奈具神社(なぐじんじゃ)は 嘉吉三年(1443)旧鎮座地 奈具村が大洪水により流失〈遺跡地は未詳〉した時 船木奈具神社は溝谷神社の相殿に遷座しました 天保三年(1832)船木村が霊石の返還を求め 返還命令が出され 明治六年(1873)延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)として再建されたものです
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
奈具神社(Nagu shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京丹後市弥栄町船木小字奈具273番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
「丹後国風土記」と奈具神社
奈良時代に編さんされた「丹後国風土記」は、後の時代になつてほかの書物に引用された文章 (逸文 いつぶん)が伝わっています。そのひとつに「奈具社」があります。その内容は次の通りです。
丹波の郡 比治(ひじ)の里の比治山の頂にある眞奈井(まない)に天女八人が降り立ち水浴をしました。その姿を見た和奈佐(わなさ)の老夫婦は、天女の衣装をひとつ隠しました。一人の天女は衣装がないため天に上がれなくなり、和奈佐夫婦の子となりました。そこで天女は、万病に効く善い酒を作り、そのおかげで老夫婦は豊かになりました。
しかし豊かになった老夫婦は、天女に対してわが子ではないから早く出て行けと言い、天女を追い出してしまいました。天の原ふりさけみれば霞立ち
家路まどいて行方しらずもという和歌を一首詠みました。
天女は、荒塩(あらしお) (京丹後市峰山町久次)から丹波の里 哭木(なきき)村 (京丹後市峰山町内記 )を経て、竹野郡船木里 奈具の村 (京丹後市弥栄町船木 )へと移り、 「なぐしく成りぬ、 (心が安らかになりました )」とこの地にとどまりました。この羽衣天女こそ、奈具社 (奈具神社 )に祀られた豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)とされています。
京丹後市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『丹後史料叢書』第5輯〈昭和2年(1927)〉に記される内容
式内社 奈具神社の比定についての 争いがあったことが詳細に語られています
【抜粋意訳】
奈具神社
〇【丹後國風土記】云 豊宇賀能賣命也
〇【諸社一覽】 今稱に天避社 〔加佐郡奈具社條下可見合〕丹波郷にあり丹後風土記云々 後到に竹野郡船木里云々 吾心奈具志久云々 竟留に居此處 因建社祭之所謂竹野奈具社坐 豊宇氣姫神也〔【和爾雅】同在竹野郡宇賀乃咩命〕
〇加佐郡に同名社あり 田志の奈具神社の事そこに記せり 田志なるは いづれのをいへる歟 田邊段を以て考ふべし
【豊】同上 竹野郡外村溝谷村よりの願書に 奈具神社 舟木村ヘ遷座に相成候得 共從來の氏子にて累代神恩を蒙り靈能難忘云々とみえ 嘉吉年中 大水の節 奈具村七村 其後 奈具神社は溝谷神社ヘ合殿相成 奈具村遺民十二戶は溝谷村十一戶は外村に流寓致シ候より 奈具村永く廢し申候 それ故 右奈具村の遺民子孫 申傳ヘ今に至て懷舊の情にたへず 尙更 奈具神社を敬慕罷在候由の處 明治六年 奈具神社 舟木村ヘ遷座相成 當時廿三戶の者 氏神無之に付遣憾の餘 今般別記差出候義に御座候
【道】船木村 奈具大明神と云 古事記云 神八井耳命者 伊勢船木直祖云々 丹波氷上郡船木郷あり
【式考】 此社は 舊奈具村にありしを 嘉吉年中 大洪水にて村家流廃後より 明浩六年三月まで外村鎭座の溝谷神社相殿にましして 此三月に舟木村へ遷座なりしは 私慾の爭より起りしにて歎 はじきこと也
風土記に後老夫婦等謂天女日汝非吾兒暫借住耳宜早出去於是天女仰天哭悔俯地哀吟云々途去而至荒盤村云々亦至丹波里哭木村云。復至竹野郡船木里奈具村謂村人等日此處我心奈具志ス〔古事記平善者曰奈具志〕乃留居此村斯所謂竹野郡奈具社坐鬱宇賀能賣命也とありて
奈具村に鎭まして 嘉吉年間の洪水にて田畑民屋多分流失て 残民廿三戸 外村と溝谷村と両村に散居し 又 奈具神社の靈璽も外村鎭座の溝谷神社に相殿に合祀り崇敬したるなり
扨て溝谷神社は 外村溝谷村等樂寺村舟木村の產土神なるを 天保三より爭起り 九年に訴ヘとなれり 其原由は両社の用費を舟木に出さしめ 氏子一般に其費出しながら 溝谷村とは宮本村也 舟木は山を隔てたる村にて客分同樣に取扱を受け 祭禮の出席は末席なるを窃に憤り費用を出さず 氏子をも分離せんと巧み 奈具神社遙拜所を設置〔百三十年許に舟木村の森野弥右衛門の発起なり〕
天保三年 始て祭禮を行ひ 溝谷神社には勤めざりしにより事起り 天保九年に出訴となりし也 されど久美濱 山本甚左衛門より取調の上 堤村庄屋等を申付和談いたさせ候時 舟木村より産土神 外村社の祭禮古格相守るべきこと 相殿 奈具明神の神威を敬ひ 聊か輕忽に心得間敷事とる取替狀の一札にて 式內奈具神社は外村の溝谷神社の相殿に坐せしに疑なし〔外村神主の申立に奈具明神の儀は 往古 奈具村より引移し候 趣にて無木村なるは舊記證跡もなき由とあり〕
さて天保九年より事も起らざりしに 王政新に舟木村は久美濱代官所なり 外村は宮津の私領なり 自然と威勢は舟木にあり 且つ郷長もありて 官員に手曼もあり 舟木を可きに申上によりて 神祇省より指令にて 明治六年三月舟木村の方勝となり 溝谷神社にありし靈石を引渡すべき由の沙汰あり 幽冥にます神は如何思しめすらん
風土記至竹野郡舟木里奈具村とあるにつき 今の舟木村ぞ此奮跡なりと 種々杜撰の説を上申せしとみゆ 舟木里とは此邊總ての大名にて 舟木ばかりを云にあらず しかも船木里奈具村と村名も判然たり 奈具村の流出せしも 世人の知る所なり 又 溝谷神社相殿にまししも 普く人の知る所なり 然るに明治六年神祇省の沙汰文に船木村鎭座奈具神社の靈石同村ヘ還すべきもの也とありて いかにも其意を得がたき文なるを熟考るに舟木村より 悪るだくみに虚説を申上し故なるべし
吉岡徳明曰 これに付 外村溝谷の両村にすめる元奈具村の人民 甚だ歎悲して止まず 評曰 外村の社費を出さしむるを厭はしくは舟木村に分社して 奈具神社を祭らんことを朝許あらば何かあらん 然るを舊奈具村鎭座の神社まで 其村の人民 外村溝谷村 両村に現在せるを 船木村一村の社の如く強て 神社の靈石を遷すは 何事ぞや 既に神慮に叶はざりけん 靈石を遷せし時 大風雨にて衆人恐怖をなせりと聞けりなれど廳命にて引移せし靈石は 引戾すこと難くとも 奈具神社の神體は 尙溝谷神社に殘れる由なれば 式內奈具神社の本社は 今も外村の溝谷神社と定むべき也といはれたり
美能理云 明治六年の沙汰文に 溝谷神社合殿と定めて 舟本村は式外の奈具神社と見なしても條理は立に似たれども これは世人は許さず 且つ心も すまざれば式內奈具神社は 外村鎭座溝谷神社の相殿なりと御指令ありたし
【原文参照】
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・奈具神社 社殿・脇宮〈両脇に各1宇〉
・二の鳥居・狛犬
・一の鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)竹野郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 奈具神社
[ふ り が な ](なくの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Naku no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『出雲国風土記』(和銅6年(713))の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の伝承について
『出雲國風土記』大原郡 条 船岡山(funaoka yama) に記される伝承
『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります
【抜粋意訳】
『 船岡山(funaoka yama)
郡家の東北16里の所にあります
阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』
【原文参照】
『出雲国風土記』大原郡〔不在神祇官社〕船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社
・船林神社
・貴船神社
船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)について
この神名「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから
『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富曾神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています
阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります
阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社
①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32
《主》神功皇后(じんぐうこうこう)
諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命
➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1
《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命
➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町
《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神
④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
この4社の中で
④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています
同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています
こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります
延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます
古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます
これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません
阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています
出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう
但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります
出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています
『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承
「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています
【抜粋意訳】
丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社
丹後国風土記に云う
丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る
此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る
此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た
ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う
この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った
「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」
遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う
また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です
【原文参照】
天女が酒を造ったという伝承が残る 多久神社について
詳しくは別記事を参照ください
延喜式内社 丹後國 丹波郡 多久神社(たくの かみのやしろ)
・多久神社(京丹後市峰山町丹波)
延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について
奈具社は現在 船木奈具に鎮座しますが その旧鎮座地は奈具村で 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって全村流失した〈遺跡地は未詳〉と伝えられ 奈具社の祭神は 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)に移され 溝谷神社の相殿に 船木奈具神社が遷座されました
船木村が 天保三年 (1832)式内号 霊石〈靈爾〉の返還を求め 明治六年 (1873)返還命令が出され 奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)は 霊石を奉り現在地に再建されたものです
船木奈具神社の御神体は 現在も溝谷神社の相殿に鎮座しています
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社
・奈具神社(宮津市由良)
・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承
『播磨国風土記』美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています
【抜粋意訳】
美囊郡(みなぎのこほり)
美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する
志深里(しじみのさと)土中中
志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する
【原文参照】
延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)
志深里(しじみのさと)に鎮座する 式内論社
・御坂神社(三木市志染町御坂)
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 峰山駅からR482号を北上して約7.3km 車で11分程度
R482号から右折して 丘陵の間にある水田を弥栄町船木区に向かって進むと 左の山裾です
参拝日は4月7日で ちょうど桜の花が散り始めていました
奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)に参着
一礼をしてから 一の鳥居をくぐり抜けて 参道の石段を上がります
石段の中程には 踊り場があり 狛犬 石灯籠 木製の両部鳥居が建てられています
両部鳥居の扁額には゛延喜式内 奈具神社゛と記されています
一礼をして くぐり更に石段を上がります
拝殿にすすみます 中央に奈具神社の社殿 両脇には 覆い屋の内に 境内社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿と脇宮ともに 覆い屋の内にあり 厳しい冬の様子を知ることが出来ます
境内には 社日碑も祀られていました
一礼をして 参道石段を下ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 奈具神社について 所在は゛船木庄奈具村に在す゛〈現 奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)〉と記しています
【抜粋意訳】
奈具神社
奈具は假字也
〇祭神 豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)〔舊事記〕
〇船木庄奈具村に在す〔舊事記〕
〇鎭坐本記云、和久産巢日神子 豊宇賀能賣命、丹波國竹野郡 奈具神社是也、
〇丹後國風土記云、〔元々集所引〕比沼山頂有井、其名・・・
※〈丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社の条が記されています〉
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 奈具神社について 所在は゛舊船木庄奈具村にありしを 後 外村 溝谷明神の相殿に合祭る゛〈現 奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)にあったが 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
奈具(ナグノ)神社
舊船木庄奈具村にありしを 後 外村 溝谷明神の相殿に合祭る〔神社覈録、丹後國式社考、〕
〔〇按 嘉吉中 洪水に因りて、奈具七村 流亡せるを以て、神体を外村 溝谷社に移し、波村の民は外村二村に流寓せる事、世人の遍々知る所なり、附て考に備ふ、〕豊宇賀能賣命を祀る〔〇按 神名秘書、鎮座本紀並云、此神は伊弉諾尊の子 和久産巢日神の子也、然れども古事記を考ふるに、和久産巢日神の子 豊宇氣昆賣神ありて、豊宇賀能賣命と云ふはみえず、恐らくは同神にあらざるべし、姑附て考を俟つ〕
昔 豊宇賀能賣命 丹波國に天降り坐て、竹野郡 船木里 奈具村に至り給時、吾心奈具志久なりぬと詔て、此の村に留まり坐き、〔仙覚萬葉鈔、元々集引丹後風土記〕
此の神 又よく酒を醸り給ひき、今 伊勢山田原 酒殿に坐神 即是也、〔丹後風土記、神名秘書、鎮座本紀〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 奈具神社について 所在は゛此社を舟木村に在として 嘉吉年間山崩れの時 神體を外村なる溝谷神谷 新羅明神に合祀と云り゛と記し 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって奈具全村流失し 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉〉に合祀されたが その後 外村と舟木村で 産土神の所在について 争いが絶えなかったことが詳細に記されています 明治維新によって〈現 奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)に遷座した と記しています
【抜粋意訳】
奈具(ナグノ)神社
祭神 豊宇賀之賣命
今按 丹後國風土記に〔此神のことを云ひて〕至に竹野郡 船木ノ里奈具村 卽謂に村人等云 此ノ處に來て我心成りぬに奈具志久(ナグシク)〔古事に平善なる者を云に奈具志久〕乃留居に此村 斯所謂 竹野郡奈具社に坐す豊宇賀能賣ノ命也
また鎭座本紀に 和久産巢日ノ神の子 豊宇賀能賣命は丹波ノ國竹野ノ郡 奈具神社是也とあるにて祭神明らか也祭日 九月朔日
社格所在
今按 式社道志流倍に 此社を舟木村に在として 嘉吉年間山崩れの時 神體を外村なる溝谷神谷 新羅明神に合祀と云り 又其時 村民も同村へ引移りて 今に其子孫あり 今にては神體をば船木村に帰し祀れるならむとみえ
豊岡縣の注進に 明治六年 奈具神社 舟木村へ遷座相成しより 當時 村二十三戸の者 氏神なく遺憾なりとて願文を差出せるまゝ之を注申せり
仍て丹後式社考を考ふるに 此社 奮奈具村にありしを 嘉吉中 洪水に村家廃絶より 明治六年三月まで外村溝谷神社相殿にましゝを 舟木村へ遷座なりしは 私欲の爭に起れり 式社をかくの如くするは畏きこと也 此社の奈具村にますこと丹後風土記に云々〔上に引るを合考へし〕とあるが如し さて嘉吉の洪水に残民二十三戸 外村と溝谷村と両村に散居し 本社の靈璽を溝谷神 社に合祀りき 此 溝谷神社は外村 及 溝谷等樂寺舟木奈具五村の産土神なるを 天保三年より舟木村にては 祭祀の費用を出さず 氏子をも分離せんと巧み 奈具神社遙拜所を建てし 以來三村より故障を申し出訴せしが 其時 溝谷神主の申立に 本社は五村産土神の處 禮修復勤來りしを 舟木村 其義相止め修覆入用をも不受 八十年前迄は無之舟木村に奈具神社の遙拜所を同村の彌右衞門 私に拵へ 六十年以前再建し 差支に相成云々と云ひ 船木村の申立には産土神を粗略にするの心得に非ずとの事にて
藩廳の取捌に 外村の社の相殿に祭りある奈具明神は 往古奈具村より引移したる趣の處 舟木村奈具明神の義は 舊記證跡もなき申傳斗りにて 難取用と雖もー體奈具明神は船木里一圓土地因緣の神靈なれば 古代を慕ひ祭る事と見ゆれば猥りに故障を申し信心を妨ぐるも如何なれば 双方熟和すべきとのこ とに付 産土神 外村社の祭禮古格堅く相守り可申 船木村より産土神崇敬は不及申 相殿奈具明神の神感を敬ひ 聊軽忽に心得まじき事 舟木村奈具明神も是迄の通り信仰致し 勿論 外村神主より差構無之と双方證文を取替せたるなれば 式内奈具神社は 外村の溝谷神社相殿にます事 疑なしかくて 其後事も起らざりしに 王政維新の時 舟木は久美濱代官所となり 外村は宮津の私領となりしを以て 自ら舟木に威權もあり 又郷長もあり 官史に因緣もあるより 神祇省へ上申し 舟木村の方理ありとなし 溝谷社にありし靈石を引渡すべきの令あり 文明の御代にかかる處分あるは何事ぞやと云ひ 外村溝谷二村の民 元奈具村の民 悲歎して止まずと云るが如く 風土記に舟木里奈具村と云ふ明證ある上は 宜しく改正して奈具村を式内神社と定めらるべき也 尚よく考べし
【原文参照】