越木岩神社(こしきいわじんじゃ)は 古代の磐座信仰の霊石として゛甑岩(コシキイワ)゛をご神体として 神社の創始は 600~700年頃と推定される古社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津国 菟原郡 大國主西神社(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)は当社の地主神である大地主大神(おおとこぬしのおほかみ)として末社「土社」にお祀りされていると伝えます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
越木岩神社(Koshikiiwa shrine)
【通称名(Common name)】
・北の戎(きたのえびす)
・西神社(にしじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県西宮市甑岩町5-4
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》蛭子大神(ひるこのおほかみ)(えびす大神)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・女性守護、子授・安産の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
越木岩神社の御由緒
御祭神 蛭子大神(えびす大神)
当社は東六甲山麓唯一の霊地で天然記念物の森におおわれ霊験あらたかなり、創立不詳というほど由緒古い神社である、しかし西宮神社記録によると 明暦二年八月十六日(一六五六年)、円満寺 教順僧侶「福神」総本社 西宮神社を遷し勧請したとあり 又、正保年間とも云われている。
甑岩(コシキイワ)(御祭神 厳島大神 俗に福寿弁財天)
酒造りの甑の形に似且つ岩上よりユゲ゛が出ていたとも云われ社名・地名もこの岩より起った。廻り約三十米 高さ十米で岩上樹木生じ神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)磐座(いわくら)祭祀(さいし)(古代祭祀の原形体)の態を成し稀有の霊石である。
安産や女性守護の神とあがめられている。ちなみに豊臣秀吉・大阪城築城の際 之を割取ろうとして石匠等皆倒れ臥し如何にしても甑岩を運び出せなかったと伝承されている。宗鑑句碑
俳諧の祖 山崎宗鑑(室町時代)が参拝のときの句゛照る日かな蒸ほど暑き甑岩゛
祭日
一月一日 新年祭 九・十・十一日 十日戎
二月三日 節分祭 三月四日 春祭 三月中 椿祭
七月十六日 夏祭 八月下旬 不動明王献灯祭
九月二十一~二十三 秋祭 十一月中 七五三
十一月三十日 新嘗祭 六月三十日 十二月三十一日 大祓現地案内板より
【由 緒 (History)】
ご由緒
当社は東六甲山麓唯一の霊場で、天然記念物の森におおわれた霊験あらたかな神社です。
甑岩を霊岩とする信仰は磐境(いわさか)・磐座(いわくら)祭祀と呼ばれ、当社が鎮座する地域一帯の磐座群の象徴として祀られており、古くから特に女性守護、子授・安産の神さまとして信仰されています。神社の創始は、600年~700年頃と推定されるぐらい由緒深く、延長5年(927年)に纏められた延喜式神明帳に載る摂津国・菟原郡(のちに武庫郡に合併)に鎮座する「大国主西神社」は当社と比定されています。正保年間(西暦1644年頃)に社殿が再建され、明暦二年(西暦1656年)の八月十六日に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称しました。以後、数回社殿は修復されましたが、現在の見事な片削破風羽流造のご本殿は昭和十一年に、また、拝殿は昭和五十八年に御造営となったものであります。
歌謡に『杜のふもとに甑を立てて、招く湯の里ヨホホイ越木岩』とうたわれて、越木岩・苦楽園・夙川・鷲林寺・柏堂という関西の高級住宅地の産土神(うぶすながみ)としてあがめられていいます。
越木岩神社公式HPより
https://www.koshikiiwa-jinja.jp/koshiki/index.html
由 緒
当社は東六甲山麓唯一の霊地で、天然記念物の森におおわれた霊験あらたかな神社である。
創立不詳といわれるぐらい由緒深く、甑岩を霊岩とし、今なお全国的に信仰を集めている。
また、古代信仰の磐境・磐座祭祀と呼ばれ学術上貴重とされている。
今を去る1千年前の延喜式神名帳に大国主西神社が記録されてるが、当社であろうと思われる。
正保年間(1644年頃)に社殿が再建され、明暦2年8月16日(1656)に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称した。
以後数回社殿は修覆されたが、現在の見事な片削破風流造の御本殿は昭和11年に、また、拝殿は昭和58年に御造営になったものである。
歌謡に「杜のふもとに甑を立てて招く湯の里ヨホホイ越木岩」とうたわれた。越木岩・苦楽園・夙川鷲林寺・柏堂という関西の高級住宅地の産土神としてあがめられている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
境内社については
「甑岩〈越木岩神社の御神体〉&大國主西神社」の記事を参照
・甑岩〈越木岩神社の御神体〉&大國主西神社
・岩社《主》市岐島姫大神
・白玉稲荷神社《主》白玉稲荷大神
・大崎稲荷神社《主》大崎稲荷大神(秀吉大神)
・六甲山神社《主》菊理姫大神〈六甲山神社(石の宝殿)の里宮〉
・雨乞社《主》貴船大神・龍神
・土社《主》大地主大神
・水神社《主》ミズハノメノカミ
・不動明王社《主》甑不動明王
・伊勢遥拝社《主》天照大神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・苦楽園神社《主》国龍命
・石宝殿〈白山の宮〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)莵原郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大國主西神社(鍬靫)
[ふ り が な ](おほくにぬしのにしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohokuninushino nishino no kamino yashiro)
【原文参照】
延喜式内社 摂津國 莵原郡 大國主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社について
・西宮神社(西宮市社家町)
・大國主西神社〈西宮神社 境内社〉(西宮市社家町)
・越木岩神社(西宮市甑岩町)
・甑岩〈越木岩神社の御神体〉&末社「土社」〈大國主西神社〉
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『記紀神話』にある「船に乗せて流される」 御祭神 ゑびす大神(蛭児命)について
『記紀神話』では『古事記』に゛水蛭子(ひるこ)゛ 『日本書紀』に゛蛭児(ひるこ)゛と記され どちらも船に乗せて流されています
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の最初に生まれた子であり 『日本書紀』では ゛日の神゛と゛月の神゛に並んで生まれる子として 記される高貴な神なのですが 何故か船に乗せて流されて 以後『記紀神話』には登場しません
『記紀神話』においても 省くことのできない神として 太古において とても高貴な神として信仰されていたが 大和朝廷の時代となり 封印された古代神なのでしょうか?
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
伊邪那岐命と伊邪那美命は 天の沼矛を用いてオノゴロ島を造り゛水蛭子(ひるこ)゛を生んだが この子は葦船に入れて流して捨ててしまった と記されます
【抜粋意訳】
伊耶那岐・伊耶那美の二神はその嶋に天降りなさり 天の御柱を見顕し 八尋殿を見顕す
そこで その妹の伊耶那美命に質問された「おまえの身体はどのように成っているのか」
伊耶那美命が答え申し上げるには「私の身は出来上がり出来上がりしてなお出来上がっていないところが一箇所あります」と申し上げる
すると伊耶那岐命が仰るには「私の身体は出来上がり出来上がりして出来上がり過ぎたところが一箇所ある そこで 私の身体の出来上がり過ぎたところで おまえの身体の出来上がっていないところを刺し塞いで 国土を生んで生成しようと思う 生むことはいかがであろうか」と仰る
伊耶那美命が答えて言うには「それが良いでしょう」
そこで 伊耶那岐命が仰るには「それならば私とおまえとでこの天の御柱を別々に廻って逢って 聖所での婚姻を成そう」と仰るこのように約束をして「おまえは右から廻って私に出逢いなさい 私は左から廻っておまえに出逢おう」と仰り 約束をし終えて廻った時 伊耶那美命が先ず「まあ なんと素敵な男性なんでしょう」と唱え その後に伊耶那岐命が「ああ なんて美しい女性なんだろう」と唱える
それぞれに唱え終わった後に 伊耶那岐命はその妹に告げて「女人が先に唱えたのは良くなかった」という
そうではあるが 男女の籠もり場で生んだ子は ゛水蛭子(ひるこ)゛である この子は葦船に入れて 流しやってしまった 続いて淡島を生む これもまた 子として数えることはなかったそこで 伊耶那岐・伊耶那美の二柱の神が相談をして言うには「今私が生んだ子は良い子ではなかった やはり天つ神の御所に参上して申し上げよう」と言って 一緒に天に参上して 天つ神のお言葉を請うた そこで 天つ神のお言葉で フトマニに占いをして仰るには「女人が最初に唱えたのが原因で良くない結果となった 再び還り降って改めて唱えなさい」と仰る そうして降って 再びその天の御柱を各々行って廻る様は 先の通りである
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
本文と一書に゛蛭児(ひるこ)゛として記載があり どちらも゛日の神゛と゛月の神゛に並んで記されるが やはり流されてしまっています
【抜粋意訳】
第四段一書(一)
ある書によると
天津神が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)にいいました。
「豊葦原(トヨアシハラ)の千五百秋に瑞穂の地がある そこに行って治めなさい」そこで伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 天の浮橋から矛を降ろして地を求めた
海をかき回して引き上げると 矛の先から滴り落ちた潮が固まって島になりました これを「オノコロ島」と云う伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は オノコロ島に降り立って 大きな神殿を作り 柱を立て
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は言う「お前の体はどうなっているか?」
伊奘冉尊(いざなみのみこと)は答え「私の体には出来上がっていて 陰元(ホト)と呼ばれる場所があります」伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は言う「私の体も出来上がっていた 陽元と呼ばれる場所がある その陽元と陰元を合わせたいと思う」
それで柱を回る約束をしました「妹=伊奘冉尊(いざなみのみこと)は左に回れ 私は右を回る」
二柱は別れてすぐに出会い
伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 「あな にえやえおとこを」と言い
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が 「あなにえやおとめを」と言い二柱は夫婦となり 生まれた子どもは蛭子(ヒルコ)でした その子は葦の船にのせて流してしまいました
次に生まれたのは淡洲(アワシマ)でした これも生まれた子の数には入れませんでした
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 神生みに失敗したことを 天に帰って伝えた
天つ神は 太占(フトマニ)で 吉凶を調べ言いました
「婦人が先に声をかけたのがいけない もう一度戻ってやり直しなさい」 そうして また天つ神は 太占(フトマニ)をして 地上に降りる期日を調べ
その日に 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は地上に降り立ち 改めて 柱の周りを回りました伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は左にから 伊奘冉尊(いざなみのみこと)は右から回り
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が言う「あなにえやえおとめを」
伊奘冉尊(いざなみのみこと)が言う「あなえにやえおとこを」その後 宮殿に住み 子どもが生まれた
大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ) 次が 淡路洲(アワジシマ)次が 伊予二名洲(イヨノフタナノシマ)筑紫洲(ツクシノシマ)億岐三子洲(隠岐の三つ子島)佐度洲(サドノシマ)越洲(コシノシマ)吉備子洲(キビノコシマ)以上の八つの島を生み これを大八洲国といいます瑞を彌圖 (ミズ)といい 姸哉を阿那而 惠夜 (アナシエヤ)といい 可愛を哀(アイ)といい 太占を布刀磨爾(フトマニ)と云う
【原文参照】
【抜粋意訳】
第四段一書(十)
ある書によると…
陰神〈伊奘冉尊(いざなみのみこと)〉が先に言い「あな にえやえおとこを」
すると陽神〈伊弉諾尊(いざなぎのみこと)〉の手を握り 夫婦となりました
そして淡路島が生まれ 次に 蛭子(ヒルコ)が生まれました
【原文参照】
【抜粋意訳】
第五段 本文
そして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)とは相談し
「私は大八洲国(おおやしまのくに)や山川草木を生んだ そろそろ天下を治める者を生まないといけない」そこで一緒に日の神を生み出した 大日孁貴(おおひるめのむち)という
別の言い伝えでは 天照大神(あまてらすおおみかみ)という
ある書には 天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)というこの御子は 華やかに光り麗しく 国中を照らした
それで二柱の神は喜び
「我が子たちはたくさんいるが まだこんなに妖しく不思議な子はいない 長くこの国に留めておくのはよくない 早く天に送り 高天原(たかまがはら)の仕事をするように」
このとき 天と地はまだそんなに離れていなかった だから天御柱(あまのみはしら)をたどって 天上に送り上げた次に 月の神をお生みになられた
ある書によると月弓尊(ツクユミノミコト)月夜見尊(ツキヨミノミコト)月読尊(ツキヨミノミコト)という
その光り麗しいことは 太陽に次いでいた
それで太陽と並んで治めるのがよいと判断し これもまた天に送った次に 蛭児(ヒルコ)を生んだ 三年経っても足が立たなかった
だから天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて 風のままに放ち流した次に 素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生んだ
ある書によると神素戔鳴尊(カムスサノヲノミコト)速素戔鳴尊(ハヤスサノヲノミコト)という
この方は勇ましくて荒々しく 残忍なことも平気だった
また 常に泣きわめくことがあった
それで国内の人々を多く若死にさせた また 青山を枯山にさせた
それで父母の二神は 次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)に「お前は大変無道である だから天下を治めることができないので 遠い根の国に行きなさい」と言って 追放した
【原文参照】
第五段一書(二)
別の言い伝え(第二)によると 日と月とが生まれたあとに 蛭児(ひるこ)が生まれた
この子は三歳になっても足が立たなかった
最初 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 柱を回られたときに 女神が先に喜びの言葉を言われた それが陰陽の道理にかなっていなかった
それために蛭児(ひるこ)が生まれた次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた
この神は性質が悪く 常に泣いたり怒ったりすることが多かった
国の人々が多く死に 青山を枯山にした
それで両親が
「もしお前がこの国を治めたら きっと損ない破ることが多いだろう だから お前は遠い根の国を治めなさい」と言われた次に 鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)を生み この船に蛭児(ひるこ)を乗せて放ち流した
次に火の神の軻遇突智(かぐつち)を生んだ
そのとき伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 軻遇突智(かぐつち)のために火傷をして お亡くなりになった
その亡くなる際に 横たわったまま土の神である埴山姫(はにやまひめ)と 水の神である罔象女(みつはのめ)を生んだ
軻遇突智(かぐつち)は 埴山姫(はにやまひめ)を娶って 稚産霊(わくむすひ)を生んだ
この神の頭の上に蚕と桑が生じた
臍の中に五穀が生まれた
【原文参照】
西宮神社(西宮市社家町)の社伝には ゛海より甦った蛭児の神゛と記されます
西宮神社の公式HPには 海に流された゛蛭児の神゛が 海より上がり 西宮に祀られた経緯が記されています
由緒 御鎮座伝説
昔々、鳴尾に住んでいた漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大変手ごたえを感じました。喜んで引き上げてみますと、それは期待していた魚ではなく、今まで見たこともないものでした。よく見ると人形のような、又御神像の様にも見えましたが、魚ではないので海にもどしてしまい、また魚の群れを求め、西の方へと船を進めてゆきました。なかなかえものに恵まれず、今の神戸の和田岬の辺りまで来て、なかばあきらめながら網を入れたところ、再び大変な手応えを感じ、今度こそはと勇んで網を引き上げてみると、何とそれは先程海にもどしたはずの、あの御神像の様に見えたものでありました。
漁師は瞬時に、これは徒事ではないと確信し、漁をきりあげ、御神像を丁寧に布にくるみ、家に持ち帰りました。粗末な家ではありましたが、漁師はその像の為に床をしつらえ、朝な夕なにお供え物をし、お祀りすることになりました。
しばらくたったある日、いつもの様に夕方のお供えをして、自分も夕食をとり、やがて眠りにつきました。その夜の夢の中に、お祀りしている御神像が現れ、「吾は蛭児の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい。」との御神託があったのです。蛭児の神。それは神代の昔、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神が久美度に興して生み給いし御子。日本書紀によると、三歳になるまで足が立たなかった不具の子であったとも云われています。伊邪那岐伊邪那美二柱の神は、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて茅渟の海へ流してしまわれたのです。
その蛭児の神、葦船に乗せて流された蛭児の神が、再び茅渟の海から出現されたのです。平安の御代に力強くよみがえった蛭児の大神、この神が西宮えびす大神として茅渟の海、今の大阪湾岸をうしはく神として、海に生業の道を求める人々はもとより、開けつつある街の人々の、絶大なる信仰を集めてゆくのです。さて鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方、良き宮地を求めて出立しました。途中いく度か輿を下ろし休憩して行きましたが、ある所で一休みされたえびす様が、よほどお疲れになったか眠り込んでしまわれ、なかなかお目覚めになりません。困った漁師たちは、恐れ多いとは思いましたが、えびす様のお尻を捻ってお目を覚ましていただき、再び西へ向って進まれたという話も残っています。その御輿を置いて一休みされたといわれている処が、ここより東へ二百米程の札場筋角にある御輿屋跡地(おこしやあとち)といわれているところなのです。この様にして海より甦った蛭児の神は、えびす様としてこの西宮の地にお鎮まりになったのです。
西宮神社公式HPより抜粋
https://nishinomiya-ebisu.com/history/history01.html
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阪急甲陽線 甲陽園駅から夙川を渡り西へ 約1.5km 車5分程度
社頭には 東南を向いて鳥居が建っています
越木岩神社(西宮市甑岩町)に参着
鳥居の扁額には゛越木岩神社゛と刻字されています
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます
参道の途中 右手に屋根付きの゛相撲場゛があります
参道の先に手水舎 その先に石段があり 上の段に社殿が見えてきました
手水舎にて 清めます
右手に゛社務所゛があり 正面には社殿
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛蛭子太神宮゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています
社殿の向かって左手に 磐座信仰の゛甑岩(コシキイワ)゛と境内社があります
神域に祀られている境内社については
「甑岩〈越木岩神社の御神体〉&大國主西神社」の記事を参照
・甑岩〈越木岩神社の御神体〉&大國主西神社
社務所にて 御朱印やお守りなど授領
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『五畿内志(Gokinaishi)』〈享保14年(1729~1734)編纂〉に記される伝承
江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされる『五畿内志(Gokinaishi)』
※著者の並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉は『五畿内志』を編纂する調査の過程で『畿内』の数々の延喜式式内社の比定も行こないました
越木岩神社(西宮市甑岩町)について ゛甑岩神祠(こしきいわのかみほこら)゛と記しています
【抜粋意訳】
甑岩神祠
越木岩村
【原文参照】
『摂津名所図會(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
延喜式に載る大國主西神社〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉であると記しています
越木岩神社(西宮市甑岩町)について 祭神巨岩にして倚畳甑の如し この土地の生土神(うぶすなかみ)と記しています
【抜粋意訳】
西宮の沖 沖荒夷の図
大國主西神社(おおくにぬしにしのじんじゃ)
西宮市夷町にあり 西宮太神宮と称す 延喜式曰 鍬靫 莵原郡に載る
・・・・
・・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
甑岩神祠
越木岩村にあり
祭神巨岩にして倚畳甑の如し この地の生土神とす
照る日哉蒸かと暑き甑岩 山崎宗鑑
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮村の西ノ宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記し
西宮とは「廣田社の西にたせれば西宮と称なる」と記しています
【抜粋意訳】
大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)
〇今在 西宮村
〇廣田社の西にたせれば西宮と称なるへし 今 西ノ宮と云、
神司 高橋村成説
〔古事記〕
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大國主西神社(鍬靫)
大國主西は 淤保久爾奴志乃邇志と訓べし
〇祭神 蛭兒尊〇今武庫郡戸田荘西宮村に在す、今西宮と称す
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉又 夷宮・戎三郎宮とも呼ぶ と記しています
【抜粋意訳】
大國主西(オホクニヌシノニシノ)神社(鍬靫)
又、夷宮と云ひ、戎三郎宮と云、即 廣田の末社也、
今 武庫郡 西宮村に在り、廣田社の西なるを以て、又之を西宮と云、醍醐天皇 延喜の制、祈年祭鍬靫を加奉りき、延喜式
後鳥羽天皇 建久五年七月甲戌、夷宮鳴動の怪あるを以て、幣を廣田社に奉り、
土御門天皇 元久元年八月甲辰、神社を改造て、遷宮を行ふ、
毎年正月十日斎居祭を修む、
凡斎敬て響音を停る事尤厳也、摂津志
奥の夷宮 舊村西濱南に在り、故に南宮と云ひ、沖荒夷と云、
今本社域内に在り、
合せて戎三郎両社と云、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮町縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社と記しています
【抜粋意訳】
大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)
祭神
祭日社格 懸社(明細帳に縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社とあり)
所在 西宮町属武庫郡(武庫郡西宮町縣社西宮神社境内)
【原文参照】
越木岩神社(西宮市甑岩町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)