櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)〈『延喜式』櫛色天蘿箇彦命神社〉

櫛色天蘿箇彦命神社(くしろあめのこけつひこのみことじんじゃ)は 古代石見地方に栄えた櫛色族の祖である天足彦国押人命の御子 櫛色天蘿箇彦命を祀る 延喜式内社 石見國 那賀郡 櫛色天蘿箇彦命神社(くしいろ あめのこけつひこのみことの かみのやしろ)です 旧社地 元稲葉の地から大正十年1921現地に遷座しました

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

櫛色天蘿箇彦命神社(Kushiro ameno koketsuhiko no mikoto shrine

通称名(Common name)

櫛色神社

【鎮座地 (Location) 

島根県浜田市久代町1559番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》櫛色天籮箇彦命(くしろあめのこけつひこのみこと)
〈別称 彦竟邪都命〉〈櫛色族の祖である天足彦国押人命の御子※境内由緒書には゛彦竟邪都命住吉大神゛と記されています

《配》大年神・御年神〈明治44年に合祀された大年神社(久代字庵の上)の祭神
   護国の英霊

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・家内安全・五穀豊穣・家業繁栄・海上安全

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

 社銘 櫛色天蘿箇彦命神社

 祭神 彦竟邪都命住吉大神 大年大神

 例祭 十月十七日・十八日

由緒
 當社は 延喜五年制定の延喜式神明帳に登載せられてある 延喜式神社 石見の国 三十四座の内の一座である

 主祭神 彦竟邪都命は 古代石見地方に栄えた櫛色族の祖 天足彦国押人命の後裔であって 歴史的名社である

社地は 元稲葉の地にあったが 大正十年現地に遷した 明治五年 村社に列格 昭和二十八年九月三十日宗教法人神社本庁に従属して現在に至る
昭和四十四年十月十八日建之

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

 櫛色族の祖である天足彦国押人命の御子を祭神とし、元久代字稲葉に鎮座 延喜式内社の古社なれ共 詳細は不明である。 大正7年7月3日全焼 大正9年11月27日再建 現在地に遷座鎮祭した。

島根県神社庁HPより
https://www.shimane-jinjacho.or.jp/hamada/bec974ed5259b93df52100f4cd8c1d0dac79a967.html

由緒

御祭神 櫛色天蘿箇彦命 大年神 御年神

 元大字久代字稲葉に鎮座、延喜式石見国34座の内 式内神社にて重要な古社である。櫛色族の祖である天足彦国押人命の御子を祭神とし 益田市久城鎮座 久城賀姫命神社と関係が深い。
大年神 御年神伊二神は大字久代字庵の上に鎮座 大年神社称していたが 明治44年11月22日櫛色神社に合祀し 櫛色天蘿箇彦命神社と称す。大正7年7月3日全焼、大正9年11月再建現在地に遷座鎮祭した。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・〈境内社〉大元神社《主》国常立命

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・〈境内社〉恵比寿社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)石見國 34座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 11座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 櫛色天籮箇彦命神社

[ふ り が な ](くしいろ あめの こけつひこのみこと の かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kushiiro ameno koketsuhiko no mikoto no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神 櫛色天籮箇彦命(くしろあめのこけつひこのみこと)について

櫛色天籮箇彦命は 天足彦國押人命〈和邇氏の始祖〈櫛色族の祖とも云う〉〉の御子とされます

地域の口伝には゛美濃郡鎌手村大字大谷の雄島と雌島゛に御祭神の伝承が残されています

それによれば 櫛代賀姫命(くしろかひめのみこと)と 櫛色天蘿箇彦命(くしろあめのこけつひこのみこと)の二柱の神が 鎌手の亀島にほど近い 雄島と雌島に降臨し結ばれたという伝説があります

櫛色天蘿箇彦命は 延喜式内社 石見國 那賀郡 櫛色天蘿箇彦命神社の御祭神で 櫛代賀姫之命櫛代賀姫命神社の御祭神 この二柱の神は 夫婦神であったとも伝わり 二つの式内社は 深い関係にあると考えられています

石見にやってきた櫛代族のうち、東に向かった一族が浜田市久代町のあたりに住みつき祖神の男神を祀って櫛色天籮箇彦命神社を創建し、西に向かった一族が益田市久城町のあたりに住みつき女神を祀って櫛代賀姫命神社を創建したとする伝承もある。ただし、この櫛代族による創建伝承は、『島根県史』三 (一九二三年 )が初出と思われ、出雲地方に対して石見地方は圧倒的に開発が遅れていたという視点から書かれたものであり、問題点が多い。根拠も地名以外にはないと思われる。

古代文化研究 第31号(2023. 3)『益田市・櫛代賀姫神社の神像について』より抜粋

延喜式内社 石見國 那賀郡 櫛色天蘿箇彦命神社(くしいろ あめのこけつひこのみことの かみのやしろ)について

・櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)

《主》櫛代賀姫之命(くしろかひめのみこと)

延喜式内社 石見國 美濃郡 櫛代賀姫命神社(貞)(くししろかひめのみことの かみのやしろ)について

・櫛代賀姫神社(益田市久城町)

《主》櫛色天蘿箇彦命(くしろあめのこけつひこのみこと)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 久代駅から北西方向へ約800m 車で3分程度

 

旧街道沿いに鎮座します
社頭の社号標には゛式内 櫛色天蘿箇彦命神社゛と刻字されています

櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)に参着

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 櫛色天蘿箇彦命神社について 所在は゛久代村に在す、゛〈現 櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)〉と記しています

【抜粋意訳】

櫛色天蘿箇彦命神社

櫛色は 久志伊呂と訓べし、天蘿箇彦は印本假字なし、いかが讀べきか、

〇祭神 明か也

〇久代村に在す、〔式社考〕
例祭 月 日

〇姓氏録、〔和泉國皇別〕櫛代造、布留宿禰同祖、天足彦國押人命之後也、

連胤〕按るに、櫛色は地名にて久之呂と訓べし、和名鈔〔郷名部〕印本に、久佐とあるは久代の誤なるべし、さて其地名を櫛色とも書て、久之呂と稱(イヒ)し事決し、式の印本に久之伊呂とあるは、字に泥みたる後人のさかしら也、又 は和名鈔〔草木部〕に、、日本紀私記云、比加介、また松和名萬豆乃古介とあり、されど此神號を、比加介とは唱へがたければ 古介と訓べし、
故 阿米乃古介都、 (以下缺く) 

【原文参照】

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『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 櫛色天蘿箇彦命神社について 所在は゛今 下府郷久代村 稲葉山にあり、゛〈現 櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)〉と記しています

祭神についての考証では 櫛色天蘿箇彦命櫛代賀姫命は 夫婦神であろうとしています

【抜粋意訳】

櫛色天蘿箇彦(クシロノアメノコケツヒコノ)神社

今 下府郷久代村 稲葉山にあり、〔神名帳、八重葎、神名帳打聞、〕〔〇按 新撰姓氏録、櫛代造 天足彦國押人命之後とみえ、上に津門伊廿二社も此に由縁あり、又 本社の久代村にあり、彦國押人命の子に彦姥津命とあるは、天蘿箇彦神に音近く美濃郡 櫛代賀姫命神社ありて久代村に在すを思ふに夫婦の神なるべし、されど彦國押人命の裔 此國に居し事 今だ其 明證を得ず、附て考に備ふ、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 櫛色天蘿箇彦命神社について 所在は゛久代村〔稲葉山〕(那珂郡國分村大字久代)゛〈現 櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町)〉と記しています

御祭神について考証しています

【抜粋意訳】

櫛色天蘿箇彦命神社

祭神 櫛色天蘿箇彦命

今按 式出雲本考異に櫛色諸本〔久之以呂〕案當訓に久之呂〔或云 今在 久代村天蘿箇彦 諸本訓無とあり 神名帳考證に天足國押人命 子 彦姥津命 古事記作 比古意祁 和名抄 松 和名古介 按 意祁 通とあり
注進状に宗雄 頭注に祭神を住吉とあれ由なし 櫛色は地名なり 田中の式神社考に は天足彦國押人命之後也と見え 此命の男に彦姥津命あり 士清云 ふ式の石見國 櫛色天蘿箇彦命神社是なりり云々とある 下の櫛色賀姫神社に思ひあせて 櫛色は地名ながら 足彦國押人命にある事なれば 姑く上件の説是なるに似たり  上文の次に 石また石などありて 津多と訓み都奈とも都も通用和名抄の都農號の地名によりたる名らんとあるはられず

祭日 十一月十日
社格 (無格)(村)

所在 久代村〔稲葉山〕(那珂郡國分村大字久代)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

櫛色天蘿箇彦命神社(浜田市久代町) (hai)」(90度のお辞儀)

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