六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
六郷神社(Rokugo shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
東京都大田区東六郷3-10-18
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉陀和気命(ほんだわけのみこと)〈応神天皇〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
六郷神社由緒
鎮座地東京都大田区東六郷三丁目十番十八号
祭 神 誉田別尊(応神天皇)
本 殿 享保四年(一七一九)建立の三間社流れ造り
拝殿・幣殿 昭和六十二年(一九八七)鎮座九百三十年祭記念造営の総檜権現造り
境内末社天祖神社(天照大御神)氷川神社(素盞鳴尊)
三柱神社(日本武尊・大物主命・布津主命 <合祠>天太玉命・天児屋根命)
稲荷社(宇迦御魂命)祭事暦
一月一日 歳旦祭 六月三十日大祓
一月七日 流鏑馬祭 九月二十二日天祖神社・氷川神社歳
一月十五日 成人式 十一月十五日七五三
二月三日 節分祭 十一月二十四日新嘗祭
二月十八日 祈年祭 十二月三十日大祓
六月三日 例大祭当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守として、 ひろく崇敬されています。
社記によれば、源頼義・義家の父子が、天喜五年(一〇五七)この地の大杉に源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。
文治五年(一一八九)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(一一九一)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉献したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。
天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進し、慶長五年(一六〇〇)六郷大橋の竣功に際しては、神威をたたえて祝文をたてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また、鷹狩りの途次にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以です。
江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(一八七二)に東京府郷社に列し、同九年より六郷神社と改称して今日に至っています。
なお当社には、毎年一月七日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と、六月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた六郷八幡宮
社殿正面の道が、慶長六年(一六〇一)に幕府の制定した古い東海道で、松並木が続いていました。 これが西方に付け替えられたのは元和九年(一六二三)といわれます。このとき、神域を囲っていた構掘の一部を埋めて、脇参道ができました。
往還の両側に並んでいるのは八幡(はちまん)塚村の人家で、 脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里 (一五・六キロメートール)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。東方はるかに連なるのは房総の山山で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面は水田です。
社殿の上の方にひときわ大きくめだっているのは、今も境内にある塚で、八幡塚あるいは神輿塚と呼はれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。かつて六郷六か村の中心をなし、当社の宮本でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。
近代に及んで東海道は第一京浜国道となりますが、脇参道付近から六郷橋へ向かう道筋の一部は、 旧東海道の幅員を比較的よく残しています。
ちなみに『江戸名所図会』は、天保七年(1836)に刊行された地誌です。
(平野順治撰文)
平成四年三月吉日 奉納 六郷神社崇敬会現地案内より
【由 緒 (History)】
由緒
当社は多摩川の清流に南面する古い八幡宮で、六郷い遅延の総鎮守として広く崇敬されております。
御祭神は誉陀和気命(応神天皇)で、例祭日は6月3日です。
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、前9年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の例にならい、白旗を立てて戦捷を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として18石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いている所以は、ここにあります。
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新により廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治九年より六郷神社と称して今日に至っております。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・八幡塚
〈『新編武蔵風土記稿』「本社に向て右の方林の中にあり、前にいへる荒神の神体を埋めたるしるしの塚なり、村名もこの塚により起りしことは已に前に見えたり」〉
・白旗の杉〈大正十一年(1922)枯木〉
〈源頼義・義家父子が 前九年の役で奥州へ向かう折 この大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り 八幡神〈源氏の氏神〉に戦勝祈願をしたところ 軍の士気が大いに高まり見事勝利 前九年の役より凱旋後 当地に京都 石清水八幡宮より勧請して 八幡宮を創建したのが六郷神社の創建とされます〉
・手水石(水盤)〈源頼朝が寄進〉
〈境内社3社合殿と1社〉向かって右から
・稲荷神社《主》宇迦御魂命
・氷川神社《主》素盞嗚命
・天祖神社《主》天照大神
・三柱神社《合》天太玉命,天児屋根命《配》日本武尊,大物主命,布津主命
・六郷橋の親柱
旧六郷橋の親柱
慶長五年(1600)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は貞享五年(1688)の洪水により流失して以来、六郷と川崎間の渡河は186年間の長きにわたり渡し船でした。
明治七年(1874)に八幡塚村の名主鈴木左内が、私財を投じて有料橋を架けけました、左内橋も四年後の明治十一年(1878)の洪水により流失しました。
その後、八幡塚村議会の有志七名が川崎駅の有志六名とともに架橋を共同出願し、明治十六年(1883)「旧六郷橋」が開通しました。
この木橋は明治三十年(1897)に架け替えられ、京浜電気鉄道(現・京浜急行)へ売却、人と共に電車が木橋を渡りました、しかし明治四十三年(1910)当地を襲った大型台風による洪水により流失しました。
木橋の流失後、東京府と神奈川県が共同で木製の仮橋を架けましたが、交通の発達と共に橋の強度を完全なものにすることが課題となり、大正九年(1920)両府県折半で鋼鉄製の新橋建設が決定しました。
大正十四年(1925)鉄筋コンクリート製タイドアーチ式の先代「六郷橋」が開通しました。
昭和元年(1926)に旧六郷木橋の遺構である親柱は、切妻屋根を附して六郷神社境内に保存されました。建立したのは旧出雲町(旧出村)の氏子総代・金子重太郎でした。
時を経て親柱を保護する屋根に傷みが見えるため、平成二十六年(2014)金子重太郎の三男・金子重雄と重太郎の孫、東六郷一丁目氏子総代・金子義裕が屋根を更新、修復しました。
力石富司(記)現地立札より
・神楽殿
・西の鳥居〈旧東海道に面する〉
・神門・南の鳥居・神橋
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・北野天神〈通称 止め天神〉
この付近 東海道沿いで徳川八代将軍吉宗公が馬から落ちそうになった時 落馬を免れたため この神社の加護があったとされ「落馬止め天神」と呼ばれました 現在では落馬だけではなく 様々な難を“止める”ご利益から 受験や選挙に落ちないように祈願する人も多いとのこと
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
官社に列した 蒲田(カマタノ)神が 薭田神社だとされています
【抜粋意訳】
巻九 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉の条
○十四日戊辰
詔の以て
美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ](ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hieta no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について
・薭田神社(大田区蒲田)
・御田八幡神社(港区三田)
・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
・六郷神社(大田区東六郷)
・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
・久が原東部八幡神社(大田区久が原)
・久が原西部八幡神社(大田区久が原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京急雑色駅と六郷土手駅の中間辺りですが 六郷橋を歩いて渡ってみようと京急川崎駅で下車 第一京浜を東京方面に約2km 徒歩30分程
六郷橋から京急とJRの鉄橋方向を見ます
多摩川を東京側へ渡ると 止め天神があります
南側の神門
六郷神社(大田区東六郷)に参着
一礼をして鳥居 神門をくぐり 境内へ進むと正面に社殿がありますが 参道と社殿はわずかに向きがずれていて 参拝者が正中を歩まない配慮がなされています
拝殿にすすみます 参道の両脇に 紅白の梅が咲き始めていて縁起がよさそうです
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は立派なもので 拝殿の奥に幣殿 本殿が祀られます
境内は アスファルト敷になっていますが 見事に清掃されていて 枯葉やゴミ一つありません 灰色の石畳みとのアクセントが見事です
社殿に一礼をして 西側の旧東海道沿いの鳥居へと参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
六郷神社(大田区東六郷)について 式内社 稗田神社とする説があるが 当社とともに四社がある 他の三社は次の通り
芝田町八幡社〈現 御田八幡神社(港区三田)〉
蒲田村八幡社〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉
鵜木村名主五郎右衛門が宅地に祀れる鵜森明神〈現 鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)〉
又 もとは祭神が三座であったが 今は一座となっている その理由について 古くは三座の神輿があったが 一座の神輿が多摩川渡御の際に上総国に流されてしった もう一座の神輿は 荒神でしばしば祟りを起こし神職や氏子で相談して土中に埋めてしまったと記されています
【抜粋意訳】
巻之四十 荏原郡 巻之二 六郷領 八幡塚村
八幡社
村の東側にあり 社地社領の内にあるをもって別に除地なし
當所及び高畑 古川 町屋 道塚 雑色等六ヶ村の総鎮守なり
武州式内神社考には 當社を稗田神社とす
然るに 稗田神社と称するもの 當所ともに四社あり 芝田町八幡社 蒲田村八幡社 及び 鵜木村名主五郎右衛門が宅地に祀れる鵜森明神 この三社も皆 稗田神社なりと云
かくの如く所々にあれば いづれをそれともさたむべからされど 蒲田村八幡社は神祇菅吉田家より稗田の號をゆるされしと云ときはこれを是とすべきにや當社のつたえに 當所八幡宮は右大将頼朝の建立にして祭神三座ありと 又云 頼朝の高祖義家 奥州征伐の時 鶴ヶ岡八幡宮に祈請ありてこの地に旗をたてられしに立願空しからさりし吉例あればとて 頼朝もまた奥州下向のとき この地に旗をそたてをれける さてこそ勝利ありしかば 凱旋の後 新に建立ありしきとそ、これ建久二年の事にて 當時の棟札 今に存せりと
或はいふ 奥州征伐のときの勧請にあらず 石橋合戦敗北の後 安房國より上総國へ渡海ありて ふたたび旗をあけたまひしとき 當所に旗をたてられやがて開運の後 鶴ヶ岡八幡をこの所へ勧請して 神輿の内に来由を書記し かたく封して納めおかれしともいひ
又は 頼朝の勧請にあらず 竹内某建立せしともいひ傅へり
いつれの説を得たりとせんや知べからず この後も世々修造ありしとて棟札存せり
小田原紀に 永禄十二年 武田信玄乱入のとき 六郷の行方弾正巳が 屋敷の近所なる八幡を要害にかまえて 守りしとあるは當社のことなり
御入國の頃 東照宮 御遊獵の次當社へ詣でたまひ 明る十九年十一月社領十八石の地を御寄附あり
其文左の如し
寄進八幡武藏國荏原郡六郷之内拾八石之事右令寄附詑、彌可抽武連長久精誠者也、仍如件 天正十九年十一月日 御朱印・・・・(中略)
〇表門 鳥居 裏門 鳥居二基
本社 二間に三間 祭神三座なりしかと今は一座となれり 社記に云 いつの頃か祭禮の時 三座の神輿を各船にして多磨川に漕出せしに 一座の神輿を載せし船 大師河原の邊大野の鼻と云所にて船底より水さし入て水底に沈み そのありかを矢へりかくて神輿は波浪のためにゆられて 上総國八幡の岸につきたりしを彼所の人取あけ社をたて祭れりとそ 又一座はことに荒神にして 土人しばしば祟を受しにより 衆議して神體を毀ち土中に埋みしと云 共にいふかしき説なり されば今神體は只一座となれり 祭禮は 年ことに六月十五日なり その指揮は 神輿を昇出し往還をわたす 又獅子頭の仮面三箇を持出つ 其餘白木綿の割手三尺ばかりなるものを竹の先につけ これを御旗絹と唱てかつきめくる これ頼朝出陣の時の旗に擬せるなりとそ この祭禮 昔は年々八月十五日に行わて 神輿は隣村羽田村より船に奉し 多磨川を漕めくりしかと前にいへるごとく 一座の神輿水に没せし時より 今の日にあらため舟をもやめしとそ 又旱魃の時は 獅子頭よいだめ雨を新るに驗ありと云 當社に世々造営の棟札の文の寫あり 其年代は建久二年 永享七年 享禄四年等三度にて其中 享禄の札には地官行方半左衛門殿台感 串田式部殿御代なりとありと云拝殿
旗懸杉 本社の傍にあり 頼朝奥州征伐の時 妥に白旗を建られし所なりと云ふとふ東照宮御宮 熊野稲荷合殿
八幡塚 本社に向て右の方 林の中にあり 前にいへる荒神の神體を埋めたるしるしの塚なり 村名も この塚により起りしことは己に前に見へたり
別當寶珠院
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
六郷神社(大田区東六郷)について 源頼朝公が 安房国より大軍を率し 鎌倉へ入りされた時 当社にて籏を建て戦勝祈願をされて勝利されたので 勝利の後 鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと記しています
又 頼朝公が遣わした梶原は 梶原景時ではなくて 梶原三河守 あるいは梶原助五郎であろうとも記しています
【抜粋意訳】
巻之二
八幡塚(はちまんつか) 八幡宮(はちまんぐう)の絵図
六郷八幡宮(ろくごうはちまんぐう)
六郷の惣鎮守尓して 八幡塚村尓あり
別当は 真言宗にして 御幡山宝珠院建長寺と号す
相伝ふ 鎌倉右府将軍 頼朝卿 安房国より大軍を率し 鎌倉へ入りたまふ頃 このところにて籏を建て 軍勢の著到を記したまひし旧跡なりといへり 勝利の後 鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したまふとぞ 祭礼は六月十五日にして神輿 羽田より大師河原へ移りたまふ 当社に頼朝卿建立のとき 梶原奉行せしことを記せし梁牌ありといへり 按ずるに 梶原は景時ならず 馬込村万福寺の条下に挙ぐるところの小田原北条家の幕下 梶原三河守 あるいは梶原助五郎らの内ならんか八幡塚
本社より右の方の蒼林のうちにあり 一堆の塚にして樹木繁茂せり籏立杉
社地にあり古屋敷
大門のかたへの畑をしかとなへたり 按ずるに 行方弾正明連が家の跡ならんか 当社大門石橋の通りを古への海道と称せり また竹林あり 昔 頼朝卿旗竹に用ひられたりとも あるいはまた鞭を地にさしたまひしもの かく繁茂せしともいふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています
【抜粋意訳】
薭田神社
薭田は 比恵多と訓べし、
〇祭神詳ならず
〇蒲田村に在す又云、江戸三田小山 薭田八幡宮
〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、
官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています
【抜粋意訳】
蒲田(カマタノ)神社
〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」
今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に 三代実録
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています
【抜粋意訳】
薭田神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
六郷神社(大田区東六郷)について 式内社の薭田神社とする説や 四社ある論社の一つとする説などを載せています
【抜粋意訳】
〇東京府 武蔵國 荏原郡 六郷村 大字八幡塚
郷社 六郷(ロクガウノ)神社
祭神 應神(オウジン)天皇
創建年代詳ならす、
今 新編武蔵風土記稿に拠れば「八幡杜、村の東側にあり、社地社領の内にあるを以て別に除地なし、当所(八幡塚)、及高畑、古川、町屋、道塚、雑色等六ヶ村の総鎮守なり」とあり、新記に「六郷領は郡の南方にして、多摩川の涯三十四村、中にも八幡塚、高畑、古川。町屋、道塚、雑色の六村古は一村にして六郷と云へり」と見え、社名の因て來る所を説明するものゝ如し、
然るに 当社は蓋 鶴岡八幡宮の別宮にして、往昔其の六供郷として寄附せし地に建てられ、六郷といふも其六供郷の中略なるべし、偖 武州式内神社考には当社を以て 式内稗田神社に擬すと雖も、かの稗田神社と称するものは当社と共に四社あり(芝田町八幡社、蒲田村八幡社、鵜木村鵜森神社及当社)と云へは、何れをそれと定め難し、
江戸名所圖曾に拠るに「六郷の惣鎮守にして、八幡村にあり、別当は眞冒宗にして、御幡山宝珠院建長寺と號す、相傷ふ、鎌倉右府将軍頼朝卿、安房國より大軍を率い鎌倉へ入給ふ頃、此所にて籏建、軍勢の著到を記し給ひし旧跡なりといへり、勝利の後鶴岡八幡宮を勤請し給ふとそ」とあり、
一説は頼朝石橋山に敗れ上総國へ渡られし時当所に旗を立て、後鶴ケ岡八幡を此所へ勤請したりとも云ふ、小田原記に 永禄十二年 武田信玄 乱入の時 六郷の行方弾正己が屋敷の近所なる八幡を要害に構へ守りし由あるは当社の事なり、徳川家康入國の頃遊獄の途次詣て給ひ、天正十九年十一月社領十八石の地を寄せらる、其文に曰く
「寄進八幡武藏國荏原郡六郷之内拾八石之事右令寄附詑、彌可抽武連長久精誠者也、仍如件 天正十九年十一月 御朱印」又慶長5年に家康の納められしと称する願書あれど長文なれば略しつ。
社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地二千九百余坪(官有地第一種)、清楚なる社域なり。境内神社 猿田彦神社 随神神社二社 稲荷社 御嶽神社
【原文参照】
六郷神社(大田区東六郷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)