長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 『常陸国風土記〈和銅6年(713年)〉』にも゛長幡部之社(ながはたへのやしろ)゛と記され 『延喜式927 AD.』には常陸國 久慈郡 長幡部神社(なかはたのへの かみのやしろ)と記載の由緒ある古社です 又 長幡とは 絁(きぬ)の名にして これを織り作るものを長幡部という と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
長幡部神社(Nagahatabe shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
茨城県常陸太田市幡町539
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》綺日女命(かむはたひめのみこと)
多弖命(たてのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・織物産業守護、開運厄除
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内 長幡部神社 御由緒
御祭神 綺日女命(かむはたひめのみこと)
多弖命(たてのみこと)御由緒
今より一三〇〇年以前に上(たてまつ)られた常陸風土記に次の如く記されて居る。
『郡の東七里、太田郷(おおたのさと)に長幡部(ながたべ)の社あり、古老の曰へらく、珠売美萬命(すめみたまのみこと)、天より降(くだ)りましし時、御服(みけし)を織らむ為に、従ひて降(くた)りし神の 御名(みな)は、綺日女命、本(もと)は筑紫國の日向の二神(ふたかみ)の峰(たけ)より、三野國(みぬのくに)の引津根(ひきつね)の丘に至(いた)りき、後、美麻貴天皇(みまきのすめらみこと)(崇神天皇)の世(みよ)に及び、長幡部の遠祖(とほつおや)多弖命、三野(みぬ)より避(さ)りて、久慈に遷(うつ)り、機殿(はたどの)を造り立てて、初めて織りき、其の織れる服(はたもの)、自(おのづ)から衣裳(みけし)と成り、更に裁(た)ち縫(ぬ)ふこと無し。 之(これ)を内幡(うつはた)と謂ふ、或(あるひ)は曰へらく、絁(きぬ)を織る時に当りて、輙(たやす)く人(ひと)の見るが為に、故(か)れ、屋(や)の扉(と)を閉ぢ、内を闇くして織る、因(よ)りて烏織(からすはた)と名(な)づく。強兵(つはもの)、利剱(ときつるぎ)も、裁(た)ち断(き)ることを得ず。今、年毎に別(こと)に神調(みつき)として獻納(たてまつ)れり』と、誠に御由緒深き古社である。
即ち長幡とは、絁(きぬ)の名にして、これを織り作るものを長幡部という。
御祭神の子孫が、その遠祖を祀ったのが当社である。
延喜の制式内に列し、常陸二十八社の一つなり。神階は仁寿元年 正六位上、明応十年正三位を進めらる。
中世以降、小幡足明神 後 駒形明神と称す。康平年間、源頼義 奥羽征伐の際、 戎旗一旗を奉献し、戦勝を祈る。凱旋に及び、社地に鹿島、三島、神明、 若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後、四所明神盛大になり、遂に 社号を失い、鹿島明神とのみ称え、延享年間に至り、古老の口碑に依って旧社号に、復活したと云う。水戸藩崇敬暑く、常にその材を進め、その用に供す。殊に斉昭公深く敬し、弓矢、刀剣の奉納あり。神社の北五町許りの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
明治五年、郷社に列格。
期して、当社は、今関東に広がる名声高き結城紬を始め、絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる所以である
祭祀
元旦祭 一月一日、祈年祭 二月 第三日曜日
春例祭 四月九日、
秋季祭 旧九月二十九日、新嘗祭 十一月三十日宮司 和田忠彦
現地案内文より
【由 緒 (History)】
【御由緒】
天孫降臨の際に機具を携えてお供し、筑紫から美濃、そして崇神天皇の御代に常陸に移った。その子孫が祖神を祀った社である。その一族が織った布は断つことも縫うこともなくそのまま着ることができたという。延喜式内常陸二十八社のひとつ。常陸国風土記の久慈の郡の条にも記載がある古社である。水戸藩からの崇敬も篤く、斉昭公より弓矢刀剣の奉納があった。現在でも結城や足利等、絹織物の産地より崇敬を受けている。
久慈地方神社総代会HPより
https://ibarakikuji.com/hitatiota/hitatiota_ota/31_nagahatabe.html
由緒
御祭神 綺日女命。多弖命
新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊 天降りの時、御服を織られるため、機具を携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。
長幡とは絁(きぬ)の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。
神階は仁寿元年正六位上、明応10年正三位を進めらる。延喜式内久慈郡七座の一。常陸二十八社の一で、式内小社である。
神社の北五町ばかりの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
中世以降小幡足明神と云い、後駒形明神と尊称、康平年間、源頼義奥州征討の際、当社に戎旗一旗を奉献して戦勝を祈念し、凱旋に及び、社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後四所明神盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ称えて居ったが、延享年間に至り故老の口碑に依って旧社号に復活したと云う。
正月7日間の祭礼、4月9日水木浜へ神幸あり、水戸藩代々の崇敬厚く、その祠宇の造営には常にその材を進め、殊に斎昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり、除税地4石8斗8合、明治6年郷社に列格、同40年4月10日(第百七八号)供進指定。昭和27年6月14日宗教法人設立
(常陸風土記、延喜式、常陸二十八社考、新編常陸国誌略録誌)※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・長幡部神社 本殿
〈本殿の周囲に境内社 祠〉・雷神社・鷺森神社・愛宕神社・稻荷神社・羽黑神社・天満宮・阿夫利神社・熊野神社・浅間神社・七福神・足尾神社
・長幡部神社 拝殿
・長幡部神社 社務所
・二の鳥居〈木製両部鳥居〉
・一の鳥居
東日本大震災で上部破損
・一の鳥居の 扁額だったもの
・切通しの参道
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・長幡部神社 旧鎮座地(常陸太田市幡町)
゛神社の北五町許りの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。゛と云われる場所です
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
久慈郡の条に 長幡部之社(ながはたべのやしろ)が記されています
【抜粋意訳】
久慈郡
郡(こほり)の東七里 太田(おほたの)郷
長幡部之社(ながはたべのやしろ)あり
古老の曰(いわ)く 珠賣美萬命(すめみまのみこと)が 自ら天降(あまくだり)ます時
御服(みけし)を織る為(ため)に従いて降(あまくだる)神の名(みな)は 綺日女命(かむはたひめのみこと)
本(もと)は 筑紫國(つくしのくに)日向二所之峰(ひむがの ふたかみのみね)におられた 三野國(みぬのくに)引津根之丘(ひきつねのをか)に至(いた)るその後(のち)及んで 美麻貴天皇(みまきすめらみこと)〈崇神天皇〉の御世 長幡部(ながはたべ)の遠祖(とおつおや)多弖命(たてのみこと)は
三野を避けて 久慈(くじ)に遷(うつ)られた 機殿(はたどの)を造り立て 初めて織之(はたをおる) 其の所で織る服(はたもの)は自ずと衣装(みけし)となり 裁縫(たちぬう)ことも無く これを内幡(うちはた)と謂(い)う
或(あるいは)曰(いわ)く
絁(あらきぬ)を織る時に当たり 容易(たやすく)人に見られる為 故に機殿の扉(とびら)を閉ざし 闇内(うちをくらくして)織る 因(よ)って 鳥織(からすばた)と名付く強兵(つわもの)の劔(つるぎ)も 裁断(たちきる)ことは不(できない) 今 年毎(としごと)に別(こと)に神調(みつき)として獻納(たてまつ)れり
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸國 38座(大7座・小31座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)久慈郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 長幡部神社
[ふ り が な ](なかはたのへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakahatanohe no kaminoyashiro))
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 常陸國 久慈郡に記載される 衣服に功績のある神について
『特選神名牒〈明治9年(1876)完成〉』祭神についての考証には
『古語拾遺』に記される天太玉神に従った衣服に功績のある神が この久慈郡に゛靜神に候文神 健葉槌命を祭り(静神社) 幡村に長幡部 遠祖 多氐命を(長幡部神社) 本社に天之志良波神を祭り(天志良波神社)゛祀られていると記しています
天志良波神社の由緒には
御祭神は天照大神天岩戸にかくれましし時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神天日鷲命は白和幣を作られた。
弟神健葉槌命と共に麻を植え織物を広めた神であり、麻績氏の祖神である、白羽は衣服のことである。
とあります
延喜式内社 常陸國 久慈郡 長幡部神社(なかはたのへの かみのやしろ)
・長幡部神社 旧鎮座地(常陸太田市幡町)
・長幡部神社(常陸太田市幡町)
延喜式内社 常陸國 久慈郡 天之志良波神社(あまのしらはの かみのやしろ)
・天志良波神社(常陸太田市白羽町)
延喜式内社 常陸國 久慈郡 天速玉姫命神社(あめのはやたまひめのみことの かみのやしろ)
御祭神 天速玉姫命神は 天之志良波神の妻神とする説もあります
・泉神社(日立市水木町)
・鹿嶋神社 (常陸太田市春友町)
延喜式内社 常陸國 久慈郡 静神社(名神大)(しつの かみのやしろ)
・靜神社(那珂市静)
延喜式内社 常陸國 久慈郡 長幡部神社(なかはたのへの かみのやしろ)の類社について
同じ 延喜式内社として
『延喜式神名帳927 AD.』には 当社〈常陸國 久慈郡 長幡部神社(なかはたのへの かみのやしろ)〉と同名の所載社〈武蔵國 賀美郡 長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)〉が 武蔵國にあります
延喜式内社 武蔵國 賀美郡 長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)
・長幡部神社(上里町長浜)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR常陸太田駅から 里川を渡り東へ約3.9km 車で11分程度
県道61号に 長幡部神社参道との看板があります
細い道を進むと 何やら洞窟の入口のような場所があり 進んでいきます
どうやら洞窟ではなく 切通しに石段が敷かれていますので 参道にも見えます
色々な神社に参拝していますが このような切通しの参道は珍しいと想います
石段を上り切ると 鳥居が建ちます しかし 東日本大震災で鳥居の上部が崩れています
参拝日は 2016/7/17です
二の鳥居は 木製の両部鳥居ですので しっかりと立っています しかしその手前には 一の鳥居にあったであろう扁額が 置かれていました
一礼をしてから 鳥居をくぐり境内に進みます
長幡部神社(常陸太田市幡町)に参着
参道の右手には手水舎があり 正面には石段があり その先に拝殿が建っています
石段を上がり 拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛長幡部神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 瑞垣に囲まれて本殿が鎮座します
拝殿の向かって左には 裏参道があります
社殿に一礼をして 表参道をもどります
人通りもありませんので ちょっと寂しい感じの切通の石段を下ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 長幡部神社について 所在は゛太田郷幡村に在す、゛〈現 長幡部神社(常陸太田市幡町)〉と記されています
【抜粋意訳】
長幡部神社
長幡部は 奈賀波太倍と訓べし
〇祭神 長幡部連祖
○太田郷幡村に在す、〔地名記〕
○古事記、〔開花段〕日子坐王之子、神大根王者、長幡部連之祖、
○常陸國風土記云、郡東七里太田郷、長幡部之社、古老曰、珠売美方命、自天降時、爲織御服、從而降之神名綺日女命、本自筑紫國日向二神之峯、至三野國引津根之丘、後及美麻貴天皇之世、長幡部遠祖多弖命、避自三野、遷于久慈、造立機殿、初織之、共所織服、自成衣裳、更無裁縫、謂之内幡、或曰、当織絹時、諏爲人見、閉屋扉、闇内而織、同名烏織、兵白刃、不得裁断、今毎年、別為神調、献納之、
〇式廿四、〔主計上〕常陸国長幡部絹七匹、
常陸志には、不知に其所在」
鎭坐云に幡村、舊曰に長幡村、祭神 多弖命、是為に長幡部始祖、
類社
武蔵國 賀美那 長幡部神社氏人
類聚國史、弘仁八年閏四月戊子、常陸國人 長幡部福良女授に少初位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 長幡部神社について 所在は゛今 幡村にあり、゛〈現 長幡部神社(常陸太田市幡町)〉と記されています
旧鎮座地については゛舊今地を距る五町許 樹林の内にあり、土人呼て舊宮といふ、゛〈現 長幡部神社 旧鎮座地(常陸太田市幡町)〉とも記しています
【抜粋意訳】
長幡部(ナガハタベノ)神社
今 幡村にあり、〔巡拝舊祠、郡郷考、〕
舊今地を距る五町許 樹林の内にあり、土人呼て舊宮といふ、〔廿八社考〇按 幡村 昔 長幡村といふ、後分て二村とす、今の幡長谷二村 即是也、〕
長幡部と遠祖 多氐命を祀る、昔 多氏命の祖 綺日安命 皇孫尊天降り坐時、御服を織奉る為に御供仕奉り、筑紫、日向、二神之峯より三野國引津根の丘 に至り、崇德天皇の御世に及て、多氏命三野を避て久慈に遷り、機殿を造り立て、初て丙幡を織るに、裁縫ことなく自ら衣裳と成き、故是より後、年別に神調として、之を朝廷に奉る、〔常陸風土記〇按 類集國史 弘仁八年常陸國人 長幡部福良女あり、蓋本郡の人にして、多氏命の神裔也 姑附て考に備ふ〕
醍醐天皇 延喜中 常陸調物 猶長幡部 絁(あしぎぬ)あるもの即是也、〔延喜式〕
凡 長幡部祭、正月元日、四月九日、水木濱の神幸、九月二十九日新嘗あり、〔廿八社考〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 長幡部神社について 所在は゛幡村〔字神森〕(久慈郡機初村大字幡)゛〈現 長幡部神社(常陸太田市幡町)〉と記されています
【抜粋意訳】
長幡部神社
祭神 多氐命
今按 常陸風土記〔久慈郡條下〕郡束七里太田郷長幡部之社古老四珠賣美万命 自天降時 爲織御服從而降之 神名 綺日安命〔安字 印本 女に作る 今は古本による〕本自筑紫 日向二神之峰 至三野國引津根之丘陵及美麻貴天皇之世長幡部遠祖 多氐命避自三野遷于久慈造立機殿初織之 其所織服自成衣裳更無裁縫 謂之内幡或日常織絶時轍為人兒故閑屋扉闇内而織因名烏織強兵利劍不得裁断今毎年別爲神調而献納之とあるにて祭神明らかなり
祭日 四月九日 九月二十九日 十一月二十三日
社格 郷社所在 幡村〔字神森〕(久慈郡機初村大字幡)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
長幡部神社(常陸太田市幡町)について ゛郷社゛に列している旨 記されています
【抜粋意訳】
〇茨城縣 常陸國 久慈郡 機初村大字幡
郷社 長幡部(ナガハタベノ)神社
祭神 多弖(タテノ)命
祭神は長幡部の始祖にして、古事記、〔開化段〕に、日子坐王之子、神大根王は、長幡部連の祖とあり、神體は御鏡に坐ます、
風土記に云く「大田郷長幡部之社、古老曰、珠売美萬命自天降時、為織に御服、従而降之神名 綺日女(カムハタヒメノ)命、本自に筑紫国日向二神之峰、至に三野国引津根之丘、後及に美麻貴天皇之世、長幡部連祖多弖命避自に三野遷于久慈。造に立機殿初織之、其所織服、自成に衣裳、更無に裁縫。謂に之内幡(ウツハタ)、或曰、当に織絹時、練為に人見、故閉に屋扉、閤内而織、因名に島織(カラスハタ)、強兵利剣不得に裁断、今毎年、別為に神調、而献に納之」と、
嵯峨天皇弘仁八年閏四月、多氐命の神裔 長幡部福良女〔蓋本郡の人〕に少初位上を授けらる、〔〇類聚國史〕当社は醍醐天皇の延喜の制式内小社に列せられ、以来 小幡足明神と云ひ、後改めて駒形明神と称す、康平年中 源頼朝 北征の時、当社に捷を祈る、還るに当り鹿島 三島 伊勢 八幡の四所を更に此に勧請し四所明神と称せりと、是より四所明神 盛になり、当社衰へ遂に社号を失ひしを 延享中 口碑に基き旧称長幡部神社と改称す、此地水戸藩の領となるや水戸藩の崇敬社となり。造営の如きは用材皆藩の寄する所たり、殊に烈公厚く崇敬し神器を納む、
社領は四石八斗八含、明治維新の後 社格制定に当り郷社に烈せらる。社殿は本殿、拝殿、幣殿、境内は四百七十五坪(官有地第一種)高蝦にして眺望絶佳なり
境内神社
鷺森神社 愛宕神社 稻荷神社 羽黑神社 天満宮 阿夫利神社
熊野神社 浅間神社
【原文参照】