御鹽殿・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉

御塩殿神社(みしおどのじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 元来 御酒殿神又は由貴御倉神と同じく 独立の神殿を設けず 御鹽殿内に奉祀されていました 後世に至り 別に神殿を造立し 現狀と為します 御塩殿(みしおどの)では 三角錐の土器型に荒鹽(あらしお)を入れ 忌火で焼き固めた堅鹽(かたしお)を作り これを御鹽(みしお)と云い 神宮に調進します

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

御鹽殿(Mishihodono

御塩殿神社(Mishiodono shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市二見町荘唐剣山2019-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》御塩殿鎮守神(みしおどののまもりのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

〈皇大神宮(内宮)所管社〉

【創  (Beginning of history)】

御塩殿神社

 塩筒翁(シオツツノオキナ)の神がまつってあります。

 域内に皇大神宮の御料の御塩を調製する御塩殿、御塩焼所、御塩汲み入れ所があります。

 御料の御塩は、夏の土用に町内の西地内にある御塩浜から運ばれた塩分の濃い海水を御塩汲み入れ所におさめ、これを御塩焼所で荒塩(アラシオ)に焼きます。

さらにこの荒塩を、毎年三~四回、御塩殿において三角形の土堝をもって堅塩(カタシオ)に焼き固めて、これを御料に供えています。
 なお、御塩の調進は昔から神領二見郷の住民が奉仕しております。

二見町教育委員会
現地の石版文より

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【由  (History)】

『神宮要綱』に記される内容

【抜粋意訳】

御鹽殿神社

鎭座地 三重縣度會郡二見町大字莊村

殿舎
正  殿 神明造、萱葺、金銅金物打立、高欄御階付、南面・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
瑞  垣 袖繰板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

御鹽 殿 切妻柿葺・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
瑞  垣 袖繰板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

御鹽焼所 切妻茅葺・・・壹宇
鳥  居 神明造・・・壹其

御鹽汲入所 切妻茅葺・・・壹宇
右神宮司廰造替

御鹽殿(ミシホデン)神社は両宮供御の御鹽を調進する御鹽殿の鎭守の神を奉齋す。
元來両宮 日別朝夕大御饌御料の御鹽は御鹽燒物忌(ミシホヤキモノイミ)が濱の御鹽燒殿にて之を焼き奉り、其の荒鹽を御鹽殿に運びて堅鹽に製し、每月三箇度神宮に調進するの古例にして、皇大神宮御鎭座の時 大若子命(オホワクゴノミコト)の創始に係ると傳ふ。本社は元來御酒殿神又は由貴御倉神に同じく、もと獨立の神殿を設けず、御鹽殿内に奉祀せられしが、後世に至り別に神殿を造立して、現狀を為すに至れるものなり。

御鹽殿の造営は、鎌倉時代に至るまでは二見に御鹽殿造進料田なるものありて、御鹽燒物忌等其の田の租米を徵して之を行ひ來りしが、御鹽焼物忌の御鹽調製の實務に関わらずなりてよりは、御料田の進退も造営の事務も総て御鹽所司職の手に移り、以来 江戸時代の末に至るまで、其の末裔なる神役人に於て之を継続し來れり。祭神は古來詳ならず、一説 鹽土翁を奉祀すと云へり。

猶二見郷の御鹽調進の歷史に就ては、用度御鹽の條に述ぶる所を参照すべし。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)

〈左の奥の正殿〉

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・御塩殿(みしおでん)

御塩殿において 荒塩を 毎年三~四回 三角形の土堝をもって堅塩(カタシオ)に焼き固め

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・御塩焼所(みしおやきところ)

〈大きな鉄鍋で塩分の濃い海水荒塩(アラシオ)に焼

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・御塩汲入所(みしおくみいれところ)

御塩浜から運ばれた塩分の濃い海水を御塩汲み入れ

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

御塩殿神社の裏手の海岸

〈太古には ここから伊勢湾の汐を汲んだと伝わります〉

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御塩浜への汽水取入口〈五十鈴川の河口〉

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御塩浜〈鹽田〉

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御塩浜〈鹽田〉黒木の鳥居

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御塩殿神社は 皇大神宮(内宮)所管社です

・皇大神宮(内宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)延暦23年(804)成立について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて804年(延暦23年)に成立しました

御塩殿『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)載る歴史を持ちます

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

伊勢神宮の神饌(しんせん)〈御饌(みけ)御贄(みにえ)〉について

神饌とは 御饌(みけ)とも云い お祭りなどで神様に献上するお食事のこと
〈神様に御饌(みけ)を奉り そのお下がりを参列した人たちでいただく行為・「神人共食(しんじんきょうしょく)」が 日本の祭りの特徴とも云う〉 

『伊勢神宮の神饌〈1990-02-20〉』に記される内容

【抜粋意訳】

神饌について

 神にお供えする飲食物を「神饌」というが,これは主として明治時代になって用いられた語で,古くは「みけ (御饌・御食)」とか「みにえ(御贄)」といい,神宮では「おもの」ともいった。「もの」に尊称をつけたのである。

 昔は食べ物のことはあまり人に話さないという風潮が一般的にあったようだ。まして神々のおめし上がりになる゛おもの゛,おのずから秘された形になっていた。

 どの神社でも昔は神饌調理法など直接奉仕する一部の人だけが承知すればよく,それを公開したり語ることはなかった。伊勢の神宮ではことさらであった。しかし現在ではまったく非公開で押し通せるものではない。情報が発達し撮影機材も発達している。写真を写させてほしいとの願書はしばしば出されるが,すべてお断わりしている。だがそれほど厳重に秘されたものではなく,その気になればシャッターチャンスもあるので防御は不可能だが,昔から慎むことを知る人々により,ことさら写すことも語ることもなされなかったのである。

 神饌というと一般の人々は古代や中世初期の食生活が伝わっているだろうと大きな期待をもっておられる。だが残念ながらそれほど多くは残されていないのが事実である。がっかりなさるかもしれぬが,一般の神社では明治初年の神祇制度の大改革により古い姿がほとんど失われたのである。
 神宮の場合も,なんとか遷宮諸祭と,三節祭(神嘗祭と六月と十二月の月次祭)に旧儀が保たれたが,日別朝タ大御僕祭も,古い姿そのままではない。信仰的な精神は古代そのままでも,調理法や,お供えの仕方など変わってしまった。
 明治以前の奉仕者は,内宮は荒木田神主,外宮は度会神主という世襲の一族が神職となっていて,親から子へ口伝(くでん)として伝えられ,基本的な図や文書はあるものの詳細は口伝であっただろうから,全貌は伝わらないのである。
 奈良の古社などは珍しい神饌が残されているが,あれも古式がずっと伝わったのではない。明治初年に廃されて,全国一律の神饌にと国家管理がなされた中で,かろうじて一社の古伝を尊重され復元されたものである。早く復元された神社は古式をほぼ正しく伝えることが出来たが,時代の波に洗われて変化せざるを得なかった神社がほとんどである。だから神饌の研究・調査はむづかしく慎重にお願いしたいとアドバイスしておく。

・・・・以下略

【原文参照】

矢野,憲一「伊勢神宮の神饌」『調理科学』23(1),調理科学研究会. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10812860

神宮の神事に用いる神饌などを調進する施設 御料地(ごりょうち)について

御料地とは
神饌など神々へのお供え物を御料(ごりょう) そして御料を調達する場所や施設を御料地(ごりょうち)と呼びます

・神宮神田(伊勢市楠部町)〈※一般の方の見学はできません〉

〈神宮神田の歴史は古く、2000年前に倭姫命がお定めになったとの伝承があります。神田では五十鈴川の水をいただき、神宮のお祭りにお供えされる御料のうるち米ともち米が清浄に育てられ、その年にとれた新米は神嘗祭で大御神に奉られます〉

・神宮御園(伊勢市二見町溝口)〈※一般の方の見学はできません〉

〈神宮御園では季節に応じた野菜果物を栽培し、その品目は多種〉

御塩殿・御塩汲入所・御塩焼所伊勢市二見町荘御塩浜伊勢市二見町西

・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》御塩殿鎮守神(みしおどののまもりのかみ)

神服織機殿神社・八尋殿松阪市大垣内町

〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 和妙(にぎたえ)は神服織機殿神社の八尋殿で奉織されます〉

・神服織機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)

神麻続機殿神社・八尋殿松阪市井口中町

〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 荒妙(あらたえ)は神麻続機殿神社の八尋殿で奉織されます〉

・神麻続機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)

御料鰒調製所鳥羽市国崎町)〈※一般の方の見学はできません〉

〈鰒調製所の歴史は古く その起源は約2000年前に倭姫命が志摩の国を巡られていた時 国崎の海女が鰒を差し出したことから御贄処として定められたと伝えられます〉

 

御料干鯛調製所知多郡知多町大字篠島)〈※一般の方の見学はできません〉

〈鯛は神饌の中でも とりわけ大切なものの一つで 干鯛は生鯛の内臓を取り除き 塩水につけた後 晴天の日に2日間ほど乾燥させたもの 平安時代の天皇の食膳品目にも見ることができます 神宮では篠島で伝統と由緒のままに調製された干鯛が 三節祭と呼ばれる大切なお祭りにお供えされます〉

・土器調製所(多気郡明和町蓑村)〈※一般の方の見学はできません〉

〈多気郡明和町蓑村の付近は 神代の昔 高天原から埴土を移したという伝承があり 良質な粘土に恵まれ 皇大神宮御鎮座当時から土器を作ってきたと伝えられます 現在でも土器調製所では 様々なお祭りに使用される素焼きの土器を年間約60,000個調製しています 神宮では一度使われた土器は再使用せず 細かく砕いて土に返すことになっています〉

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参空線 二見浦駅からR42号経由で北西へ約1km 車5分程度

御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉に参着

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一礼をして 神明鳥居をくぐり抜けます

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参道を進むと
向かって右の建物は御塩殿
向かって左が御塩殿神社で

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御塩殿(みしおどの)

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御塩御倉(みしおのみくら)

御塩殿の玉垣内にある小さなめの殿舎は゛御塩御倉(みしおのみくら)゛〈荒塩を保管しておく施設〉

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左奥の御塩殿神社殿に進みます
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます

古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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御塩焼所と御塩汲入所

御塩殿 後方の松林に御塩焼所と御塩汲入所があります
御塩焼所で煮つめて荒塩となり、御塩殿で型に入れて焼き固められます

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松林の奥は 伊勢湾が広がり 太古はここで 伊勢湾の汐を汲み 御塩を作っていたと文献にはあります

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現在は 五十鈴川の河口から 汽水を塩田に引き込み 濃度の濃い塩水を煮詰めていきます

御塩浜伊勢市二見町西

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『大神宮叢書』に記される伝承

【抜粋意訳】

御鹽殿

 此殿は二宮に堅鹽を燒て奉納調備する殿なり。
 外宮儀式帳に、(職掌)御鹽燒物忌云々、右人行事(〇中略)立に忌館造、卽に御鹽殿奉弖、御鹽燒弖、また物忌父條に、右人行事云々、又濱御鹽燒殿、幷廻垣修理掃淨仕奉、とあれば、延曆の比は此物忌御鹽濱の邊に齋館をたてて、其處に籠居敬愼て、其御鹽を納むる殿の外に垣結廻し清淨に仕奉りて、此濱の海潮を汲取りて御鹽を燒奉り御殿に納置て、二宮の朝夕の御饌に奉るよし也。
 此鹽の事は、雜事記、長曆三年二月十五日、神宮之訴第九に、伊介二見郷々調鹽二百十斤不に辨済事、といひ、古年中行事、十月朔日大神宮司の送文に、鹽六石三斗、二見伊介(下符)、とあれば、二見伊介両所にて鹽を燒て古より奉りし例なるを、•伊介のかたは絶て二見の方のみ残れる成べし。御殿の事も和歌名寄(伊勢名所考)に、二見浦へ出ゆく道に小松原の中に鳥居あり、社は見えぬをたづぬれば、御供のかた鹽納め奉る所なり。名を御鹽殿となん申といへば、鴨長明、二見がた神さびたてる御鹽どの幾千代みちぬ松蔭にして、とよめるも、本より濱邊の松原に此殿は有りしなり。(今の在所かあらぬか知難けれど、今は二見本道の濱邊にはあらず。)此地もの中古は武家の領となりしにや。守朝記の明應二年十一月、また四年十二月にも、宇治六郷神人多氣殿(國司北畠なり。)注進文中に、二見七郷之事、或御供米或御鹽田異に于他御神領候、(〇中略)殊為に隣郷宇治拜領之在所候、とあるも武家に押領せられ古例退轉せしを歎きたる文なり。かくて近代九鬼長門守守隆の領地となり、(志州烏羽領主なり。)
 慶長二年に御殿料百石寄附ありしかども、猶武家領なりしを、寬永年中に二見郷の神人訴狀を武家に奉りてより、二見七郷ともいにしへの如く御鹽殿に御寄附ありて、今の世までも違ふ事なし。七郷とは江村、三津村、山田原、莊村、溝口村、出口村(〇西村脱カ。)と七ヶ村ありしを、出口村絶しより今一色村を加へて七郷といへり。此出口村の 舊跡は今も江村莊村の間に残れりといへり。かくて此殿の武家領たりし程の事はいかがありけん古記に見えざれど、氏富卿家記に、建保六年御鹽殿造替之時、禰宜荒木田氏良奉仕、正和年中禰宜荒木田氏顯神主奉仕、とありて、此後三百丗年ばかりを經て、慶長十五年に権禰宜氏吉神主(佐馬之助)奉仕、寬永十五年に禰宜荒木田氏富神主奉仕のよし見え、また此殿の御朱印の内百石餘、氏親(藤波治部)の労を以て、寬永以前に調ひし事も見えたり。かかるよしをもて、今の世も氏富家より此殿の事をさたする事となれり。かくて近代二見七郷の御朱印を此殿の領と定め有しより、古制とは異にして新造の事多かりり。
 神境紀談に、昔は濱御鹽燒殿一宇、忌館一間なりしを、今の世は御鹽殿一宇にして、東西寶殿高欄の金銅の狀など二宮を摸せり。舊記に見えざれば新に造れる物なるべし、といへるを思ふに、寬文の比すらかかれば、既くよりかく造立せしなるべし。元祿勘文に、御鹽殿、南向、殿、高二丈、長一丈四尺九寸餘、茅葺、博風四枚、鰹木六本、左右殿、高各ー丈四尺二寸、長九尺、廣九尺二寸博風四枚、鰹木四本、板垣、廻長東西八丈八尺四寸、南北四丈一尺六寸、同門二宇、烏居四宇、共殿地は難知よし見えたり。今の世も此制にたがはず。
 さて此殿の大造となりしより、祭神の説くさぐさいへることあれど、舊より御鹽を藏めたろ御殿なれば、堅鹽こそ神體といふべきに、後世には附會の説をなせり。氏富家記に、御鹽殿奉仕は建保六年に見えたれば、古より祭神有しかば奉仕と云傳へしならん。元祿勘文(末社記)に、所祭 鹽箇老翁命、祭祝未考、といへるは信がたし。此鹽筒老翁は神代卷下卷、また神武紀にも見えて、古事記傳に、物を知れる人を ひろくいへる稱なるよしいへり。(海潮などによしある神にあられざど)、後人の其卷をも考へず、みだりに鹽の一字によりて此名を附會せしなり。また住吉三前神と同神なるよしをいへど、是も神功紀の文にては往來の舟を守給ふよしのみなれば、似つきても聞えず。こは堅鹽の霊なれば、神代紀に海神 豊玉彦命の語に、我掌水者云々、とありて、鹽満瓊・鹽涸瓊の二寶物をもたるを思へば、此神こそ鹽にはよしありといふべけれど、舊より祭神はなく、堅鹽納むる殿なれば、かにかく祭神をいふは皆ひがごとなるべし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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