弟の高光中将との間に一人の姫君をもうけた。
高光中将は上野国の国司を他に譲ったあと、前の目代(国司代理)であった有馬の伊香保大夫のもとで暮らしていた。 北の方の伊香保姫は父や姉君の亡魂に奉幣するために淵名社へ参詣した。 その帰り道、現在の国司である大伴大将が渡しで河狩りをしているところを通り過ぎた。
大伴大将は輿の簾の隙き間から姫を一目見て忘れられなくなり、国司の威勢で姫を奪おうとした。 伊香保大夫は九人の子と三人の聟を大将として防戦したが、国司は四方から火をかけて攻めたてた。
伊香保太夫は、主人の伊香保姫とその姫君、女房と娘の石童御前・有御前を連れて、児持山に入った。 高光中将はひどく負傷しており、伊香保太郎宗安と共に猛火に飛びこんで姿が見えなくなった。
伊香保太夫は上京して帝に奏聞した。 帝は伊香保姫に国司の職を持たせ、高光中将の娘を上京させるよう云った。
伊香保太夫は目代となり、九人の子を九ヶ所社に祀った。 三人の聟も三所明神として顕れた。 また、伊香保山の東麓の岩滝沢(水沢川)の北岸に寺を建てて、高光中将の遺骨を納めた。 高光の姫君は上京して更衣となり、皇子が生まれたので国母として仰がれた。
月日は流れ、伊香保太夫は九十八歳で、その女房は八十九歳で亡くなった。 伊香保太夫の二人の姫、石童御前と有御前は伊香保姫と暮らしていた。 高光中将の甥の恵美僧正が別当になって寺はますます栄え、岩滝沢に因んで寺号を水澤寺とした。
伊香保姫は夫の形見の千手観音を寺の本尊に祀り、二人の御前と共に、亡き人々の現在の様子を知りたいと祈った。 夢とも幻ともなく、高光中将は鳳輦、伊香保大夫夫妻は網代の輿に乗り、九人の子・三人の聟と共に御堂に入って来て、千手観音に礼拝した。 伊香保大夫の女房は輿から出て、伊香保姫の御前に居を正すと、石堂御前・有御前の肩に袖をかけて、「お前たち二人の『千手経』読誦の功徳により、伊香保山の山神や伊香保沼(榛名湖)の龍神・吠尸羅摩女に遵われ、常に御堂に参詣して信心・慙愧し、悟りを開きました。今は高光中将を主君とし、その眷属として崇められています。これもひとえに君(伊香保姫)とお前たちのおかげです」と云った。 高光中将も鳳輦から出て、北の方に「あなたの祈りにより忉利天の瓔珞の台に生まれることが出来ました。我が身も娑婆に天下って神明の形を現し、衆生済度の縁を以て、一緒に正覚の道に入りましょう」と云った。
夢から覚めた北の方は「沼に身を投げて、龍宮城の力で高光中将の所に行こうと思います」と云って伊香保沼に身を投げた。 石童御前と有御前もその後を追った。 別当恵美僧正と寺僧は三人の屍を引き上げ、水澤寺に運んで火葬にし、御骨を本堂の仏壇に下に収めて菩提を弔った。
その後、恵美僧正の夢の中に伊香保姫が現れ、「我らはこの寺の鎮守に成りましょう」と仰った。
夜が明けて枕もとを見ると、一冊の日記が有り、以下のように記されていた。
北の方は伊香保大明神として顕れた。
伊香保太夫は早尾大明神、太夫の女房は宿禰大明神。
御妹の有御前は父の屋敷に顕れ、岩滝沢(水沢川)から北に今も有御前として鎮座している。
御姉の石童御前は岩滝沢から南に立たれ、石常明神と云う。
中将殿の姫君は帝が崩御された後に国に下り、母御前と倶に神として顕れた。 これが若伊香保大明神である
恵美僧正は夢枕に現れた日記に従い、水澤寺の鎮守として崇敬した。人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国司の柏階大将知隆は朝恩を誇って国土の民を苦しめた。 伊香保山で七日間の巻狩を行い、伊香保沼に乗り馬を沈め、多くの鹿を解体した。 また、多くの藤蔓を切り、沼の深さを測ろうとした。 その夜の夢に一人の女房が現れ「この沼の底は丸くて狭く、白蛇の体(あるいは白地の鉢)に似ている。沼の深さを知りたければ図形を見せよう」と云い、その夜の間に小山を出現させた。 夜が明けると、昨夕までは無かった小山が有り、夢の中で見た通り、上が狭く下が丸かった。 国司はこの図形を描き写して日記を添え、都に奉るため里に下った。 その後、沼は小山の西に移り、元の沼地の跡は忽ち野原になった。
国司は里に下る途中、一頭の鹿を水澤寺の本堂に追い込んで射殺した。 寺の僧たちは殺された鹿を奪い取って埋葬し、国司たちを追い出した。 怒った国司は二王堂に火を付けた。 これは三月十八日のことである。 巽の風が激しく吹き、御堂・坊舎・仏像は悉く灰燼と成った。 別当恵美僧正は上京して委細を帝に奏聞した。 帝は国司を佐渡島に流すよう検非違使に命じた。
伊香保大明神は当国・隣国の山神たちを呼び集めて石楼を造った。 国司の柏階大将知隆と目代の右中弁宗安が蹴鞠をしていると、伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれ、行方不明になった。 大明神が山神たちを遣わして、主従二人を伊香保沼の東の窪の沼平にある小山の上に造られた石楼に追い入れたので、焦熱地獄の猛火が移って、燃えている地獄に入ることになったのである。 焦熱地獄における命は一増一減劫なので、此の人たちは未だ猛火の中で悲しんでいるだろう。 山神たちが石楼を造った山が石楼山である。 この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。
恵美僧正は水澤寺を山奥に再建しようと考え、黒沢の南の差出山の弥陀峰の大平に大堂を建立した。
赤城沼の唵佐羅摩女と伊香保沼の吠尸羅摩女が沼争いをした昔から、渋河保の郷戸村には衆生済度のため療治の湯が湧き出ていた。 水澤寺が差出山に建てられた時、番匠の妻子はこの湯で衣類の洗濯をしていた。 大宝元年三月十八日、僧正は一人の老女が「衆生済度の為に出した御湯が汚れ物の洗濯に使われるので、この湯を少し山奥に運ぼう」と温泉の湯を瓶に入れて弥陀峰を越えて行く夢を見た。 僧正が目を覚ますと、一夜の内に温泉が出なくなっていた。 僧正が夢に従って奥深い山に入ると、石楼山の北麓、北谷沢の東窪の大崩谷から温泉が出て、里湯本の伊香保の湯に合流していた。
伊香保大明神には 男体女体がある。
男体は伊香保の御湯守護のために湯前に鎮座し、本地は薬師如来である。
女体は里に下って三宮渋河保に鎮座し、本地は十一面観音である。宿禰・若伊香保の二所は共に本地は千手観音である。
早尾大明神の本地は聖観音である。
有御前の本地は如意輪観音である。
石垣明神の本地は馬頭観音である。その後、恵美僧正は上洛して行基菩薩の弟子の東円に別当を譲り、水澤寺の完成後に入滅した。 大宝二年二月十八日、東円上人は行基を導師に招いて水澤寺で供養を行った。
伊香保大明神を祀る神社について
伊香保大明神(男体)
『神道集』には「男体ハ伊香保ノ御湯ノ守護 湯前ノ御在時ハ本地薬師如来也」
・伊香保神社(渋川市伊香保町)
伊香保大明神(女体)
『神道集』には「女体ハ里ヘ下給テ 三宮渋河保に立御在ス本地ハ十一面也」
・三宮神社(吉岡町大久保)
〈伊賀保大明神 里宮(旧本社)〉
若伊香保大明神
・若伊香保神社(渋川市有馬)
〈伊賀保大明神 当初の鎮座地〉〈豪族・有馬氏が里宮・三宮神社を勧請した際に旧地に存続した社〉
一説に 水澤観音寺の境内 子安神社とする説あり
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
関越自動車道 駒寄スマートICから 関越道自動車に沿って北上 約1km 関越道の西側に隣接します
一の鳥居の扁額には゛正一位 三宮神社゛と刻字
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます
境内は 石垣の上に玉垣が廻され 一段高い位置にあります
三宮神社(吉岡町大久保)〈伊賀保大明神 里宮〉に参着
一礼をして二の鳥居をくぐります
扁額には゛正一位 三宮大明神゛と刻字
すぐ左手には゛神楽殿゛
正面の
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛正一位 三宮大明神゛と刻字
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『上野国神名帳(kozuke no kuni jimmeicho)』〈寛政5年(1793)〉に記される伝承
【抜粋】
上野国神名帳 鎮守十二社
正一位
抜鉾大明神〈現 貫前神社(富岡市)〉
赤城大明神〈現 赤城神社〉
伊香保大明神〈現 伊香保神社(渋川市伊香保町)〉
榛名大明神〈現 榛名神社(高崎市榛名山町)〉
甲波宿祢大明神〈現 甲波宿彌神社〉
小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉
火雷大明神〈現 火雷神社(玉村町下之宮)〉
・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊加保神社(名神大)について 所在は伊加保村に在す〈現 伊香保神社(渋川市伊香保町)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊加保神社(名神大)
伊加保は 暇字也
〇祭神 大己貴命、少彦名命、
〇伊加保村に在す、地名記
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 上野國 伊加保神社一座、
〇万葉注釋に、いかほの沼は請雨の使たつ處なり、連胤 按るに、万葉集の歌を見れば、峯も沼もありし處なり
神位 名神
續日本後紀、承和二年(八三五)九月辛未〈廿九〉以に 上野國 群馬郡 伊賀保社を 預らしむ 之を名神に、
承和六年(八三九)六月甲申〈廿三〉奉授に 上野國 无位 拔鋒神 赤城神 伊賀保神 並に 從五位下を、三代實録、
貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥、授 上野國 從四位下勳八等 貫前神 從四位上 從五位上 赤城神 伊賀保神 並正五位下、
貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申、授上野國正五位下 伊賀保神並正五位上、
貞觀十八年(八七六)四月十日〈丁巳〉、授 上野國 正五位上 伊賀保神 從四位下、
元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉授 上野國 從四位下 伊賀保神 並從四位国内神名帳云、正一位 伊賀保大明神
雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏亀卜、御體御卜、中略 坐上野國 伊賀保神、云々、社司等依過穢神事祟給、遺使科中祓可令祓清奉仕事、下略 宮主從五位下行少祐卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大中臣朝臣輔清
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊加保神社(名神大)について 二か所を挙げています
1.伊加保村 伊加保山に在り、伊香保大明神〈現 伊香保神社(渋川市伊香保町)〉
2.三宮〈現 三宮神社(吉岡町大久保)〉
【抜粋意訳】
伊加保神社
今 伊加保村 伊加保山に在り、伊香保大明神と云ふ、
〇按 仙覚萬葉鈔云、伊香保沼は、雨請の使たたつ處也、又 八雲御抄に、いかほの沼、上野、在に山上池なりとみゆ、今も山の二里許に沼ありて、榛名の御手洗と云り、凡 旱魃の時、其の水を乞帰りて田畝に漠く時は、甘雨立處に至るとぞ、姑附て異聞をひろむ、
即 三宮也、神道集 大己貴命を祀る、本社傳
仁明天皇 承和二年(八三五)九月辛未〈廿九〉、名神に預らしむ
承和六年(八三九)六月甲申〈廿三〉奉授に 上野國 无位 伊賀保神に 從五位下を、續日本後紀清和天皇 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 伊賀保神 並正五位下、
貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申、伊賀保神並正五位上、
貞觀十八年(八七六)四月十日〈丁巳〉、伊賀保神 從四位下、陽成天皇 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉伊賀保神 並從四位上、
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列す、延喜式
堀河天皇 康和五年六月、伊加保神の社司に中祓を科す、神事を穢せる祟あるを以て也、朝野群載
凡 九月十九日祭を行ふ、熊谷縣注進状
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊加保神社(名神大)について 所在は伊香保村〈現 伊香保神社(渋川市伊香保町)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊加保神社(名神大)
祭神 大己貴命
神位
仁明天皇
承和二年(八三五)九月辛未〈廿九〉、名神に預らしむ
承和六年(八三九)六月甲申〈廿三〉奉授に 上野國 无位 伊賀保神に 從五位下を、續日本後紀清和天皇
貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 伊賀保神 並正五位下、
貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申、伊賀保神並正五位上、
貞觀十八年(八七六)四月十日〈丁巳〉、伊賀保神 從四位下、陽成天皇
元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉伊賀保神 並從四位上、祭日 九月十九日
社格 縣社所在 伊香保村(群馬郡伊香保村大字伊香保)
【原文参照】
『上野國志(Kozukekokushi)』に記される伝承
伊香保神社(渋川市伊香保町)について 式内社であると記しています
【抜粋意訳】
伊香保神社
伊香保山に坐す、今温泉浴室ありて、繁華の地なり、往古は有馬村に属す、
績日本紀、承和二年九月辛未、以上野國 群馬郡 伊賀保神、預之名神、同六年六月甲申、奉授 上野國 无位 伊賀神 從五位下、三代實錄、貞観九年六月廿日丁亥、授 上野國 從五位上 伊賀保神 正五位下、同十ー年十二月二十五日戊申、授正五位上、同十八年四月十日丁酉授、從四位下、
元慶四年五月二十五日、授從四位上、
倭論語、伊加保大明神託宣云、我國の直き心を、人の國には、明かなる徳と名つけて、佛といへり、盆人よ正しく直かれ、心を苦めて學ひ知ることはなし、
【原文参照】
三宮神社(吉岡町大久保)〈伊賀保大明神 里宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)