吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
椋神社(Muku shrine)
【通称名(Common name)】
・吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)
・椋宮(むくみや)
・井椋様(いぐらさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県秩父市下吉田7377番地1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
神社境内の立札には
◇御祭神
・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
・天鈿女命(あめのうずめのみこと)
その他の文献では
《主》猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣神(ひめのかみ)
《合》応神天皇,猿田彦命,応神天皇,磐裂神,素盞嗚命,天手長雄命,櫛名田比売命,八柱御子神,表筒男命,中筒男命,底筒男命,神功皇后,伊弉冉命,速玉男命,事解男命,伊弉諾命,伊弉冉命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
椋神社 御由緒
秩父市下吉田七三七七
◇延喜式内(えんぎしきない)の古社、例祭に国指定重要無形文化財の龍勢(りゅうせい)花火がある。
当社の創祀については、「日本武尊(やまとたけるのみこと)当地 赤紫(あかしば)にて道を迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根元の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。
これにより大勝を得たので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出た所を光明場(あかしば)という」と伝えるのがト部兼敏『椋五所大明神由来』享保十二年(一七二五)の記載である。
永禄十二年(一五六九)の武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ちで社殿消失、天正三年(一五七五)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建。
社宝には、氏邦公寄進と伝える筋兜(すじかぶと)の優品(埼玉県文化財)が現存する。現在の本殿は、寛永四年(一六二七)に修理を加えたもので、脚元の細い蟇股などに古様を遺している。
明治十五年(一八八二)に県社となり、大正二年(一九一三)には近隣の二十三社を、同五年(一九一六)に同字の八幡社を合祀した。八幡社は『新編武蔵風土記原稿』に「若宮八幡社」とある社で、享保十二年(一七二七)の同縁起によると、秩父平氏の祖、将経(まさつね)の子 武基(たけもと)が当地に土着、その子 秩父十郎武綱(たけつな)が館の鎮守に勧請したもの。現在の同社本殿は、本社右手に鎮座、旧拝殿は本社拝殿として移築されている。
永禄の兵火まで本社が鎮座した旧社地には、現在「井椋塚(いくらづか)」と呼ばれる古塚があり、天鈿女命を祀り、塚上の桜木を鈿女桜(うずめざくら)と呼ぶ。◇御祭神
・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
・天鈿女命(あめのうずめのみこと)◇御祭日
・例祭(十月第二日曜日)
・龍勢花火(平成二十九年度国指定)境内立札より
【由 緒 (History)】
椋神社由緒
創立
人皇十二代景行天皇の御代
日本武尊東夷征伐のとき「日本武尊当地赤柴にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根方の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。これにより大勝を得られたので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出たところを光明場(あかしば)という。」※井泉の辺は伊久良と言い、のちに井椋と呼ばれ、現在の井椋塚である。猿田彦命と天鈿女命が祀られている。
和銅3年(710)
芦田宿禰守孫始めて社殿を造営する定観13年(871)
従五位上を賜る延喜年間(901~)
延喜式神名帳に秩父郡二座、秩父神社・椋神社(国弊小社)と誌される天正3年(1575)
戦国時代の兵火を受け消失した社殿を。鉢形城主北条氏邦によって再建された。村民大いに祝して大祭を挙行する。祭具木魚二本、氏邦着用の筋兜を神社に奉納する。(現存)慶長9年(1604)
境内の欅の大木を、江戸城天守閣の用材として、三十六本を伐採し吉田川より河流しにて江戸へ送る。椋神社神主、江戸神田明神の鍵番を徳川家康より仰せつかる。明治6年(1873)
椋神社、村社に列せられる。明治9年(1876)
椋神社境内に校舎建築、東・西吉田・阿熊学校を統合し。椋宮学校とする。明治15年(1882)
椋神社、県社に昇格する。明治17年(1884)
椋神社に困民党集結し、秩父事件勃発する。
由緒記(2枚あり)
(1)
人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅3年芦田宿禰守孫造立すと云う。多治比直人籾5斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。
清和天皇貞観13年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。
社伝に曰く朱雀天皇天慶5年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数10町を寄附す是を供田と云う。
即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀1口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳2年累進して從二位を授ける。
元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正3年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚2本今猶存在す。慶長9年当社境内欅35本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永5子年2月拝殿修復、棟札は左の如し。夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也 縁起に曰 景行天皇40年与 天慶年中子両度鎮座也 云云上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永5壬子天2月吉日 寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして200有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。寛政元己酉年 奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、4月21日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治15年6月15年県社に昇格す。
大正2年近隣の神社23社を合祀す。
大正5年11月13日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正10年拝殿幣殿の改築竣工し10月4日神饌幣帛料供進神社と指定せらる
昭和9年天皇陛下より祭祀料を賜わる。
昭和17年9月社務所焼失す。昭和25年12月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。昭和34年9月、工費130万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和40年10月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和43年12月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、44年4月元拝殿屋根改造完成す。昭和48年9月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木211本柱8本奉納。細木置場を建設す。
昭和49年4月北條氏邦椋神社再建400年祭を記念して奉納金其の他にて調製費220万円を以つて神輿調製奉納す。50年亦300万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦49年5月20日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。(2)
人皇十二代景行天皇の御宇 皇子日本武尊 東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇 貞観13年11月従五位上を贈られ 醍醐天皇の延長5年12月延喜式神名帳に記載せられ 朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功を奏し、五座の神となる。
元亀年間 武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正3年北條氏邦再建す。
明治6年郷社となり、仝15年6月30日県社に列せられ、大正10年10月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
昭和17年9月30日社務所焼失し、昭和34年9月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。
昭和49年4月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和50年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。
龍勢の神事は昭和52年3月29日埼玉県選択無形民俗文化財となる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・拝殿〈大正10年(1926)八幡神社旧拝殿を修理移築〉
・夫婦くぬぎ〈両神神社 遥拝所〉
・八幡宮〈大正五年(1916)同字の八幡社を合祀〉旧若宮八幡社本殿
・境内社3社・諏訪神社・琴平神社・神明神社〈社殿向かって右 覆屋〉
・境内社3社・白鳥神社・菅原神社・稲荷神社〈社殿向かって左 覆屋〉
・石祠2宇〈八幡宮の奥〉
・境内社1祠と境内社7社合殿〈本殿奥〉
・石祠1宇〈社殿向かって左 覆屋 横〉
・北側 大鳥居
〈奥に見える高い山が城峯山
平将門の乱(935~940)の時 平将門(たいらのまさかど)公が 立て籠った城峯山が見えるこの地に 藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)が陣を敷き 平将門征伐に際し 椋神社の地神 猿田彦大神に春日四柱神を配祀して戦勝祈願をした 平将門公を滅ぼして神殿を五宇建立し 井椋五所大明神と称していた〉
・藤原秀郷霊神
平将門公を滅ぼして神殿を五宇〈井椋五所大明神〉建立した藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)の霊神 慶長年間(1596~1615)徳川家康公より仰せつかり 椋神社神主が江戸 神田明神〈祭神 平将門公〉の鍵番となる 以後 九月十五日の祭礼には 必ず出府したと伝わる
・南側 鳥居 と 〈石祠3宇〉・山の神・おいぬ様・火防の神
・社頭下の稲荷社
・社頭の鳥居
・狼の狛犬〈社頭 鳥居の横〉
・神楽殿
・手水舎
・゛龍勢゛の打上順番表〈国指定の重要無形文化財 龍勢〉
・軒下に飾られている 龍勢のモデル
・龍勢記念碑
龍勢記念碑
人皇十三代 景行天皇の御宇 皇子 日本武尊 詔を奉載して東征の砌 当地を御通りに相なり 山深く霧巻き覆い行く先を知らず 暫し止り給うに 持ち給へる御鉾より奇しき光り飛んで止まりたるを怪みて 其の方に至れば 井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い 日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り 平定の功を奏せられ 大いに喜び給い 御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ 永く東国の鎮守たれと祈請せられ給う 其の後 氏子の人々が祭りを永く続け来たり 旧古は祭礼当日 氏子民が神社の前方吉田河原で火を炊き 其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを例とす。火薬が出来るに及んで 火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し 現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は 松の生木を伐って円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め 詰めの終わりの方は塞いで 詰め始め 即ち下の方から錐で穴を明け これに導火薬を挿入するもので 之れに矢柄と云って 竹を付けるが此の竹は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して 揚げるには 八間位の櫓を造り 其の上方部に四角の金棒を渡し 竜勢を此の金棒に掛けて 導火線を長くつないで 櫓の下方から点火する 此金棒の水平こそ極めて肝要であり 直立して上れば 櫓の側へ矢柄が落ちるので 金棒を僅か傾け 下方に針金を引いて 矢柄を少し傾けて 櫓から放れて落下する様に調節する 新調に実施する故 事故もなく恒例の行事として現在に至る 竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して 完全に遂行することが出来たのである 白煙を噴いて中天高く上昇する竜勢は さながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく 日本国が生んだ貴い文化財である 昭和三十九年九月二十九日吉田町指定民俗資料となり 昭和五十二年三月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる 誠に古田町が誇るに足る文化財であり 茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し 永く此の栄誉を後世に伝えるものである
昭和五十四年十月五日 延喜式内椋神社宮司 引馬慧書 吉田町龍勢保存会長 和久井完境内記念石碑文より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・井椋塚(秩父市下吉田)
〈椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地〉
・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)
〈奥宮 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二十 貞觀十三年(八七一)十一月十日〈壬午〉の条
○十日壬午
授に 武藏國
正五位上勳七等 秩父神(チチフノカミ)に 從四位下。
從五位下 椋神(ムクノカミ)に 從五位上。飛騨國 正五位下 水無神 正五位上。
出雲國 正五位上 湯神。佐往神 並從四位下。
從五位上 能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並 正五位下。
從五位下 斐伊神。智伊神。温沼神。
越中國 從五位下 楯桙神 並從五位上。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)秩父郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 椋神社
[ふ り が な ](むくの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Muku no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の論社について
明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました
・井椋塚(秩父市下吉田)〈椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地〉
・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)
・吉田 椋神社(秩父市下吉田)
・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・野巻 椋神社(皆野町野巻)
・皆野 椋神社(皆野町皆野)
・井椋神社(深谷市畠山)〈参考 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社の分祀〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
秩父鉄道 皆野駅から県道37号を吉田川に沿って西南へ約7km 車13分程度
道の駅 龍勢会館を過ぎて阿熊川を渡って 県道の左手に鳥居が建ちます
吉田 椋神社(秩父市下吉田)に参着
神社の北側は大きな駐車場になっていて 夫婦くぬぎ〈両神神社 遥拝所〉があります
駐車場のすぐ脇には 社殿があり 旧若宮八幡の本殿もあります
駐車場から徒歩で・井椋塚(いぐらづか)へ向かいます
永禄十二年(1569)武田の軍勢による兵火で椋神社の社殿が焼失してしまったと伝わり 現在地は再建地であり それ以前の旧社地の有った場所が 井椋塚(いぐらづか)とのこと 延喜式の頃は 井椋塚に鎮座していたことになります
詳しくは
井椋塚から 南側の表参道から境内に進みます
石垣の上に 鳥居が建ちます
境内はわずかに二段になっていて 高い檀には透塀が廻らされていて その中に社殿が建っています
石段を上がり
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 椋神社 と記されています
拝殿内には 御祭神・猿田彦大神・天鈿女命の襖絵の衝立が置かれています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座しています
本殿の周囲には 境内社が祀られていますので 併せてお詣りをします
社殿に一礼をして 戻ります
駐車場に戻り 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座 奥宮へ向かいます 写真 左手の山裾にある塔のようなものが龍勢櫓
・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 下吉田郷〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋(ムク)神社
三代実録 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上
〇在 下吉田郷
式社考 芦田村 井椋大明神と云う 祭神 天ノコヤネノ命
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
蒔田に鎮座する二つの椋神社について 村の鎮守と記しています
【意訳】
巻二百五十七 秩父郡巻十五 下吉田村
椋神社
延喜式内の社なり
祭神 猿田彦大神 武甕槌命 経津主命 天兒屋根命 比賣神
神社縁起
武蔵国 秩父郡 矢場田荘 下吉田郷 井椋五所大明神(一名 椋神社)
所祭神五座 第一殿 猿田彦大神 第二殿 武甕槌命 第三殿 経津主命 第四殿 天兒屋根命 第五殿 姫大神 也
抑当社 鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年 日本武尊 東夷征の時・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
椋は久良と訓べし
〇祭神 猿田彦大神、(地名記〇式社考には、祭神天児屋命と云り、)
○矢田庄下吉田村に在す、(同上)今井椋 五社明神と称す、
例祭月日、神位
三代實録、貞観十三年十一月十日壬午、授武藏國從五位下椋神從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
近隣に椋神社は4か所あったが
明治政府に於いて 式内社 椋神社の所在について 大社であるが故に 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉が定められた しかし 蒔田村の氏子等訴訟などで 其の他の3社・蒔田村上組上〈現 上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉・吉田村立會〈現 野巻 椋神社(皆野町野巻)〉・吉田村中組〈現 中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉も式内社の論社とされた と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
神位
清和天皇 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上所在
今按〈今考えるに〉
本社所在 蒔田村上組上 吉田村立會にて祭る椋神社と云あり
又 吉田村中組にも椋神社あり 下吉田村にも椋神社あり
此の三村の内に就いて 下吉田村は大社にて氏子戸数も多く 人民崇敬の神社なるを以て 郷社に定められし處 蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て 姑く三社を以て一社と見做し 式社と定め置るるの指令あり 尚よく確証を得て 後に定むべきなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
明治期に式内論社の訴訟となり 複数の論社が並立しているが 吉田 椋神社(秩父市下吉田)を 多くの書籍は 式内社 椋神社であるとしている と記しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵国 秩父郡下吉田村大字下吉田
縣社 椋(ムクノ)神社
祭神
猿田彦大神(サルタヒコノオホカミ)
武甕槌(タケミカヅチノ)命
經津主(フツヌシノ)命
比賣神(ヒメノカミ)
天兒屋根(アメノコヤネノ)命椋神社は延喜の制、小社に列す。是より清和天皇 貞観十三年十一月十日、従五位下より従五位上を授かり給ひしよし三代實録に見え、降て正平元年六月十日、使を遣わして中祓を社司に科す。椋神の祟あるを以て也と宮主秘事に傳に見えたる著名の神社なるが、椋神社と称するもの近郷数社あり、明治の始め當社を以て式内社とせしに、訴訟起り、爲めに姑く凡てを以て式社と定むるの指令ありしと、特撰神名牒に云く、
「所在 今按本所所在、蒔田村上組(中略)にて祭る椋神社と云あり、又上吉田村中組にも椋神社あり、
下吉田村にも椋神社あり、此三村の内に就て、下吉田村は大社にて、氏子戸数も多く、人民崇敬の神社なるを以て、郷社に定められし處、蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て、姑く三社を以て一社と見倣し、式社と定め置るるの指令あり、猶よく確証を得て後に定むべきなり、」
と、伴氏神名帳考証、神社覈録 其他 新編武蔵風土記稿 等皆當社を以て式の椋神社とす。當社 維新以前 井椋五社明神と称す。
縁起に云く、
「抑當社鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年、日本武尊 東夷征伐之時、巡 狩是國 山路杖 於矛、其矛忽放光、因號其所 曰 明光場(在當社二十町許)、又光飛而止、日本武尊怪到 其所時、老翁現 井邊椋本 曰、吾是猿田彦命也、吾欲 爲 嚮(向)導以 故臨 於此、因名 井椋社、即以 其矛 爲神體 祠 此神。(中略)六十一代朱雀院御宇、俵藤太秀郷、征伐平将門時、勧請春日四所與 地主猿田彦大神、合祭祈 誅伐、遂誅其一族、因建 五宇神殿、號井椋五所大明神」
と、降て元亀年中 兵火に罹り、社殿、神寶、古器、悉く鳥有に属せしが、天正三年 鉢形城主 秩父新太郎氏邦再建、元禄十二年本殿、修営、寛永五年拝殿修営共に棟札あり。
明治五年郷社に列せられしが、後ち縣社に昇格す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、境内2029坪境内老樹蒼鬱とし、古来大木を以て名あり。四面群山圍繞して展望に富み、境地宇受賣櫻ありて、春時爛漫たり。又境外所在地畑三反二十六歩は附属地として境内に使用せり。境内神社
神明大神社、疱瘡神社、稲荷大神社、産泰大神社(祭神 木花咲耶姫命)、天満天神社、白鳥大神社、諏訪大神社、琴平大神社
【原文参照】
吉田 椋神社(秩父市下吉田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)