乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
乙和多都美神社(Otowatatsumi Shrine)
(おとわたつみじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県対馬市厳原町久和1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》玉依姫命(Tamayorihime no mikoto)
豊玉姫命(Toyotamahime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)〈論社〉
【創 建 (Beginning of history)】
・不詳
【由 緒 (History)】
・不詳
乙和多都美神社
神社明細帳の由緒によれば、神功皇盾此浦に御舟を止め、親ら祭り給ふ所なり。
明治7年6月村社に列せらる
とあるだけで、これが式内の名社であることを陳べていない。また村の人たちに尋ねても、式内社のことを言ふ人はない。神功皇后の話は出てくるが、これは 対馬の海邊の神社には何処もあることなので、これだけで証とするわけにはいかない。
しかし当社が、下縣で唯一のワタツミの社号を伝へた神社であることは、『対州神社誌』に見られる通りである。それには、
和田津美大明神。神躰石。勧請不知。
本社壹間角、申方ニ向。村より辰方二町程之所也。
拝殿九尺ニ壹間。神山社祭推率五斗蒔程、椎雑木有之。
六月初午日、十一月初午日村中より祭之。爲祭料率貮斗貮舛出之、巫府内とら。
とあり、これが当社に関する記事の全文である。これでは普通の村の氏神といふだけで、和多都美の特色も見られず、官社の伝統もない。社号は確かにワタツミであるが、その由緒は全く不明である式内社調査報告 よ
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・山頂の本殿横に 祠2宇 祭神不詳
・山麓の拝殿横に 祠1宇 祭神不詳
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Myojin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
和多都美神社 一座 と記されています
国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 和多都美神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](わたつみの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name](Watatsumi no kamino yashiro)(Myojin dai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社は2つです
(對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大)
①厳原八幡宮神社(対馬 厳原)
②乙和多都美神社(対馬 久和)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
厳原フェリーターミナルから 県道24号を南下 約15.5km 車30分程度
県道から久和(クワ)地区の海辺に鎮座する当神社へと下ります
久和湾のすぐ横手に鎮座します
乙和多都美神社(Otowatatsumi Shrine)に参着
腰高の程度の漆喰の垣塀が廻され 鳥居のすぐ先に社殿が建ちます
鳥居の左手前には手水鉢があり 水道が引かれ 清めます
鳥居の扁額には「乙和多都美神社」と刻まれています 一礼をして 鳥居をくぐります
拝殿にすすみます 扁額には毛筆で 社号「乙和多都美神社」が記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
ちょうどお詣りを済ませると 中から拝殿の扉が開きまして びっくり
ご神職か氏子の方が来られて お忙しそうに 社殿の片づけをされていたところであったらしく
参拝日が2019//9/13でしたので 祭りの日が 旧暦8/16となっていたので
もしかしたら 祭りの前日だったのかもしれません
かなり慌ただしいご様子でしたので 会釈をして 深々と一礼をして戻ります
宿に戻ってから 拝殿の裏の階段を上がる本殿に行き忘れたことが判りました
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承
遣唐使の祈りを捧げた2月に 対馬の神々(上縣・下縣)とともに 神階無位から昇叙が記されています
意訳
承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条
伯耆国(ホウキノクニ)川村郡 无〈無〉位 伯耆神 大山神 国坂神
及び
對馬嶋(ツシマノシマ)の
上縣郡(カミツアガタ)の 无〈無〉位
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶御子神(ヤナクイノミコノカミ)下縣郡(シモツアガタ)の无〈無〉位
高御魂住吉神(タカミムスミスミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
多久都神(タクツノカミ)
大調神(ヲオツキノカミ)
並びに 奉(たてまつ)り 従5位下 を授(サズ)く
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
意訳
貞観12年(870)3月5日 丁巳の条
詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに
對馬嶋(ツシマノシマ)の
正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下
従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
厳原八幡宮神社を比定社と しています
意訳
和多都美神社
神階 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・正5位下
国府八幡宮 此の社なり〈現 厳原八幡宮神社〉
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容
式内社の和多都美神社を 現 厳原八幡宮神社と比定していたが これは 八幡宮であり ワタツミノ宮では無い
厳原八幡宮神社も「和多都美神社」から「八幡宮」への訂正の願いを度々提出している 訂正をしなければならない
本来の式内社の和多都美神社の所在は 調べ直さなければならないとしています
意訳
和多都美神社 名神大
明細帳 八幡宮神社に改称あり祭神 底綿津見神
中綿津見神
上綿津見神
豊玉姫
玉依姫今 按〈考えるに〉
長崎県式内社記に 本社 祭神は もと豊玉姫 玉依姫 2座なれど 社号によれば 必ず和多都美神なるべし 仍(ヨッ)て 加祭す とあるが如く
その主神は 綿津見神なるを 配享(ハイキョウ)の神〈配祀〉の御名のみ伝わりしものなるべし 故 今 これに従う
神位
仁明天皇 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・正5位下祭日 9月13日
社格 郷社
所在 今屋敷町 字 清水山
清水山 同社は 明治初年に和多都美社と唱えしものにて 古来 証とすべきは 皆 八幡宮にて 全く 和多都見に非(アラ)ず
八幡宮なるに付き 八幡宮の旧称に復し 度々その旨願い出 20年10月 長崎県より 照会あり
これに付き この條は訂正すべし 和多都見神社の所在は 追って調べるべし
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
乙和多都美神社(Otowatatsumi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)