国渭地祇神社(坂戸市森戸)

国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)は 社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている 社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していること等から 延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社にもなっています

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

国渭地祇神社(Kuniichigi shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県坂戸市森戸616

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》八千矛命(やちほこのみこと)
   天照皇大神(あまてらすすめおかみ)
   伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている

【由  (History)】

国渭地祇神社

坂戸市森戸六一六(森戸字宿頭)

 当村は高麗川の南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南に行くほどゆるやかに台地上になっていく。
 当社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝える。社名は「クニイチギ」と読み、これはおそらく水と関係あるものといわれる。

 延喜式内社 国渭地祇神社の伝承地については、従来、所沢市北野字吉野に鎮座する北野天神社であることが定説となっている。
しかし、当社の社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していることや、樹相が古いということを考えると、古社であることはまちがいない。

 もと、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。

 社記には、延暦年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている。更に、延徳年中にも拝殿が再営されている。
 また、建暦元年から建保五年にわたって書き写された大般若経と慶応二年三月五日鋳造の本地仏があったが兵火により失っている。

埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

八幡神社《主》誉田別尊

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秋葉神社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 國渭地祇社
[ふ り が な ](くにゐちきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuniichiki no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社について

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

・国渭地祇神社(坂戸市森戸) 

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武越生線 西大家駅 北側すぐ 徒歩2分

表参道は南側にあります

県道74沿いにも 東南を向いて 石鳥居が建ちます
国渭地祇神社(坂戸市森戸)に参着

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この東南の鳥居の正面には 境内社の八幡社 その奥に秋葉社祀られています

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社殿は 南を向いて祀られています

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表参道の正面に祀られている

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 覆屋の中に本殿が祀られています

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 国渭地祇神社について 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています

【抜粋意訳】

国渭地祇(クニヌマノ クニツカミ)(クニヰチキ)神社

式考 北野村にあり オホナムヂ

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

国渭地祇神社(坂戸市森戸)について 熊野社と呼ばれていて 鎮守府将軍 秀衡の勧請なりと伝えるが 証すべき記録もなじられない と記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻一七〇 入間郡 巻之十五 末勘 合村四十五 森戸村

熊野社

當村の鎮守なり 慶安二年 社領十石の御朱印を賜り 鎮守府将軍 秀衡の勧請なりと傳るのみにて 證すべき記録もなければ信ずるに足らず
鳥居の前に 一條の往来あり 往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由 今もそこを字して鳥居を云 往来北の方市場村より入 高麗川を渡て社の前に至れり 當村と四日市場村の間を過て 高麗郡中新田に貫けり 鎌倉古街道なりといへり

末社 疱瘡神社 三島社 石尊社 秋葉社 観音堂

別當大徳院 三宮山と號す 本山修験山本坊の配下 本尊不動を安ず 開山権律師月證と云 寂年は傳へず されど本社の傍に觀應二年辛卯三月三日 右志者大檀那當住権律師月證逆修願予普及及法界自陀冏證無上菩提沙彌道妙彌尼妙安敬白と彫たる碑を建つ 此の月證當院の草創ならんには 開山の年歴も推考すべし

八幡社 大徳院の持

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 国渭地祇神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉で 旧鎮座地は廃亡している と記しています

【抜粋意訳】

國渭地祇神社

國渭は久爾奴、地祇は久爾都加美と訓べし、
〇祭神 八千戈神、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭  日、

旧地 廃亡して後爰に祀るか

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 国渭地祇神社について 物部天神の相殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています

【抜粋意訳】

渭地祇(クニヌマノクニツカミノ)神社

今 物部天神の相殿に坐す、神社覈録、神社取調帳

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 国渭地祇神社について 社名のみ 記しています

【抜粋意訳】

国渭地祇神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

森戸の獅子舞について

森戸(もりど)の獅子舞(ししまい)

(坂戸市文化かるた)も 森戸には 国渭地祇神社 ししの舞

坂戸市指定無形民俗文化財

 秋になると豊年(ほうねん)を祝う獅子舞(ししまい)が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞(まい)」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 森戸の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)と周辺の神社のお祭りに舞われます。

 獅子(しし)は悪霊払(あくりょうばら)いの霊獣(れいじゅう)として崇められ、古来、祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は、江戸時代の安永六年(一七七七年)に始まったと伝わっていますが、記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ、毎年十月十五日に奉納(ほうのう)されます。
 獅子舞の演者(えんじゃ)は、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)、中獅子(なかじし)の三頭で、これに山の神の天狗(てんぐ)、軍配(ぐんばい)を振って舞いを盛り上げる配追(はいお)い、花笠(はながさ)をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目(えんもく)は「すり違(ちが)い」、「竿(さお)がかり、「花すい」、「秋葉社(あきばしゃ)の舞(まい)」、「宮まいり」があります。
 獅子舞の当日は、ほら貝の合図で社殿(しゃでん)を一周する「宮まいり」から始まり、境内(けいだい)で「すり違い」を舞います。四日市場(よっかいちば)、森戸の秋葉社(あきばしゃ)へ行列を組んで行き、それぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)の境内にもどり、「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納(まいおさ)めとなります。行列の先頭を行く万燈(まんとう)には、天下泰平(てんかたいへい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、風雨順調(ふううじゅんちょう)、氏子繁昌(うじこはんじょう)との願いが記されています。
 祭の当日に立てられるのぼり旗(はた)の文字は、巌谷修(いわやおさむ)(児童文学者 巌谷小波(いわやさざなみ)の父)の書によるものです。
平成十九年三月 坂戸市教育委員会

現地案内板より

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国渭地祇神社(坂戸市森戸)に (hai)」(90度のお辞儀)

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