棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
棒原神社(Sugihara shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県度会郡玉城町上田辺字朝久田2466
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま)
御前神(みまえのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『大神宮叢書』第2 前篇〈昭和10至15年〉に記される内容
【抜粋意訳】
卷第十五 大神宮儀式解 管度會郡神社行事(續) 官帳社 棒原神社
棒原神社(ハイバラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)
棒原はいかによむにや。或人は須藝波良(スギラ)と讀來るよしいへどよしとも思はず。按に、棒は榛の誤字ならん。さらぱ波伊波良(ハイバラ)とよむべし。博雅に、草ノ叢生ヲ爲レ薄、木ノ叢生ヲ爲レ榛。播岳ガ詩、荊楚成レ榛。字典、聚木ヲ曰榛ト、などいへど ,榛の字御國にては昔より波伎(ハキ)とよみて ,萬葉集往々芽子(ハキ)と通(カヨ)はし用ゆれば、波伎波良(ハキハラ)なるを、伎(キ)と伊(イ)を通(カヨ)へば波伊波良(ハイバラ)とよむなり。又榛を波利(ハリ)ともよめり。楊雄反騒、枳棘之榛々号、注ニ榛々ハ梗穢ノ貌、とありて、針(ハリ)の義(ココロ)もて波利(ハリ)とよむなり。或人、棒は何の木といふことは知らねど昔此ノ字を用(モチ)ひし木此邊(コノアタリ)にもあるなり、嘉曆勅使記、御随身(ゴズイシン)六人、中ノ上六前、酒殿東棒本坐。年中行事、〔六月十五日〕、於に酒殿の後の棒の木の本に、とあり、皆棒の字なれば、棒は誤字にはあらじといへり。當社は田邊郷田邊村の内 阿佐久多(アサクダ)村に在り。
この邊 上古(ムカシ)は榛原(ハイバラ)といひしならん。仍て地名を社號とせしなるべし。大神宮式、所攝二十四座云々、棒原社云々、右の諸社竝に預に祈年神嘗祭に、といへり。當社昔は國郡司造れり。次瀧原神社の下、右社随に破壊之時に、國郡司以に正税修造、と見ゆ。いつの比よりこの式すたれ、社地のみにて社は絶(タエ)たるを、寬文年中大司精長朝臣古式のごとく再興の後、宮司より造り替らる。稱(マヲス)天須婆留女命御玉(アマノスバルメノミコトノミタマ)。形無(ミカタナシ)
稱は上の例とひとしく、下の御玉(ミタマ)よりかへりて訓べし。
〇天須婆留女命は上〔江神社の處〕にいへり。此の神 多氣郡須麻漏賣神社に坐(マシマ)す。此處(ココ)にはその神の御霊(ミタマ)をまつれり。奈良朝廷御世定祝(ナラノミカドノミヨイハイマツル)
奈良朝廷御世は上〔管四所神院行事〕にいふごとく、代々を重(カサネ)て奈良朝廷といへば、いづれの御時(ミコ)にや定めがたし。
正殿二區(セイデンニク)。長さ各六尺。弘さ各四尺。高さ七尺
正殿二區の中、一區は須波流女(スバルメノ)神の御霊(ミタマ)を齋ひ、ー區は前(マヘ)にて須波留賣(ズルメノ)神を祭(マツリ)奉(タテマツ)る彌。又御子神など祭るにや。千木堅魚木己下宮殿の制、古も今世のごとく造奉りしならん。ここにいはぬは文の略なるべし。今時(イマ)正殿一宇、長さ五尺、弘さ三尺五寸、高さ九尺七寸、板葺、千木四枚、堅魚木四枚あり。残る一字は造り奉らず。
玉垣一重(タマガキヒトヘ)。四方各二丈
此の玉垣一重の中正殿二區を造立しならん。此の垣今も造奉れり。又今世件の垣に属たる御門一間、鳥居ー基を造進れり。〇當社御装束神實、今世御樋代一合、御床一具、御幌一條、奉遷絹垣一條、御鉢二竿 ,御矢四隻、御号二張、御櫛筥ー合、御鏡一面を宮司より作り進れり。
坐地(オハシマストコロ)三町(サンチョウ)
四至(シシ)。東南松原。西澤岡。北道公田松原は麻通波良(マツバラ)と讀べし。和名抄、漢書云、樹以に青松、祥容反、字亦作榕、見唐韻 和名萬豆(マツ)、毛詩に云、高平を曰レ原、音は源、和名八良(ハラ)、とあリ。澤は上〔蚊野社の所〕にいへり。岡は袁加(ヲカ)とよむべし。小高(ヲタカ)の意なり。
和漢三才圖會、岡は山の脊也、四方高く中央下を曰丘、前高く後下を旄兵、高平を曰レ陸、大陸を曰、阜。和名抄、周禮の注曰に、土高を曰レ丘、岡は丘也、正作レ崗、和名乎加(ヲカ)、とあり。こゝに北道といふは、今存(ア)る大和街道(ヤマトミチ)なるべし。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年〉に記される内容
【抜粋意訳】
棒原神社(すぎはらじんじゃ)
坂手國生神社を拜し終り、もと來た道を戻り、省線の線路に沿ふた道を西すると朝久田の部落にある棒原(すぎはら)神社に達する。本社は皇大神宮の攝社で、御社名は延喜大神宮式には棒原社に作ってゐる。
鎭座地は、度會郡田丸町大字上田邊の小字朝久田で、部落の北隣りの丘陵の上に祭られてゐる。この丘陵は杉の森といはれ、上ってみれば分るが、古墳地帶で、古代この地方開拓の荒木田氏祖先の墳墓を傳へてゐるものである。御社名の棒原は、この丘陵地一帶の杉原にうしはぎゐます神の社であって、御祭神は儀式帳に天須婆留女命御玉(あめのすばろめのみことのみたま)と見えてゐる。この御祭神の名前は、未詳であるが、多氣郡に須麻漏賣神社 (延喜式内社 )いふ神社の社名と考へ合せるべきものである。
一説にはスバルとは二十八宿の一つに當る昴星(すばるぼし)のことである。この星はスバリ星とも、六連星(むつうぼし)とも言って我國農村に於て、古くから農耕上親しく信仰されてゐる星で、この星の出具合を見て播種するのである。信州では、このスバル星が中天に來た頃に、耕麦を蒔くと豊作だのいひ、「スバル眞ン時粉八合」といふ諺が傳へられてゐる、スバル星のことはこの外、丹後國風土記と浦島子の傳説の所にも、その名が見えてゐる。この御祭神によって星の出工合を見て農耕を占った信仰が、この地方にも行はれてゐたことが分るのである。
儀式帳に御社殿は二宇とあり、ー殿は天須婆留女御玉であり、ー殿は御前神(みまへのかみ)を御祭り申し上げてゐたものであるが、寬文三年御再興後、ー殿となって今日に至ってゐる、御社地三町とあり。奈良朝廷(ならみかどの)御代(みよ)に祝ひ定められたと見えてゐるから、奈良時代の御鎭祭といふことになる。攝社末社の中で奈良時代に出來た神社は最も新らしいもので、これはこの地方の開発が、それだけ遅かったことによるものである。儀式帳を見ると、攝末社の御鎭祭について
⑴倭姫命の御鎭祭
⑵雄略天皇の御代の御鎭祭
(3)奈良朝時代の御鎭祭
の三つの変遷を挙げてゐるが、この時代順は ,その地方地方の開発と、その開発に伴ふ、神社鎭祭の順序を示すものとして、注意すべきものである。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
棒原神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭に並預゛と記されます
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 棒原神社
[ふ り が な ](をいはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Woihara no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』について
延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです
両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉は『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載されます
内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について
お伊勢さん125社について
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR外城田駅から線路沿いに東へ約650m 徒歩10分程度
線路沿いに東へ進み朝久田区で踏切を渡ると 背後にこんもりとした丘 地元では「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します
「杉の森」の南面に 古墳丘へ上がる参道の石段があります
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
一礼をして 石段を上がります
石段の途中に 社号標と水盤がありました
古墳丘の上が境内となっています
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
南面に下る石段の上からは 玉城町の田園地帯が広がり その遥か先には
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉の鎮座する的山が聳えています
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 棒原神社について 所在は田邊郷田邊村に在す〈現 棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
棒原神社
棒原は 須伎波良と舊訓あり
〇祭神 天須婆留女命御魂
〇田邊郷田邊村に在す、神名略記、
〇式四、伊勢大神宮 大神宮所攝二十四所之の第十九に載す、
〇儀式帳云、稱に天須婆留女命御魂、形無、奈良朝廷御代定祝、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 棒原神社について 所在は田邊郷田邊村の朝久田邑にあり〈現 棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
棒原(スキハラノ)神社
今 田邊郷田邊村の朝久田邑にあり。神祇本源、延暦儀式帳、神境紀談、
〇按 一説に棒原は土人すぎはらと云ひならはせり、と云に據て考ふるに、奉はささくる字の義なば、木の傍らに奉を書て、杉の義訓に假用ひしなるべし、大安寺資財帳河曲郡棒迫とあるは、すぎの迫にて、河曲郡 須伎神社の地に由あり、棒原と須婆留と通ひて聞ゆるも、此に曲錄あり、附て考にそなふ、
天須婆留女命の御魂を祭る、奈良朝廷御世に定祝奉る、延暦儀式帳、
〇按 奈良朝廷は、何れの天皇の御代を申せるにや詳ならず、今 姑 舊文に随ふ、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 棒原神社について 所在は田邊郷朝久田村〈現 棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
棒原神社
祭神 天須婆留女命御玉
今按 棒原は舊訓にスギハラとあり 今の社地を土俗 杉と稱するを以て 寛文三年 其小山に遊立す 舊社の有無詳ならず 儀式解に棒は榛の誤字ならむハイハラと訓すべしとあるは從がたし
祭日 二月十一月並十二日
社格 内宮所攝 二十四所之一(内宮攝社)所在 三重縣田邊郷朝久田村 (度會郡田丸町大字上田邊 )
【原文参照】
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)