鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(ぬえだいみょうじん たまひめだいみょうじん あさひだいみょうじん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 宮中神 神紙官西院坐御巫の八神殿の一座「大宮賣神」の名跡 大宮姫命稲荷神社があります この地は その更なる古跡とされています 又『平家物語』で 有名な「鵺」の話の舞台で 平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)〉の御代 源頼政卿が鵺を退治して ここの池で 鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗ったと伝えられます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神
(Nuedaimyojin Tamahimedaimyojin Asahidaimyojin)
(ぬえだいみょうじん たまひめだいみょうじん あさひだいみょうじん)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
京都市上京区智恵光院通丸太町下ル主税町
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》鵺大明神(Nuedaimyojin)
玉姫大明神(Tamahimedaimyojin)
朝日大明神(Asahidaimyojin)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
〈『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の宮中神 神紙官西院坐御巫の祭神八座の一座「大宮賣神」の名跡を伝えている大宮姫命稲荷神社の更なる古跡とされます〉
【由 緒 (History)】
鵺(ぬえ)池の碑について
源頼政卿が 鵺退治の時 かつて鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗った地だと伝えられると記しています
鵺池碑
(表面 原文)
我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有
一池曰鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七
世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使
予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰
怪鳥当射 志不可敵 休矣邦彦 其声太逖元禄庚辰三月望日 松崎正祐記
【意訳】
私の主君 源朝臣 松平紀伊守は 京都所司代して赴任のとき 家臣の太田毎資もまた 主君に従いその宅にあった
庭に池があり 俗に鵺池と云われ 源頼政卿が かつて鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗った地だと伝えられる
毎資は 太田道灌の7世の孫 頼政卿の遠い末裔で その地に居をかまえた事を喜び それだけではなく この池の伝承が消え失せることを想い 石碑を建て 私に碑文を書かせた おお美しい先祖を思う心情 この碑文は そのような次第で書銘した(裏面原文)
此地古来称鵺池池辺有碑詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所
司代之邸内以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉維新之初
就邸址而置監獄猶用意於保存但碑石則風餐雨虐文字漸磨滅後
撤獄舎昭和九年新設二条公園之比至不可復読有志以為恨也偶
有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文両者相対照而主文始
歴如恨事乃除矣於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾昭和十一年三月望日 出水学区建碑有志
【意訳】
この地は 古来 鵺池と称され 池のほとりに碑があった しかし徳川氏の世に京都所司代の邸中となった 故に当時出版の京都名所の類には不記載
明治維新の初めに 所司代屋邸跡に監獄が置かれ なお碑は大切に保存された だが雨風に晒され文字は 魔滅して見えず 監獄舎跡地に昭和9年(1934)二条公園が新設された ここに至り碑文が読めなくなっており 有志は残念であった
ところが元看守長青山咸懐氏という人が 在職の間に原文を写しており かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文の二つを照らし合わせ 文は始めて如実となった ここに有志が相談の上 別に新らたな碑石に文を刻み 後世に伝える 昭和11年3月
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・主一大明神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭の285座の筆頭に記されています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える名神祭 二百八十五座
園(ソノノ)神社 一座
韓(カラノ)神社 二座 巳上座 宮内省
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
宮中神の2つの式内社の論社です
〈『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の宮中神 神紙官西院坐御巫の祭神八座の一座「大宮賣神」の名跡を伝えている大宮姫命稲荷神社の更なる古跡とされます〉
①
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)神祇官西院坐 御巫等祭神 23座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)御巫祭神 8座(並大 月次新嘗・中宮東宮御巫亦同)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 大宮賣神
[ふ り が な ](おほみやひめの かみ)
[Old Shrine name](Watatsumi no miko no kami)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
➁
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)宮内省坐神 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 園神社(貞・名神大 月次 新嘗)
韓神社二座(名神大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](そのかみの かみのやしろ)
(からかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sonokami no kamino yashiro)
(Karakami no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
宮中 36座の中 宮内省坐神 3座(並大)について
漢國神社の社伝では 宮中の宮内省坐神 3座(並大)は「清和天皇(せいわてんのう)の貞観元年(859)正月27日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室(こうしつ)の御守護神とせられたのであります」として 当社より遷座したと伝わっています
・園神社韓神社〈宮中三殿 神殿〉
・鵺大明神玉姫大明神朝日大明神(京都市上京区主税町)
・漢国神社(奈良市漢国町)〈元宮〉
宮中に鎮座する 36座『延喜式神名帳』の所載一覧
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
二条駅から二条城沿いに 美福通りを北へ850m 二条公園の北側 徒歩10分程度
二条公園の北側の郁芳通り沿いに鎮座しています
鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神
(Nuedaimyojin Tamahimedaimyojin Asahidaimyojin)に参着
通りに面して 仏一宇〈祠裏には 石に主一大明神と刻まれています〉が置かれ 手を合わせます 通りに沿って 朱色の鳥居の奥 東向きに鎮座する祠が 鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神です
朱色の鳥居の前には「鵺池碑」が建ち 文面は漢文なので斜めに読み 一礼をしながら鳥居をくぐり抜けます
社殿にすすみます 小さな祠には額が掲げられていて「鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神」と記されています
西日が祠の裏から 参拝者を照らす中
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『平家物語(Heike Monogatari)』〈鎌倉時代(1185~1333)に成立〉に記される伝承
神社名の鵺大明神は 源頼政卿が 鵺退治の時 かつて鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗った地だと伝えられ 平家物語には 源頼政卿の鵺退治の話が記されています
【意訳】
第4巻 鵺(ヌエ)の条
そもそも 源三位入道と申す者は 摂津守 頼光から5代目 三河守 頼綱の孫で 兵庫頭仲政の子です 保元の合戦の時 後白河天皇の味方として 先鋒として戦ったが それほどの恩賞にも与らなかった また 平治の反乱にも 観類(である源氏)を捨てて参戦したが 恩賞は少なかった 大内裏の守護をして長年経ったが 昇殿を許されない 年を取り 高齢となって 述懐の和歌を一首詠んで 昇殿を許された
誰にも知れず大内山の山守は 木陰から月を見るのだなあ
この歌によって 昇殿を許され 正4位下としてしぱらくいたが 三位を希望して
上るための手段もない我が身は 木の下で椎の実を拾って世を過しているのだなあ
(この歌を詠み)そのようにして 3位にはなれた 間もなく出家して 源三位入道として 今年は75才になられたこの人の一世一代の功名とすることは
仁平の頃(1151-1154年)近衛院が天皇であられた時に 天皇が夜毎に怯え恐れたことがありました
有験の高僧 貴僧に命じて大法・秘法が修せられましたが 効果はありませんでした近衛天皇の発作は 丑の刻(午前2時)に限ってのことでした 東三条殿の角振隼(つのふりはやぶさ)両社の森の方角から 黒雲の一群が起こって 御殿の上を覆うと 必ず苦しまれた そのため 公卿の詮議がございました
去る寛治の頃 堀河院が天皇であった時 天皇が 同じように苦しみ 気絶されたことがございました その時の将軍 源義家朝臣が 南殿である「紫宸殿」の広縁に待機して 御難の時間になると 弓の弦を3度 引いて鳴らし「先の陸奥国守 源義家」と声高に口上しました 身の毛がよだつほどの大音声でしたが 堀河天皇の御病気も和らぎました公卿たちは そのような先例があるので 武士に近衛天皇を警護させようと詮議しました 源平両家から兵を探し出し この頼政が選ばれました
その時はまだ兵庫頭でしたが 頼政が言いました
「昔から 朝廷に武士を置くのは 逆賊の者を退け 勅命に逆らう輩を滅ぼすためです 目にも見えない変化の物を退治しろと命じられても いまだ承ったことがございません」
しかし 頼政は 勅宣なので お召しに応じて 参内しました源頼政は 信頼していた家臣で遠江国の住人・猪早太(いのはやた)に 鷲の両翼の下に連なる羽の中で風切りという羽ではいだ矢を背負わせ 猪早太一人だけを供としました
自分は 二重の狩衣に 山鳥の尾の毛ではいだ 先のするどくどがった矢を2筋 滋藤の弓といっしょに持ち 南殿の大床に行きました
頼政が 矢を2筋持っていたのは 公卿補佐の源雅頼が その時 雅頼はまだ左少弁でしたが「変化の物を退治できる吾人は頼政だ」といい 頼政が選ばれたからでした
頼政は 一の矢で変化の物を射損じたら 二の矢では「雅頼めの首の骨を射てやる」としていた案の定 いつも人々が言っているごとく 御難の時間になると 東三条の森の方から 一群の黒雲が立ち起こり 御殿の上を覆いました
頼政が きいと見上げると 雲の中に怪しい物の姿があり これは 射損じたら生きてはおられまいと思いました
しかしながら 矢を取って弓につがい 「南無八幡大菩薩」と心の中で祈願し よつと引いて ひようと放った 手ごたえがあり はたと矢が当たりました
頼政は「得たりや おう」と矢を射たときに叫ぶ詞「矢叫び」をあげました猪早太が さっと近寄り 落ちてきたところを取り押さえ 柄も拳も貫通せよとばかりに 続けざまに9回 刀で刺しました
御所の人々は 手に手にたいまつを持ち 上から下から照らすと
頭は 猿
体は たぬき
尾は 蛇
手足は 虎の様です 鳴く声は 鵺(ぬえ)に似ている 恐ろしい等とは 言葉で言い尽くせない
近衛天皇は 感心して 獅子王という御剣を頼政に下された
宇治の左大臣・藤原頼長が御剣を受け取り 源頼政に与えようと 御前の階段を半分ほど降りた時 時候は卯月(4月)10日ばかりのころでしたので 雲の間に 郭公(ほととぎす)が2声3声鳴いて通りました
左大臣 藤原頼長卿は
郭公(ほととぎす)名をも雲井にあぐるかな
と詠みました頼政はひざをつき 左の袖を広げ 月を少しわき目に眺めつつ
弓はり月のいるにまかせて(月の入るままに射たにすぎません)
と下の句を続け 剣を受け取り 退出しました
人々は 頼政は武芸だけでなく歌道にも優れていると感心しましたかの変化の怪物は 空舟に入れて流されたといいます
去る應保の頃(1161-1163年)二条院が天皇であった時 鵺という化鳥が禁中で鳴き しばしば天皇を悩ませたことがありました その時も 先例に習い 頼政が召されました
時季は 5月20日あまり まだ宵の時間に一声鳴いただけで 2声目はありませんでした 目当てにする物もない程の闇で 姿形も見えない 矢の狙いを定めることができません
頼政は まず大きな鏑矢を取ってつがえ 鵺の声がした内裏の上へ射上げました すると 鵺は 鏑矢の音に驚き 虚空の中で「ひひ」と声をたてて鳴きました
二の矢に小さな鏑矢をつがえ 矢を放ちました 放たれた矢は「ひいふつ」と飛んでいき やがて 矢と鵺が落ちてきました宮中はどよめきあい 二条天皇のおぼえも良く 頼政に御衣を授けられました
大炊御門(おおひのみかど)・右大臣の藤原公能公が受け取り 頼政の肩に掛ける時「昔 矢の名人である養由は 雲の上の雁を射て 今 頼政は 雨の中の鵺を射たのだなあ」と感心しました
藤原公能公は
五月(さつき)闇名をあらわせる今宵かな
と詠みました頼政は
たそがれ時の過ぎぬと思うに
と続け 御衣を肩にかけて退出しました頼政は その後 伊豆の国を賜りました 子の源仲綱を国司にして 自分は3位となり 丹波の五箇の荘園と若狭の東宮河を所領としていました
そのような人が 由なき謀反を起こし 以仁親王をもお失い申し わが身も子孫も滅ぼしてしまったことは 遺憾なことであった
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『平家物語』鎌倉時代に成立 出版 刊本 万治02年 [旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000042961&ID=M2014052621274461233&TYPE=&NO=
源頼政卿の 鵺(ぬえ)退治に関わる 神明神社(しんめいじんじゃ)について
源頼政卿は 神明神社(しんめいじんじゃ)にて祈願をして 鵺退治に向かったとされます そして この鵺池の地で 血のついた鏃(やじり)を洗い その時の鏃(やじり)は 神明神社に奉納され 今に伝わっています
・神明神社(京都市下京区神明町)
鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神
(Nuedaimyojin Tamahimedaimyojin Asahidaimyojin)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)