坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 創建について『倭姫命世紀』に゛垂仁天皇の御時 倭姫命が皇大神を奉戴し この地に御遷幸の時 國つ神の゛高水神(たかみづのかみ)゛が この國は岳高田深坂手國(をかたかしたふかしさかてのくに)とお迎え申し゛田上御田(たのへのみた)゛を奉られたので 坂手社(さかてのやしろ)が祝い定められたと云います
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
坂手國生神社(Sakatekunari shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県度会郡玉城町上田辺字大山田二144-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高水上神(たかみなかみのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年(1943)〉に記される内容
【抜粋意訳】
坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)
荒木田二門の氏社の跡を拜し終って、三町程西すると、北へ入る山道がある。そこを五町程山の中に入ると潮尾崎(うしをがさき)の池の畔に出る。神社は池の西隣りの小高い丘の上にある。
鎭座地は田丸町大字上田邊である。本社は皇大神宮の攝社で ,その御社名を皇大神宮儀式帳には坂手(さかて)神社といひ、延喜大神宮式には坂手國生社(さかてくなりのやしろ)、同神宮式には坂手國生神社と見えてゐる。
御社名の坂手(さかて)は、上田邊(かみたぬえ)の山中で、丘陵をなす地の坂の邊りにあるを以て、その名としたものである
御祭神は大水上神(おほみなかみのかみ)の兒の高水上神(たかみなかみのかみ)にまします。この大神は田邊神田の灌漑用の水上の神であって、坂手の地方の水上を守り給ふ神である。御正殿は一宇で、御社地は古くは五町四方もあったと見えてゐる。
御鎭祭の由緖については、倭姫命世紀に垂仁天皇の御とき、倭姫命、皇大神を奉戴して、この地に御遷幸ありしとき、國つ神高水神(たかみづのかみ)がお迎え申し上げた。そのときこの國は岳高田深坂手國(をかたかしたふかしさかてのくに)と申して、田上御田(たのへのみた)を奉られた功績に對して、倭姫命によって、ここに坂手社(さかてのやしろ)が定められたのであると言ひ傳へられてゐる。中世社殿荒廃せしを、江戸初明の寬文三年再興し ,以て今日に及んでゐる。再興のとき、舊社地から祭祀土器多数発掘したと傳へられてゐる。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
坂手国生神社(内宮摂社) さかてくなりじんじゃ
祭神 高水上神(たかみなかみのかみ)
この地域の灌漑用水を守る神さまが祀られています。牛尾崎池という大きな池を見下ろす小高い丘にご鎮座しており、社名の由来といわれています。
玉城町(たまきまち)ご利益めぐり パンフレットより抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
坂手國生神社は 皇大神宮(内宮)の摂社
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭。
以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 坂手國生神社
[ふ り が な ](さかてのくなりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sakate no kunari no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・内宮・外宮の別宮・摂社・末社について
・お伊勢さん125社について
゛國生神(くなりのかみ)゛について
『延喜式』には「國生(くなり)」を号する式内社が五社(・狭田国生神社・坂手国生神社・川原坐国生神社・大間国生神社・国生神社)あります
何れも 伊勢國の式内社で 神宮と深く関わっています
しかし 御祭神は 神社ごとに別々で 特定の御神名ではありませんので 各々の地域の地主神に対する美称であろうと考えられています
すなわち 國生神(くなりのかみ)とは ゛国土に生まれでた神゛゛国を生む神゛の意で ゛國魂神(くにたまのかみ)゛の如く そこを支配し國土の生育を司っている神が 國生神(くなりのかみ)であろう とされます
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式内社〈伊勢國〉の中で゛國生神(くなりのかみ)゛を号する五つの社
①伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)
・狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
②伊勢國 度會郡 坂手國生神社(さかての くなりの かみのやしろ)
・坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
③伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)
・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
・須原大社(伊勢市一之木)
〈高河原神社の旧社地〉
④伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)
・大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
⑤伊勢國 多氣郡 國生神社(くなりの かみのやしろ)
・鳥墓神社(明和町簑村字鳥墓 )
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 田丸駅から 北東へ約3km 車6分程度
旧 伊勢本街道を西へ進みます
伊勢本街道ISEHON KAIDO(初瀬街道) (HASE KAIDO)
奈良からの最も古い参宮街道の一つに伊勢本街道がある。この街道は、津留で櫛田川を渡ると相可に出て、外城田平野北側の池上・土羽茶屋・茶屋などの集落を通過しまっすぐ東へ進むと田丸に至る。田丸を経てさらに東進すると、いよいよ川端にある宮川の上の渡し (柳の渡し )を渡って神都山田に入り、神宮に参拝する。田丸は伊勢に入る直前に位置しているので、おかげ参りの隆盛にともなつて、宿場町として盛況ををほこることになった。伊勢本街道は田丸で熊野街道とも合流しており、おかげ参りだけでなく西国巡礼の人びとも往来する分岐点としても、宿場町田丸は大変重視された。
現地の伊勢本街道の案内板より
上田辺羽根遥拝所を右折して 潮尾崎(うしをがさき)の池の西畔を北へ進むと 左手の丘に入口があります
坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
参道の左手 斜面には 紀州藩が建てた「禁殺生・享保甲辰(1724年)」の石柱
石畳の参道が 丘をゆるやかに上がるように続いています
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待つ〉
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 石畳の参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 坂手國生神社について 所在は上田辺村乾也 に在す〈現 坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
『倭姫世紀』の引用として 寒川(外城田川)を遡り ここに至った倭姫命を高水上命が出迎え「田上神田」を献上したので 坂手国生神社が定められたと伝えています
【抜粋意訳】
坂手國生神社
坂手は佐加天と訓べし、國生は前に同じ、
○祭神 高水上命
○田邊郷氏社北岡 今上田辺村乾也 に在す、 神名略記
〇式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第廿一に載す、
○倭姫世記云、從に其処幸行、高水神参相支、汝国名何問給、白久、岳高田深坂手國止白弖、田上御田進支、即其処坂手社定給支、」
儀式帳云、稱に大水上見高水上、形石坐、倭姫内親王定祝、」
神名略記云、寛文三年建に社此地、堀に出上古器物土瓶六口、所謂 氏社荒木田二門氏社也、社今則亡、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 坂手國生神社について 所在は田邊郷村にあり〈現 坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
坂手國生(サカテノクニナリノ)神社
今 田邊郷村にあり、延暦儀式帳、、神名帳考証、〇按 伊勢式内険録に、上田邊村の社、千載の古色ある地にて、本社なるへしと云り
大水上兒、高水上を祭る、形石に坐せり、倭姫命定祝奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 坂手國生神社について 所在は度會郡田丸町大字上田邊〈現 坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
坂手國生神社
祭神 高水上神 (大水上兒 )
祭日 二月十一月十二日
社格 内宮所攝 廿四所之内 (内宮摂社)所在 三重縣田邊郷田邊村潮崎池西山上(度會郡田丸町大字上田邊)
今按 檢錄に寛文三年今の地に造立しつれど 舊社は上田邊村 産神社の地なるべしと云り 姑附て考に備ふ
【原文参照】
坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)