美保神社(みほじんじゃ)は 特殊な形式の本殿〈大社造の二殿が連なった美保造または比翼大社造とよばれる〉には 本殿向かって・右側の御殿〈三穂津姫命〉・左側の御殿〈事代主神〉をお祀りしています 『出雲國風土記733 AD.』所載の島根郡 神祇官社「美保社(みほ)のやしろ」・『延喜式神名帳927 AD.』の「美保神社(みほのかみのやしろ)」とされます
目次
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記733 AD.』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳927 AD.』
➂最後に『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 島根郡(shimane no kori)神祇官社(jingikan no yashiro )
【社名】美保社
【読み】(みほ)のやしろ
【How to read】(miho no) yashiro
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 島根郡(shimane no kori)【社名】美保神社
【読み】みほの かみのやしろ
【How to read】Miho no kami no yashiro
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
美保神社(Miho shrine)
【通称名】(Common name)
・美保両大明神(みほりょうだいみょうじん)
・関の明神(せきのみょうじん)
【鎮座地】(location)
島根県松江市美保関町美保関608
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《大御前 おおごぜん(左殿)》
《主》三穂津姫命(みほつひめのみこと)
《二御前 にのごぜん(右殿)》
《主》事代主神(ことしろぬしのかみ)(ゑびす様)
《本殿(両殿)の中央装束の間に 末社三社》
・大妃社(きさいのやしろ)《主》神屋盾比賣命 沼河比賣命
・姫子社(ひめこのやしろ)《主》媛蹈韛五十鈴姫命 五十鈴依媛命
・神使社(かみつかいのやしろ)《主》稲背脛命
【御神格】(God’s great power)
・五穀豊穣・夫婦和合・安産・子孫繁栄・歌舞音曲(音楽)〈三穂津姫命〉
・海上安全・大漁満足・商売繁盛・学業・歌舞音曲(音楽)〈事代主神〉
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 別表神社
【創建】(Beginning of history)
ご創建
天平5年(733)編纂の『出雲国風土記』及び延長5年(927)成立の『延喜式』に社名が記されており、遅くともその時期には「社」が存在していたことがわかります。境内地からは4世紀頃の勾玉の破片や、雨乞いなどの宗教儀式で捧げたと考えられる6世紀後半頃の土馬が出土しており、古墳時代以前にも何らかの祭祀がこの地で行われていたことがうかがえます。
美保神社公式HPよりhttp://mihojinja.or.jp/yuisho/
ゑびす様の総本宮 美保神社
ご由緒
天平5年(733)編纂の『出雲国風土記』及び延長5年(927)成立の『延喜式』に記される古社で、全国三三八五社の事代主神を祀る「えびす社」の総本宮です。
現在の本殿は文化十年(一八一三)の造営で、国指定の重要文化財。「美保造」とよばれる特殊な造りです。
また、古来よりご祭神は鳴り物がお好きという信仰から数多くの楽器が奉納され、その中の八四六点が国の重要有形民俗文化財で、今もなお楽器や歌舞音曲(音楽)の奉納が絶えません。朱印帳の由緒書きより
【由緒】(history)
御祭神(お祀りしている神様)と由緒
三穂津姫命(みほつひめのみこと)
三穂津姫命は、高天原の高皇産霊命(たかみむすひのみこと)の御姫神で、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御后神である。
高天原から稲穂を持ってお降りになり、人々に食糧として配り広められた神様で「五穀豊穣」「夫婦和合」及び「安産・子孫繁栄」の守護神として信仰が篤い。また、美保という字はこの神の御名に縁があると伝えられている。
事代主神(ことしろぬしのかみ)(ゑびす様)
事代主神は、大国主神の第一の御子神であり、鯛を手にする福徳円満の神ゑびす様として世に知られ、「海上安全・大漁満足」「商売繁昌」を始め広く生業の守護神として信仰が篤い。また、古事記や日本書紀において高天原の神々から国譲りをせまられた際、それに対して大変重要な判断を委ねられた尊い神様である。
当社は、天平五年(七三三)編纂の『出雲國風土記』及び延長5年(九二七)成立の『延喜式』に記された古社である。
本殿は大社造の二殿が連なった特殊な形式であり、美保造または比翼大社造とよばれている。国指定の重要文化財で、現在の本殿は文化十年(一八一三)の造営。
《大御前 おおごぜん(左殿)》
本殿向かって右側の御殿。
三穂津姫命をお祀りし、千木の先端は水平。女神を表している。《二御前 にのごぜん(右殿)》
本殿向かって左側の御殿。
事代主神をお祀りし、千木の先端は垂直。男神を表している。現地の参拝案内より
【境内社】(Other deities within the precincts)
本殿の右奥に三社合殿
・若宮社《主》天日方奇日方命
・今宮社《主》政清霊
・秘社《主》不詳
境内の北手前に四社合殿
・宮御前社《主》埴山姫命
・宮荒神社《主》奥津比売命 奥津彦神 土之御祖神
・船霊社《主》天鳥船神
・稲荷社《主》倉稲魂命
・御霊石(おたまいし)
・隋神門《主》豊磐間門命 櫛磐間門命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・沖之御前《主》事代主命 活玉依媛命
・地之御前《主》事代主命 活玉依媛命
・客人社 《主》大國主命
合祀 幸魂社《合》大物主命
・天王社《主》三穂津姫命
・地主社《主》事代主命 或いは 御穂須須美命と伝わる
・久具谷社《主》國津荒魂神 多邇具久命
・客社《主》建御名方神
合祀 切木社《合》久久能智神
合祀 幸神社《合》猨田彦神
・糺社《主》久延毘古命
・筑紫社《主》市杵嶋姫命 田心姫命 湍津姫命
・和田津見社《主》大綿津見神 豊玉彦命 豊玉姫命
・市恵美須社《主》事代主命
・浜恵美須社《主》事代主命
・天神社(あまつかみのやしろ)《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
『古事記』には 大国主神(おおくにぬしのかみ)が 出雲の御大の御前〈美保岬〉にいたときに波立つ上に 天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗りて小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が寄られたとあります
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
大社造りの二つの本殿が並立する構造様式を持つ
「美保造(みほづくり)」or「比翼大社造(ひよくたいしゃづくり)」
この本殿は 大社造りの二つの本殿を並べて連結して祀るのが特徴で 前面には 一つの拝殿(はいでん)が取り付けられたものです 出雲地方の島根郡に見られる独特の様式で「美保造(みほづくり)」or「比翼大社造(ひよくたいしゃづくり)」と云われています
社務所には「出雲国三穂両宮縁起」と掲げられいて 三穂津姫命と事代主命の両宮と記しています
「美保造(みほづくり)」二つの本殿を持つ神社は 三社あります
①島根半島の東端 美保神社(みほじんじゃ)(美保関町美保関)
・美保神社
➁美保関町福浦の 三保神社(みほじんじゃ)
・三保神社
➂美保関町雲津の 諏訪神社(すわじんじゃ)
・諏訪神社
《参考》松江市奥谷町の 田原神社(たわらじんじゃ)
参考としてご覧ください
出雲では珍しい春日造りの本社が ・東殿・西殿とあり「美保造(みほづくり)」の形態に似ています
・田原神社〈旧鎮座地は法吉町春日村田原〉
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「国譲り神話」について『古事記』(712)・『日本書紀』(720)
「国譲り神話」は 葦原中国(あしはにらのなかつくに)〈古代 出雲の大国〉を治める大国主神(おおくにぬしのかみ)が高天原の天照大神(あまてらすおほみかみ)に国を譲る神話です
『古事記』と『日本書紀』では 記述が若干異なりますが いずれも出雲国の「稲佐の浜」と「美保関」を舞台として 事代主神(ことしろぬしのかみ)が登場する神話となっています
『古事記』(712)の「国譲り神話」
天照大神の使いとして〈天鳥船神(あめのとりふねのかみ)〉と〈建御雷神(たけみかづちのかみ)〉が 出雲国の「伊那佐の小浜(いなさのおはま)」に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に「国譲り」を迫った
大国主神は 我が子 事代主神(ことしろぬしのかみ)に聞けと申されたので
天照大神の使い 天鳥船神は「御大御前(みほのさき)」〈美保関〉に釣りに出かけられていた事代主神を迎えに行き「伊那佐の小浜(いなさのおはま)」に連れ帰り問います
事代主神は 天照大神へ国を献上することを承諾し 船を「青柴垣(あおふしがき)」に変化させ その中に籠ります
大国主神(おおくにぬしのかみ)には もう一人の意見を云う子 建御名方神(たけみなかたのかみ)があり 天照大神の使い 建御雷神(たけみかづちのかみ)に対して力比べを挑みます しかし 建御雷神に敗れ敗走し 諏訪の海〈長野県 諏訪湖〉のほとりへ追い詰められ国譲りを承諾します
これにより 大国主神は 二つの条件付きで国譲りを承諾します
条件 その一は 底津石根〈地底〉に太い柱を立て 空に高々とそびえる神殿を建てれば 遠い幽界に下がる
条件 その二は 我が子の百八十神〈大勢の神〉は 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が 神々の前に立てば 背く神は居ない
そうすれば 自らも国を譲ることを承諾するという内容
『日本書紀』(720)の「国譲り神話」〈本文〉
天照大神の使いとして〈経津主神(ふつぬしのかみ)〉と〈武甕槌神(たけみかづちのかみ)〉が 出雲国の「五十田狭小汀(いさたのおはま)」に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に「国譲り」を迫った
大国主神は 我が子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に尋ねてから返事をすると答えた このとき 事代主神は「美保碕(みほのさき)」〈美保関〉で釣りをしていたので 天照大神の使い〈経津主神(ふつぬしのかみ)〉と〈武甕槌神(たけみかづちのかみ)〉は 使者〈稲背脛(いなせのはぎ)〉を「諸手船(もろたふね)」に乗せ派遣します そして国譲りの可否を尋ねると 事代主神は 八重蒼柴籬(やえあおふしかき)〈青葉の垣で造られた神座〉を海の中に作り 船の端を踏んで 姿を消し これに同意した
大国主神は 天照大神に対して「天日隅宮(あめのひすみのみや)〈出雲大社〉」の建立「百不足之八十隈(ももたらずやそくまで)〈幽界・黄泉国〉」の祭祀権などの条件で 国を譲ることを承諾するという内容
神話が 今に繫がる神事
現代の「青柴垣(あおふしがき)神事」・「諸手船(もろたふね)神事」
青柴垣(あおふしがき)神事〈「神の死と再生」を表す祭礼〉
『古事記』(712)の国譲り神話において 国譲りの可否を問われた事代主神が 国譲りに同意したあと 乗っていた船を傾け 船を青柴垣(あおふしがき)の神域に変化させ そのなかに籠こもられたことにちなんだ神事
諸手船(もろたふね)神事〈12月3日に行われる〉
やはり国譲り神話にちなんだ神事で 美保関にいた事代主神に国譲りの可否を尋ねに送られてきた天照大神の使者として〈稲背脛(いなせのはぎ)〉が「諸手船(もろたふね)」に乗ってきた様子を再現したものとされます
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
JR境港駅から 県道2号で境水道大橋を渡り 島根半島を境水道に沿って東へ約12km 車20分程度
美保関の港から石畳みの参道の先には 二連の鳥居が建っています
美保神社(美保関町美保関)に参着
二の鳥居の横には「美保神社」と刻字された社号標が立ちます
鳥居の右手には「青石畳通り」〈この青石畳み通りは 以前の本通りであり 江戸時代の参拝道です 美保関は 江戸時代中期以降 北前船の西回り航路の寄港地として栄え50件ほどの回船問屋が集まっていたといい 物資の積み降ろし作業の効率化のため 文化年間から弘化年間(1804~1847年)の江戸時代後期に 海石(凝灰岩)を切り出して舗装敷設されたもので 古い町並みの面影を残す石畳の道です〉
二の鳥居をくぐると いよいよ境内です
振り返れば 鳥居のすぐ先〈社頭〉に 海があることがわかります
参道を進むと左手に手水舎があり 清めます 参拝の御案内などもここで確認できます
玉垣の先には 太注連縄の懸かる隋神門があり これをくくれば 社殿の建つ社地となります
美保造りの御本殿と 拝殿もまた見事で 壮観な社殿を目の当たりにします
御神紋は 二重亀甲に三
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿には「福種銭(ふくたねせん)」があり お受けしました
作法については案内があります
境内社にお詣りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
「出雲の伊那佐の小浜」〈現 稲佐の浜〉と「御大御前(みほのさき)」〈現 美保関〉を舞台とした出雲の国譲りについて 次のように語られています
【抜粋意訳】
國讓りの段
『そこで天照大御神(amaterasu omikami)は天鳥船神(ameno torifune no kami)を建御雷神(takemikazuchi no kami)のお供に付けて 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)に遣わされました
このように建御雷神(takemikazuchi no kami)と天鳥船神(ameno torifune no kami)の二柱の神は 出雲の伊那佐の小濱(いなさのこはま)に降り立ちまして
建御雷神(takemikazuchi no kami)は十拳剣(totsuka no tsurugi)を抜いて 剣先を上にして 柄を下にして 逆にして波頭に刺し立てて その剣の刃の先上にあぐらをかいて座り 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)の大国主大神(okuninushi no okami)に尋ねて
建御雷神(takemikazuchi no kami)は 私心を全く差し挟まずに「天照大御神(amaterasu omikami)と高木神(takagi no kami)の仰せにより あなたの意向をお聞きすべく 私は使者としてお遣わしになりました
あなたが 神領としている葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 我が子孫の統治されるべき国であると 従って あなたのお考えはどうなのか お聞きしたい」と仰せになりましたここに大国主大神(okuninushi no okami)は「私は返答を申し上げません 私の子の八重事代主神(yaekotoshironushi no kami)がご返答をするでしょう
しかし 今 鳥を狩ったり 魚を取ったり 美保の岬に出掛けていて まだ帰って来ておりません」と申し上げましたそこで 建御雷神(takemikazuchi no kami)は 天鳥船神(ameno torifune no kami)を遣わして
八重事代主神(yaekotoshironushi no kami)を呼び寄せてその意向をお尋ねになった時に 八重事代主神(yaekotoshironushi no kami)は 父の大国主大神(okuninushi no okami)に語って
「畏れ多いことでございます この葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 天津神の御子孫に奉りましょう」と言って
ただちに船を踏んで傾けて 天の逆手(amano sakate)という柏手をして 船を青柴垣に変えさせ その中にご鎮座しましたそこで 大國主神にお尋ねになつた「今 あなたの子の事代主神は かように申された 他に申すべき子がありますか」
そこで「我が子に 建御名方神(takeminakata no kami)が居ます これ以外にはございません」と申された時 建御名方神が千引の石〈千人が引いてやっと動く大岩〉を持って来て「誰だ わしの國に来て 忍び忍び ひそひそと話をしているのは それならば力くらべをしよう わしが先にその手を掴つかむぞ」と言いましたそこでその手を取ると 立つている氷のようであり 劒刃のようでありました そこで 恐れて引き下がります
今度は 建御名方神の手を取ろうと言つて これを取ると 若い葦を掴むよう握り潰し投げうたれた すぐに逃げ去りました
それを追つて科野国の州羽の海〈長野 諏訪湖〉に追い詰めて 殺そうとしたとき 建御名方神の申されるには「恐れ多いこと わたくしをお殺しなさいますな この諏訪の地から他の土地には出まい またわたくしの父 大國主神の言葉に背きますまい この葦原中国(ashihara nakatsukuni)は 天津神の御子の仰せにまかせて献上致しましよう」そこで 出雲に還つて来て 大國主神に問われた「あなたの子 事代主神・建御名方神 お二柱の神は 天津神の御子の仰せに従うと申しました あなたの心はどうですか」
そこでお答え申しますには
私の子どもの二柱の神の申し上げた通りに 私も誓ってはそむきません この葦原中国(ashihara nakatsukuni)は仰せの通りに献上いたしますただし 私の住むところは 天つ神の御子が 天つ日嗣(amatsu hitsugi)を継がれて 天照大御神の御心のままに納められている立派な神殿のように
地底の岩盤に届くほどに太い宮柱を立てて 高天原に届くように千木を高々とつけて 神殿を建てるならば
多くの曲がり角を 曲がり曲って 私は遠い幽界(yukai)に隠れておりましょうまた 私の子どもの「百八十神(yaso gami)」たちは 八重事代主神「(yae kotoshironushi no kami)」が 先頭に立てば また しんがりとなって お仕えしたならば 背く神は 一神も居ないでしょう」と申し上げました
このように大国主神(okuninushi no kami)が申し上げて
「出雲国の多芸志の小浜(tagishi no obama)」(出雲大社のご鎮座地の古名)に大国主神(okuninushi no kami)のための神聖な宮殿を造りましたその時 水戸神(minato no kami)の孫 櫛八玉神(kushiyatama no kami)を 料理人として 神聖な神饌を献上する時に
祝詞を唱えて 櫛八玉神(kushiyatama no kami)が鵜(u)の姿となって 海底にもぐり 海底の粘土を咥えてきて
それで 神聖な平たい土器(皿)をつくり 海草の茎を刈り取って 火を切り出す燧臼(hikiri usu)を作りまた 別の海藻の茎で 火をきりだす燧杵(hikiri kiri)を作り 神聖な火をきりだして言いました
「私がきりだした火は 高天原の神産巣日御祖の命(kamimusuhi no mioya no mikoto)の立派な宮殿の煤(susu)が 長々と垂れ下がるまで 焚き上げ
大地の下は 地底の岩盤に届くまで焚き固まらせて
長い長い楮(kozo)の木の皮で作った 釣縄を(延縄漁のように)海中に打ち延ばして
海女(ama)が釣り上げた 口が大きく尾鰭も大きい立派な鱸(suzuki)をざわざわと賑やかに引き寄せて上げて
鱸(suzuki)を載せる台が たわむくらいに沢山盛って 神聖な魚の料理を奉ります」と申し上げましたそこで 建御雷神(takemikazuchi no kami)は 高天原に帰り 天津神のもとに参上し 葦原中国を平定するに至る経緯をご報告申し上げました』
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』には 本文と或る一書による幾つかの伝承が残ります
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「本文」の伝承
天津神が「出雲の国 五十田狭小汀(いさたのおはま)」に降り 大己貴神に対して 武力行使で国譲りを迫る様子が描かれ 事代主神(ことしろぬしのかみ)についても記しています
第九段「本文」の伝承
【意訳】
その後 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は 神々を集めて葦原中国(あしはらのなかつくに)に遣わすべき者を選んびました
皆が云うには
「磐裂根裂神(いわさくねさくのかみ)の子で 磐筒男(いわつつのお)磐筒女(いわつつのめ)が生んだ 経津主神(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」と言う
そのとき 天石屋(あまのいわや)に住む稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)の子で 甕速日神(みかはやひのかみ) その子である熯速日神(ひのはやひのかみ)その子である武甕槌神(たけみかつちのかみ)が進み出て「どうして経津主神(ふつぬしのかみ)だけが丈夫(マスラオ)者なのか 自分は丈夫(マスラオ)者ではないのか」と言った
その語気が大変激しかったので 経津主神(ふつぬしのかみ)に添えて 共に葦原中国(あしはらのなかつくに)に向かわされました
二柱の神は 出雲の国 五十田狭小汀(いさたのおはま)に降り 十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて 逆さに大地に突き立てて その剣先にに胡坐(あぐら)をかいて座り 大己貴神(おおなむちのかみ)に尋ねられた
「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が皇孫(すめみま)を降らせ この地に君臨しようと思っておられる そこで我ら二人を平定に遣わされた お前の心はどうか ここを去るか」
そのとき 大己貴神は「私の子どもに相談して 御返事いたしましょう」
と答えた
このとき その子 事代主神(ことしろぬしのかみ)は 出雲の美保崎(みほのさき)に遊びに出掛けていました
そこで事代主神は魚釣りを楽しんでいました
あるいは鳥を射ちに行っていたともいいます
そこで 熊野の諸手船(もろたぶね)に 使者の稲背脛(いなせはぎ)を諾否を問う係として乗せて向かわせました
そして 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の言葉を事代主神(ことしろぬしのかみ)に伝え その返事を尋ねました
そのとき 事代主神(ことしろぬしのかみ)は使者に対し
「今 天神(あまつかみ)の言葉に 私の父上は抵抗しない方が良く 私も仰せに逆いません」と言い
そして 海の波の上に幾重もの青柴垣(あおふがき)をつくり 船の端板を踏んで 姿を消されました
使者は帰って これを報告しました
大己貴神(おおあなむちのかみ)は その御子(みこ)の言葉を二柱の神に告げ「私が頼みとした子はもう去りました ですから私も身を引きましよう もしも私が抵抗すれば 国内の神々もきっと同じように戦うでしよう 今 私が身を引けば、誰もあえて歯向かう者はないでしょう」と言われた
そして 国を平定したときに用いられた広矛(ひろほこ)を二柱の神に奉り
「私は この矛をもって 事を成し遂げました
天孫が もしこの矛を用いて国に臨まれたら きっと平定となるでしょう 今から私は百不足之八十隈(モモタラズヤソクマデ)(死後の世界のことか)に隠去ります」と言い終ると共に隐れてしまわれた
そこで 二神は 諸々の従わない神たちを処罰し終え あるいは、邪神や草木 石に至るまで皆平げた
従わないのは 星神香香背男(ほしのかみかかせお)だけとなった
そこで 建葉槌命(たけはつちのみこと)を遣わして屈服させました
そして 二神は天に上って復命されました
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「一書(1)」の伝承
天津神が 大己貴神に対して 武力行使で国譲りを迫る様子が描かれています
第九段「一書(1)」の伝承
【意訳】
すでに天照大神(あまてらすおおみかみ)は 思兼神(おもいかねのかみ)の妹の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)と 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)とを娶あわせ 妃として葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らされました
そこで 勝速日天忍穂耳尊(かちはやひあまのおしほみみのみこと)は 天浮橋(あまのうきはし)に立ち 下を見下して云われるには
「あの土地は まだ騒がしく乱れている 不須也頗傾凶目杵之国(イナカブシシシコメキクニ=気の進まぬ醜い国のようだ)」
それで 再び帰り上って 天降られないわけを詳しく述べられました
ゆえに 天照大神が 武甕槌神(たけみかつちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わし 先に討ち払わさせました
そこで 二柱の神が 出雲に降りました
大己貴神(おおあなむちのかみ)に問われました
「お前は この国を天神に奉たてまつる気はあるか?」
大己貴神(おおあなむちのかみ)が答え
「我が子 事代主(ことしろぬし)が 鳥を射ちに三津之崎(みつのさき)にいっています 今すぐ尋ねてご返事いたしましょう」
そこで使いを送って尋ねました
事代主(ことしろぬし)の答えは、
「天神(あまつかみ)の望まれる所を 奉らないことはありません」
それで 大己貴神は その子の言葉で 二柱の神に返事をしました
二柱の神は天に上って復命し
「葦原中国(あしはらのなかつく)の神々は 皆すでに平定しました」
と言われた
時に 天照大神(あまてらすおおみかみ)が勅ちょくして
「もしそうなら すぐ我が子を降らせよう」と言われたそのまさに降らせようとするときに 皇孫(すめみま)がお生まれになった
名を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)といいます
特に申し上げる者があり
「この皇孫を代りに降らせられませ」と言います
そこで天照大神は 瓊瓚杵尊(ににぎのみこと)に 八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま) 及び 八咫鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜わりました
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「一書(2)」の伝承
天津神が 大己貴神に対して懇切丁寧に国譲りの条件を提示して 承諾を得る様子が描かれています
第九段「一書(2)」の伝承
【意訳】
別の言い伝え(2)によると
天神(あまつかみ)は 経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)を遣わして 葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させようとされました
そのとき 二柱の神は
「天に悪い神がいます
名を天津甕星(あまつみかほし)といいます またの名は 天香香背男(あまのかかせお)といいます まずこの神を除いて それから天降って 葦原中国を平定したい」と言ったこのとき 斎主(いわい)の神を斎之大人(いわいのうし)といいました
この神は今 東国の檝取(かとり)の地にあります
時に 二柱の神は 出雲の五十田狭(いさだ)の小汀(おばま)に降って 大己貴神に「お前は この国を天つ神に奉るかどうか」と問われました大己貴神は 答えた
「お前たち二柱の神が 私が元から居る所へやって来たのではないか 許すことは出来ぬ」
そこで 経津主神(ふつぬしのかみ)は帰り上って報告しました
これを聞いた高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は 二柱の神を再び遣わして大己貴神に勅(ちょく)して
「今 あなたの言うことを聞くと 深く道理に叶っている
それで詳しく一つ一つ条件を揃えて申しましょう
あなたが 納めている現世のモノことは 皇孫(すめみま)が致しましょう
あなたは 神事を納めて頂きたい
また あなたが住むべき天日隅宮(アマノミスミノミヤ)は 今からお造り致します 千尋(ちひろ)もある栲縄(たくなわ)で180ヶ所も結んでゆわえて しっかりと結び造りましょう その宮を造るには 柱は高く太く 板は広く厚く致しましょう
また 供田も作りましょう
また あなたが 海に遊ばれるために 高い橋や浮橋や天鳥船(アマノトリフネ)もまた造りましょう
さらに、天安河(あまのやすかわ)に打橋(うちはし)を造りましょう
また 百八十縫(モモアマリヤソヌイ)の白盾(シラタテ)も造りましょう
また あなたの祭祀を掌るのは 天穂日命(あめのほひのみこと)が致します」
と言いました
そこで大己貴神は
「天神(あまつかみ)のおっしゃることは 懇切に行き届いている どうして仰せに従わないことがありましょうか
私が治めるこの世のことは 皇孫(すめみま)が治められるべきです
私は退き 幽界(かくれのこと)の世界を治めましょう」と答えましたそこで 岐神(ふなとのかみ)を二神に勧めて云うには
「この神が 私に代ってお仕え申し上げるでしょう 私は今ここから退去します」体に瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました
その後 経津主神(ふつぬしのかみ)は 岐神(ふなとのかみ)を先導役として 方々を巡り歩き、平定しました
従わない者があると斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて それらを率いて天に昇り 正道を説きました
【原文参照】
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』島根郡にある伝承
【意訳】
美保郷(みほのさと)
〈西は森山 東は雲津諸喰等の所を併せ加えて美保郷 関村福浦を本郷と為す〉
郡家の正東 二十七里一百六十四歩造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ の みこと)高志国(たかしくに)に坐(ましま)す神 意支都久辰為命(いきつくしいのみこと)の子 俾都久辰為命(ひつくしいのみこと)の子 奴奈宜置波比賣命(ぬなかきはひめのみこと)を娶(めとり)て 而(しか)して 神御穂須々美命(かんみほすすみのみこと)を産ましむ
この神 坐(ましま)す 故(ゆえ)に美保(みほ)
【意訳】
美保浜(みほのはま)
廣一百六十歩 [西に神社有り 北に百姓(おおみたから)の家有り 志毗魚(しびうお)〈マグロ?〉を捕る]
【意訳】
美保埼(みほのさき) 〔用壁峙嶵定岳(もちかべさきつみさだけ?)〕
【原文参照】
『雲陽志(unyo shi)1835AD.』島根郡 三保関 にある伝承
『雲陽志(unyo shi)』では
三保関「美保神社」と記され
「三保津姫命(みほつひめのみこと)事代主神(ことしろぬしのかみ)の鎮座なり
風土記に事代主の子 御穂須々美命(みほすすみのみこと)坐(ましま)す 故(ゆえ)に美保(みほ)と号す
又 高皇産霊命(たかみむすひのみこと)の子 三保津姫は 大己貴命(おほなむちのみこと)娶り玉ふ三保明神これなりと云いけり日本紀曰く 大己貴の御子 事代主神 三保の崎に在す 魚釣りを以って楽とす 八雲の御抄に出雲ミホノ崎 事代主神 釣しける処とあり
神祇官第八坐の神者 事代主神なり旧事記 古事記 神皇正統紀 神武紀 綏靖記この諸書に載る処なり
日本紀 風土記は 上古の遺書 歴代の通鑑然る寸は 神の茲に廊食する尚し由来縁起に詳らかなり 故に略しぬ
文禄五年 吉川廣家 造営 天正年中 兵火の為に炎上して神宝悉く焼亡す
祭礼 三月三日 小舟三艘を組合せ四方に榊を立 幕を張り田楽舞有り
十一月牛ノ日 明神の諸手ノ舟とて氏子 十二人 烏帽子直衣を箸て舟乗 湊の中を三度まわる規定なり」 と記しています
【原文参照】
『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)1906AD.』島根郡 にある伝承
意訳
美保神社
風土記に同じ 三穂崎なり 三穂大明神これなり 本社二宇なり
御穂須々美命(みほすすみのみこと)を祭神の方 式内なるよしなり
今の社説は 美保津姫 事代主命を祭るといへり 此れ美保須々美と申す神は 日本紀に無きによりとするうちに三穂津姫に改め 事代主命はこの崎に遊ひるひし事 書記に書かれたるによりて祭神とならむ
されど風土記に
美保郷(みほのさと)
郡家の正東 二十七里一百六十四歩 造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ の みこと)高志国(たかしくに)に坐(ましま)す神 意支都久辰為命(いきつくしいのみこと)の子 俾都久辰為命(ひつくしいのみこと)の子 奴奈宜置波比賣命(ぬなかきはひめのみこと)を娶(めとり)て 而(しか)して 神御穂須々美命(かんみほすすみのみこと)を産ましむ この神 坐(ましま)す 故(ゆえ)に美保(みほ) とあり
又 美保濱 廣さ百六十歩 西有神社 北百姓家ともあり又 美保崎 用壁峙嶵定岳ともあり この社は美保須々美命に坐(ましま)すは論なし 事代主命を祭る
古事記に 我が子 八重言代主神が返答するが 鳥を狩り 魚釣りに 御大の前〈美保関〉に出掛けており まだ帰っておりません とあり
書記には このとき 事代主神は 出雲国の三穗之碕(みほのさき)に遊びに出掛けて そこで事代主神は魚釣りを楽しまれ 一説には鳥を狩っていました なりとあり思いに祭神になるへし・・・・・
〇この社の祭事の内に 種替神事とて奇異なる神事あり それは節分の夜大なる桶に籾種を盛りて奉り置くなり それを遠近の農夫代わりの籾を持参して この種を賜いて請へに神官受取りにその桶なる籾を取り与へて その代わりの籾をもやりて その桶に混入となり 農夫その籾を斎帰りる時に従いて種まきは早稲になれ晩稲よなれ糯(もち)になれ・・・・
又 この社に鶏を居ひむふ事を既に意宇郡揖屋社のところにいえるべし
又 この神 楽器を愛みふる事甚し 楽器を入れぬ船のこの所に泊つきは何(いか)にしても動き出得ず それは戯き物を上に覆へは事なく出らるによしや これまたも神も不浄を忌ひるふ事の甚だしきを知り恒る不浄を祓い清むらつきを捲きよしき事を知らへきなり・・・・
【原文参照】
『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承
【意訳】
美保社(みほ)のやしろ
今の美保関(みほのせき)の美保神社であって、三保津姫命(みほつひめのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)とを祀る。
風土記鈔には「神御穂須々美命(かむみほすすみのみこと)と御祖 大穴持命(みおや おほなむちのみこと)及び 御母 奴奈支智波比賣命(ぬなきちはひめのみこと)とを合せ祀りて、三社大明神といふ是なり」とある。今は御穂須々美命は地主神といって、美保関港の東側に祀ってある。國幣中社の美保神社は、事代主命を主祭神とし、これに三保津姫命が合せ祀ってある。俗人が美保関の明神といって崇敬するのは、事代主命をエビス神として信仰するのである。
御穂須々美命といふ名は、古事記にも、日本書紀にも見えぬ。そうして旧事記(くじき)に沼河姫命の御子は建御名方命(たけみなかたのみこと)とあるから、人によりては、御穂須々美命を建御名方命と同神であるとし、または事代主命と同神であるとするものもあるが、元来、出雲國風土記、古事記、旧事記等はは独立な古典であり、而して神代の説話の如きは、いづれが精確とも定められぬから、各々それに書いてあるままに解して置くより外に仕方かせない。
三穂津姫命がその養子の事代主命と一所に祀られてあることは、やや不合理と思われるが、これは、日本書紀の書き方の不完全によることかも知れぬ。事代主命が家督を相続して、大物主命となり、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)から三穂津姫を配せられたと見れば、三穂津彦は事代主命で、三穂津姫と夫妻して祀られてあることは至當となる。駿河國にては三穂津彦を大己貴命として祀ってあるが、同国の分は、出雲の神の子孫が東国へ移り、遥か後の世につくったものであるから、証拠には取り難い。
美保関に於いては、神話に基づいて、鶏の卵を食わぬ習慣がある。それは、事代主命が三島の溝杭姫(みぞくいひめ)の許に通い給うた時、毎朝 鶏が鳴いて帰り給うたのであったが、或る夜、鶏が時を違えて鳴いたので、事代主命はうろたへて、船に乗って急ぐうち、櫂(かい)を取り落し、右の足にて水をかき給うた。その時、和邇(わに)に足を噛まれたといふのであるが、それは、結局 鶏の罪であるといふので、この神を尊信するものは、鶏の卵を食わぬこととして居る。
この神話で、事代主命が摂津国の三島の溝杭姫の許に通い給うたといふのが、この処では揖屋へ通うた話になって居る。美保関と、揖屋との間は、毎夜通うには遠過ぎるなどと理屈を云っては、神話に味がなくなる。鶏の卵を一つぐらい食わぬとて何の差支もないから、信心のものは、それによって益々信心を固めるがよい。
【原文参照】
美保神社(美保関町美保関)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)