大鹿三宅神社(おおかみやけじんじゃ )は 社伝によれば゛久安三年(一一四七)伊勢国河曲郡一ノ宮村大字池田へ建立゛と伝へるのみです 当社所蔵の棟札の記載から式内社 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)の論社とされますが この棟札については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛ との説もあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大鹿三宅神社(Ookamiyake shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市池田町 14
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》香山戸神(かぐやまとのかみ)
《合》菅原神(すがわらのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
伊奈利大神(いなりのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『河芸郡史』大正7年(1918)に記される内容
【抜粋意訳】
村社 大鹿三宅神社
一ノ宮村大字池田にあり、香山神、大山津見命、菅公、保食命等を祀る、延喜式内社と稱して 大鹿三宅神社と稱せしならんも 未だ此社が池田にありと記する書を見ず、延經神名帳考證、正身再考證、嚥近神名帳考正、式社案内記 其他悉く三宅或は神戸町に坐すとせり、筆者亦 其社地を得るに苦むの一人なり、下項 三宅神社と併て考ふべし、而して祭神は延經神名帳考證に云ふものと同一なり 要するに其社地未だ詳ならず 記して後者の考に委す
【原文参照】
【由 緒 (History)】
由緒
社伝によれば久安三年(一一四七)伊勢国河曲郡一ノ宮村大字池田へ建立と伝へるのみである。
江戸時代に入り「津藩明細帳」に「池田村大鹿三宅神社式内……」とあり、『式内社調査報告』には「この記述は当社所蔵の棟札によって記述されたようである。」と述べている。
又同書は鎮座地についても、大鹿氏と神宮との関係及びその活動範囲を国分から山辺、神戸に及ぶ地域としており、当社も大鹿氏との関係に於いて奉斎された神社の一つとして近郷の人々の崇敬を集めていたことが理解される。
明治四一年池田町地域の山神社三社、菅原社、伊奈利社等を合祀して、現在に至っている。
宝物等 『式内調査報告』第七巻(昭和 五二年皇學館大學出版部刊)一五〇ページ大鹿三宅神社には、明治一二年の上申書により棟札一枚 文禄二年(一五九三)三月在銘が記されている。三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63762
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大鹿三宅神社
[ふ り が な ](おほかのみやけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohokano miyake no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)の論社
論社については 複数あり 何れも確証がなく 決定は為されていません
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)に合祀
・大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)
・三宅神社(鈴鹿市国府町)
・大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)
・菅原神社(鈴鹿市国分町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄名古屋線 長太ノ浦駅から西へ約2.1km 車5分程度
大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)に参着
社頭には 円筒形の石碑に゛延喜式内 大鹿三宅神社゛と刻まれた社号標が建ちます
一礼をしてから 鳥居をくぐり 社域へと進みます
境内は わずかに盛土があって 一段高い壇となっていて 正面奥に東を向いて 社殿が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 御透塀に囲まれて 幣殿と本殿が鎮座しています
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大鹿三宅神社について 所在と祭神は゛祭神在所等詳ならず゛と不明と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
大鹿は於保賀、」三宅は美夜氣と訓べし
○祭神在所等詳ならず
考証に、神宮雑事記云、河曲郡神戸預大鹿武則、大鹿與中臣同祖、此郡氏人如此、と云り、
〔連胤〕按るに、大鹿氏は、姓氏録〔未定雑姓右京〕にも大鹿首と見えたれど、今は地名を冠らせたるにて、三宅神を主と祭れる事は明らかにて、此例多くあり、されば大鹿首祖神にはあらで、三宅連の氏社なるべし、類社
当國 鈴鹿郡 三宅神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國府村 天神山にある天神盖是也゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅(オホカノミヤケノ)神社
今 國府村 天神山にある天神盖是也、〔式内社検録、〇按本書引進状、當御國内 大鹿村を廃て、国文村と唱ふる事知へし、〕盖伊勢大鹿首の祖 天兒屋根命を祀る、〔古事記、日本紀、神宮雑事記、東鑑、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國分村゛〈現 菅原神社(鈴鹿市国分町)〉と記しています
三宅村千カ明神〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と
國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉の2説については ゛本郡の神社を配すへき地勢にあらす゛と記しています
池田村〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〉については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛
神戸十日市町〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉については゛全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事゛と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
祭神 津速塊命
大日孁貴今按るに姓氏録 大鹿首津速塊命 三世孫 天兒屋根命之後とみえ 明細帳に津速塊命を祭るとあるを合せ考えるに大鹿氏の 此に住て祖神 津速塊命を祀れるならむ 大鹿首の事件は古事記 日本紀 續日本紀 神宮雑事記 東鑑等に見えて 本郡に貫せる趣著明なり 其祖神を祀る所とすへし
祭日
社格
所在 國分村今按るに 傍注には三宅村千カ明神に配す 考証再考雑記伊謬等の諸書これに從ひ 又按内記徴古録等には國府村に在りと云へり 此二説は鈴鹿都の村邑にて西界を去る事梢遠し本郡の神社を配すへき地勢にあらす
又地志には 神戸村 神館社に塡つ 是亦無證の臆説にて信するに足らす
又明細帳には 池田村と神戸十日市町とに在とす
池田の社は棟札に奉上曹大鹿三宅神社日天八王子云々慶應十二年九月二十日其余文祿寛永正保承應元文等の札あるを證とす 其札を檢するに筆跡新くして皆同手に出つ木も今の飽を以て屑り慶長文祿のものに非す 中戸村の神官の預る社にて彼狡黠者の偽造なる事著し明なれは 信受し難し又十日市町の社は 民家の後河涯編小の地に在り近年まて山神と唱へて 樹下に石のみたちたりしに小祠を遣り覆て 本社の遺跡と云出てたるにて 全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事なり
依て考ふるに神宮雑書所載 建久三年八月 日注進狀云 山邊御薗二宮給主散位大鹿國忠 當御園の内 大鹿村號ニ國分寺領ト申ニ下ス院宣之間 恒例供祭上分之勤所ニ減少スル也と見えたる 山邊御園は神鳳鈔に山邊御園外宮 山邊新御園内宮と載たる地にて 本郡山邊村を云ふ其村の北に國分村あり天平年中各國に建られし國分寺の廃跡にて近年まて當慶山國分寺と號する小堂も存したりき 建久の頃 其國分寺の領なる旨の院宣を申下して大鹿村の名をき廃し國分村と唱ふる事 右の證文の如くなれは 今の國分村古の大鹿村にて大鹿首の氏人 累代居住し國務に預れる 故に其氏組を祀る祠を大鹿三宅神社と稱せしにこそ村南に今も大鹿塚と唱ふる大墳あり小塚は其数を知らす 産神社は北西の山に在り 其南に氏長者の宅趾あり 社字は天神神明権現の三區なり 其天神は北野天満天神にはあらで 大鹿の氏祖の犬神を祭るなれは 此社をは本社の遺在と定むへきなり
〔但し 其社 後に井ノ谷といふ字あるを以て 飯野神社に配する説もあれど 古を稽へざる妄言なり 従ふへからず〕
【原文参照】