物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
物部神社(Mononobe shrine)
【通称名(Common name)】
二田物部神社(ふたたもののべじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
新潟県柏崎市西山町二田602
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》二田天物部命(ふたたのあめのもののべのみこと)
〈明治40年(1907)合祀 若宮神社〉
《合》物部稚桜命(もののべちざくらのみこと)
〈明治40年(1907)合祀 諏訪神社〉
《合》健御名方命(たけみなかたのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『越後鉄道案内』〈大正3年(1914)〉に記される内容
【抜粋意訳】
禮拝驛
二田物部神社(ふたたもものべじんじゃ)
南二十七丁
二田村大字二田村に鎮座す。
祭神 字摩志摩還命(うましまでのみこと)、又の御名(みな)を二田物部命(ふたたもののべのみこと)と申し、神武天皇(しんむてんのう)の即位四年に、異母兄(いぼけい)天香語山命(あまのかぐやまのみこと)に随(したが)ひて 當國に降(くだ)らせ給ひ、三嶋の廣島(ひろしま)なる この二田の里に座(お)はして 地方を經營し給(たま)ふ。命(みこと)薨(こう)じて 土生田山(はにふださん)の高陵(かうりょう)に葬(はふむ)る。應永(おうい)のころ神官(しんくわん)三嶋(みしま)、吉野(よしの)等(ら)龜岡山(かめおかざん)に城廓を構えて、地方兵馬の實権(じっけん)を握り、上杉遺氏(うえすぎゐみん)一揆(いっき)と二田(につた)一黨(いっとう)これが頭領となり、國主(こくしゅ)堀家(ほりけ)と戰(たたか)ひしが、軍破れて三烏等(みしまら)他國(たこく)に奔(はし)り社殿(しゃでん)是より頓(とみ)に廃頽(はいたい)せりと。
【原文参照】
『越佐史料』巻1〈二田宮傳記〉に記される内容
社伝の『二田宮伝記』〈江戸時代〉には 祭神・二田天物部命は 天香山命〈越後国一之宮 彌彦神社祭神〉に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う
石地(現・柏崎市西山町石地)で 天香語山命に別れ 後 多岐佐加の二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝える
二田天物部命は 薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う
遷座については
崇神天皇の御代 12世孫・物部稚桜命が社を石地磯から南大崎浦へ遷座 御船の着いた丘を「船岡山」と云う
推古天皇の御代 亀岡山の中腹へ遷座
神亀年間 土生田岡へ遷座
弘仁年間 亀岡山の山頂へ遷座
天仁元年(1108) 亀岡山麓の現社地へ遷座
【抜粋意訳】
二田宮傳記
越之御島郡 二田里之鎭座、物部神社者、太古、天孫天照國照日子火明命 天降座時、奉仕御供 二田天之物部命也、火明命率に諸 天之物部而、己命座に大倭國而、御子天香語山命 副に諸 天物部而、分に遣國々給伎、故於此、北邊之國則 副に二田天物部命而降給伎、・・・・・・・
・・・・
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『新潟県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第5輯〈昭和10年(1935)〉に記される内容
【抜粋意訳】
二田物部神社
・神社の所在並に由緒
縣社二田物部神社は、刈羽郡二田村大字二田字龜岡に在り。境内反別千七百三十五坪、本殿は足利時代の建築にして三間二面 (縱二間橫二間半 )の流破風造 ,拜殿は近代の建築にして三間五面 (縱五間橫三間 )向ひ破風向拜造なり。
・・・・
・・・・
・・・・
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・二田物部神社 社殿
木造狛犬(一対)
昭和48年3月県指定
当社に伝えられる木造狛犬は桂材製で阿形(あぎょう)像は全高62cm、吽形(うんぎょう)像は全高60cmである。
表現に誇張がなく、彫りの堅実な作品である。
咽喉(のど)元が長く伸び、胸の張りが小さく、顔の幅が広いことから室町時代の作と思われ、材質や構造から見てこの地方の作であろう。柏崎市教育委員会
物部神社本殿
三間社流造 桟瓦葺 15世紀後期 昭和60年3月県指定
式内小社、天仁元年(1108)亀岡山頂から遷座したと伝える。現状は前面に幣殿を連接し、旧向拝の開放部分に板塀等を建込んでいるが、元は三間社流造の独立社殿であった。
三間の向拝角柱は細い頭貫で上端をつなぎ、両端柱のみ海老虹梁を受けるが、建築様式より後補。虹梁絵様が来迎寺愛宕愛宕堂(十日町市・1713)とよく似るので向拝はその頃の改造であろう。
旧状は主屋両端柱の長押下方より水平に虹梁が渡っている。
主屋には三方縁が廻り脇障子を立てる。妻飾りは当初の形式を良く残し、虹梁大瓶東笈形付で、虹梁は直線上の袖きりのみで絵様なし、大瓶東は結綿を持たず笈形も大ぶりで古風である柏崎市教育委員会
現地案内板より
・二田物部神社 拝殿
・天明義民顕徳碑
天明義民を偲ぶ
230年前、不安呵責あらゆる虐待を敢てせられ、吾郷土31ヶ村幾千の領民を身を挺して守った天明義民の侠勇義魂に対して敬意と感謝をささげるものであります。その秀霊を慕い、その偉績をたたえ感謝の念を永劫に伝えることは当然の義務であり、今後とも慰霊と顕徳の高揚に努めるものであります。
(銘の通解)
日本の北方日本海の海辺は、大きな波がうねって青々としている。また、その海のみぎわには、白い砂がはてしなく続いており、そうした海岸に向いあって荒れた田んぼがひろびろとつづいている。
中央政府の幕府には程遠いこの北越の避地では 椎谷の役人達は、役所で領民に対して梁上の君子のように何かうまいことがないかとにらんでいるが、片田舎の領民は楽しみのない苦しみの連続である。
さてさて、このすばらしい男だての気前の持主たちは、悪ものどもには容易に屈しない熱意と勇気とをもって貪欲飽くことのない狼どもを幕府の最高裁判所で公然と、しかもみごとに退治することに成功した。後の世の人たちよ、このような昔の出来事を忘れないで、将来もしも災難の前兆が見えた時は、敢然と一身をまっさきにして、その災難の芽を根絶しなければならないことを銘記すべきである。
平成八年七月七日 天明義民顕徳追慕会
現地案内板より
・記念碑
・二の鳥居・手水舎
・参道
・一の鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・奥宮《主》二田天物部命〈物見山〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三島郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・物部神社(笛吹市石和町)
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・大石神社(山梨市西)
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR越後線 礼拝駅から東へ約1.4km 車で4~5分程度
曲がり角に案内板があります
神社の目の前には 4月末 田植え前の水田が広がっています
どうやら ホタルの生息地のようです
ボタン桜が満開です
二田物部神社(柏崎市西山町二田)に参着
一の鳥居の扁額には゛二田物部神社゛とあり 一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
満開のボタン桜の枝が参道をおおうように張り出していて なんとも美しい
桜の枝の先には 手水舎と二の鳥居が見えてきました
二の鳥居をくぐります
神社に参拝歌があるのは 初めて見ました
石碑に刻まれています
右手の奥には゛天明義民顕徳碑゛があり 中央政府に領民の為に立ち上がった義民が 地元の勇士として祀られています
なんだか すぐ傍には 昭和の総理大臣 田中角栄さんの記念館もあり そういった風土を持つ土地柄なのでしょうか
拝殿にすすみます
扁額は二枚゛縣社 物部神社゛と゛二田物部大神゛とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥に幣殿 本殿が続いていて 非常に長い社殿となっています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 物部神について 所在は゛二田村に在す、今 二田明神と稱す、゛〈現 二田物部神社(柏崎市西山町二田)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部神社
物部は 毛乃々倍と訓べし
〇祭神 二田天物部命〔風土記、節解、〕
〇二田村に在す、今 二田明神と稱す、〔節解、名寄、案内、〕
〇舊事紀、〔天神本紀〕五部造爲に伴領率に天物部天降供奉、二田造、〔下略〕天物部等二十五部人、同帶に兵仗 天降供奉、二田物部云々、
類社
伊勢國 飯高郡物部神社の條見合すべし社領
當代御朱印高五十石
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 物部神について 所在は゛今 刈羽郡、二田村に在り、二田大明神と云、゛〈現 二田物部神社(柏崎市西山町二田)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社
今 刈羽郡、二田村に在り、二田大明神と云、舊本村の東瀧澤にありしを宮平に遷し、後 又 今地に遷さる、〔越後名勝志、三才圖繪、越後國圖、式社案内記、〕〔〇按 刈羽郡は今三島郡の南に在なりしを 近き頃 郡とせしなり、〕
祭る所 蓋 二田天物部の祖神也、〔参酌新撰姓氏録、舊事本紀、延喜式〕
凡 物部氏を以て神主とす、〔神名帳打聞〕
其祭 正月七日、十四日、四月九月二十五日を用ふ、〔式社考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 物部神について 所在は゛二田村〔龜岡山〇今属 刈羽郡〕(刈羽郡二田村大字二田)゛〈現 二田物部神社(柏崎市西山町二田)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部神社 稱 二田大明神
祭神 二田天物部祖神
今按 越後風土記節解に 祭神 天物部命とあるは 古傳のまゝなるべきを社傳に二田天物部命 本名字摩志麻治命とあるは附會なり 姓氏錄未定雜姓に二田物部神 饒速日命天降之時從者 二田天物部之後也とみえたるに從て記しつ
祭日 四月九月二十五日
社格 村社(縣社)所在 二田村〔龜岡山〇今属 刈羽郡〕(刈羽郡二田村大字二田)
【原文参照】