西宮神社(西宮市社家町)〈えべっさん〉

西宮神社(にしのみやじんじゃは 全国の゛ゑびすの総本社 海上守護神 商賣繁盛の神として崇敬されています 平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝が著しく社勢は極めて盛大でした 延喜式内社 摂津國 莵原郡 主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社でもあります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

 【神社名(Shrine name

西宮神社(Nishinomiya shrine

 通称名(Common name)

西宮のえべっさん
えべっさん
えびす宮総本社

【鎮座地 (Location) 

兵庫県西宮市社家町1-17

  (Google Map)

 【御祭神 (God's name to pray)】

 《主祭神》
第一殿えびす大神(西宮大神・蛭児命)

第二殿天照大御神 

第二殿大国主大神明治初年に配祀

第三殿須佐之男大神 

 【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

海上守護神商賣繁盛の神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

 由緒

 御祭神
第一殿 西宮大神(ゑびす様)
第二殿 天照大神 大国主大神
第三殿 須佐之男大神

 例 祭 九月二十二日
月次祭 毎月一日・十日・二十日
    一月九日(宵ゑびす)

 十日ゑびす大祭 十日(本ゑびす)十一日(残り福)

  ゑびす様の総本社である西宮神社は西宮のほぼ中央に鎮座し平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝が著しく社勢は極めて盛大であった とくに中世以後福の神と崇める信仰が盛んとなり傀儡師の活動や謡曲や狂言を通じて愈々御神徳が拡まっていった とりわけ徳川時代以後商業の発展に伴い海上守護神商賣繁盛の神として普く御神徳が発揚し今日では全国津々浦々にわたって多くの人々の崇敬を受けている

  本殿は三連春日造と称し神社建築の中で特異な構造をもつ元国宝建築物 戦災のため昭和三十六年復元した

 表大門(赤門)は豊臣秀頼公の寄進と伝えられ桃山時代の建築遺構を現存しその左右に連なる大練塀(室町時代の作と伝える日本三大練塀の一つ)と共に重要文化財に指定されているほか境内の社叢は兵庫県指定天然記念物となっている 昭和五十二年七月池畔に岩倉具視公私邸の一部である「六英堂」を移設した 古来銘酒の産地として名高い西宮市はかつて当社の門前町として発展したものである

西宮神社

 現地案内板より

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 【由  (History)】

 西宮神社

  西宮神社は、福の神様として崇敬されているえびす様をおまつりする全国の総本社として広く信仰されています。
えびす様は、神戸和田岬の沖で出現され、鳴尾の漁師がおまつりしていましたが、西の方に宮地があるとの神託でこの地へおこしになられたと伝えられています。

その年代は明らかではありませんが、平安時代後期には、すでに文献に見ることができます。

古くより漁業の神として信仰されてきましたが、門前に市が立ち、西宮の町の発展と共に商売繁盛の神様として、又、人形操りなどの芸能や七福神信仰を通して、さらに津々浦々へと広がっていきました。

一月九日から十一日の十日えびすには百万人に及ぶ参拝者で賑いますが、本えびすの十日午前零時に神門を閉じて神職は忌籠(いごもり)を厳修します。そして午前六時の表大門(おもてだいもん)の開門とともに走り参りを行なう風習があり、福男が選ばれます。

九月二十一日から二十三日の西宮まつりでは例祭(れいさい)、渡御祭(とぎょさい)が斎行され、古式に則り海路神戸和田岬へ産宮(うぶみや)参りが行なわれます。

三連春日造(さんれんかすがづくり)という本邦唯一の構造を持つ本殿は、昭和二十年に戦禍にあいましたが昭和三十六年に復元再建されました。
豊臣秀頼公寄進と伝えられる表大門とその左右に連なる大練塀(おおねりべい)は国の重要文化財に、えびすの森は兵庫県の天然記念物に指定されています。

現地案内板より

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 由緒

 えびす神社の総本社として古くから崇敬されている西宮神社は、古来銘酒の産地として名高い西宮の中央に鎮座し、平安時代には既に高倉上皇の御奉幣を賜った記録が残されている。
 中世以降えびすさまを福の神と崇める信仰が盛んとなり、室町時代には謡曲や狂言にも謡いこまれて全国津々浦々にまで神徳が拡まっていった。
 戦国時代、当社御造営に際しては後奈良天皇の御寄進をうけ、江戸時代には徳川幕府から御神像札の版権を得て全国に配布されています社勢が盛大となっていった。
明治以降交通機関の発達に伴って参拝者も飛躍的に増加し、1月10日の10日えびすには100万人の参拝者があり、全国でも著名な祭典とされている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり

 神社の境内 (Precincts of the shrine)】

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 西宮神社公式HPに詳細あり

 末社由緒・御祭神・祭典(十二社)

https://nishinomiya-ebisu.com/guide/guide01.html

 神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

 『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

 延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)莵原郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 主西神社(鍬靫)
[ふ り が な ](おほくにぬしのにしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohokuninushino nishino no kamino yashiro)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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 【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

 延喜式内社 主西神社に関する論争について

江戸時代には 延喜式内社 主西神社 所在不明となっていました
江戸時代中期 地理学者・並河誠所が 社名に西が含まれること 御祭神の一柱として 大國主命が祀られている事などから 西宮神社を主西神社比定しました

 この並河誠所の説に従い 西宮神社は 明治七年四月この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出て 受理され゛大国主西神社と社名を変更し県社に列せられました

 しかし 政治的な配慮などがあり現在は 西宮神社の境内社 大国主西神社が式内社と比定され・大名持命少彦名命を祀鎮座しています

 詳しくは下記〈西宮神社公式HPより〉を参照

 廣田西宮分離、及び大国主西神社の件

 明治五年三月、官幣大社廣田神社と分離した戎社には、代々廣田西宮両社の神主を勤めてきた吉井家の傍流吉井西家から、「西宮神社」祠掌として吉井良幹が任ぜられ、六年六月には西宮戎社を大国主西神社と改称し、祠掌に吉井良秀を補任している。

明治七年四月、この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出、大国主西神社として県社に列せられた(明治七年六月三十日)。

ところが、同年八月二十八日付を以て先の大国主西神社の社格を取り消し、西宮神社ともども廣田神社の摂社と定める旨、教部省から達しがある。この時点で教部省は、「西宮戎神社」と「大国主西神社」を別の神社と見ており、「西宮戎神社」を「大国主西神社」と改称し県社への昇格を願い出た西宮神社側との認識の違いが混乱の一因となっている。

氏子総代が異議申立てをした処、十一月七日に摂社の儀はそのまま、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があった。ここに云う「大国主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。

氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教部省は苦心、考証の結果、明治八年四月二十八日付で、「今更廣田神社 摂社の名称の取消しは出来ない、大国主西神社の由来に付いては確定出来ないので両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務・社入も別途とするも差し支えなし」と、一応の決着を見た。

大東亜戦終戦後は当然の如く、廣田西宮両神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。

(平成22年7月11日 「吉井良尚選集」より纏めた)

西宮神社公式HPより
https://nishinomiya-ebisu.com/history/history03.html

 延喜式内社 摂津國 莵原郡 主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社について

大國主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)

・西宮神社(西宮市社家町)

・大國主西神社〈西宮神社 境内社〉(西宮市社家町)

・越木岩神社(西宮市甑岩町)

甑岩〈越木岩神社の御神体〉&末社「土社」大國主西神社〉

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 『記紀神話』にある「船に乗せて流される」 御祭神 びす大神(蛭児命)について

 『記紀神話』では『古事記』に水蛭子(ひるこ) 『日本書紀』に蛭児(ひるこ)゛と記され どちらも船に乗せて流されています
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命最初に生まれた子であり 『日本書紀』では ゛日の神゛と゛月の神゛に並んで生まれる子として 記される高貴な神なのですが 何故か船に乗せて流されて 以後『記紀神話』には登場しません
『記紀神話』においても 省くことのできない神として 太古において とても高貴な神として信仰されていたが 大和朝廷の時代となり 封印された古代神なのでしょうか?

 『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

 伊邪那岐命と伊邪那美命は 天の沼矛を用いてオノゴロ島を造り水蛭子(ひるこ)を生んだが この子は葦船に入れて流して捨ててしまった と記されます

 【抜粋意訳】

 伊耶那岐・伊耶那美の二神はその嶋に天降りなさり 天の御柱を見顕し 八尋殿を見顕す
そこで その妹の伊耶那美命に質問された「おまえの身体はどのように成っているのか」
伊耶那美命が答え申し上げるには「私の身は出来上がり出来上がりしてなお出来上がっていないところが一箇所あります」と申し上げる
 すると伊耶那岐命が仰るには「私の身体は出来上がり出来上がりして出来上がり過ぎたところが一箇所ある そこで 私の身体の出来上がり過ぎたところで おまえの身体の出来上がっていないところを刺し塞いで 国土を生んで生成しようと思う 生むことはいかがであろうか」と仰る
 伊耶那美命が答えて言うには「それが良いでしょう」
そこで 伊耶那岐命が仰るには「それならば私とおまえとでこの天の御柱を別々に廻って逢って 聖所での婚姻を成そう」と仰る

 このように約束をして「おまえは右から廻って私に出逢いなさい 私は左から廻っておまえに出逢おう」と仰り 約束をし終えて廻った時 伊耶那美命が先ず「まあ なんと素敵な男性なんでしょう」と唱え その後に伊耶那岐命が「ああ なんて美しい女性なんだろう」と唱える

 それぞれに唱え終わった後に 伊耶那岐命はその妹に告げて「女人が先に唱えたのは良くなかった」という
 そうではあるが 男女の籠もり場で生んだ子は 水蛭子(ひるこ)である この子は葦船に入れて 流しやってしまった 続いて淡島を生む これもまた 子として数えることはなかった

 そこで 伊耶那岐・伊耶那美の二柱の神が相談をして言うには「今私が生んだ子は良い子ではなかった やはり天つ神の御所に参上して申し上げよう」と言って 一緒に天に参上して 天つ神のお言葉を請うた そこで 天つ神のお言葉で フトマニに占いをして仰るには「女人が最初に唱えたのが原因で良くない結果となった 再び還り降って改めて唱えなさい」と仰る そうして降って 再びその天の御柱を各々行って廻る様は 先の通りである

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

 『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承

 文と一書に゛蛭児(ひるこ)として記載があり どちらも゛日の神゛と゛月の神゛に並んで記されるが やはり流されてしまっています

 【抜粋意訳】

第四段一書(一)

 ある書によると

 天津神が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)にいいました。
 「豊葦原(トヨアシハラ)の千五百秋に瑞穂の地がある そこに行って治めなさい」

 そこで伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 天の浮橋から矛を降ろして地を求めた
 海をかき回して引き上げると 矛の先から滴り落ちた潮が固まって島になりました これを「オノコロ島」と云う

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと) オノコロ島に降り立って 大きな神殿を作り 柱を立て

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は言う「お前の体はどうなっているか?」
 伊奘冉尊(いざなみのみこと)は答え「私の体には出来上がっていて 陰元(ホト)と呼ばれる場所があります」

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は言う「私の体も出来上がっていた 陽元と呼ばれる場所がある その陽元と陰元を合わせたいと思う」
 それで柱を回る約束をしました

「妹=伊奘冉尊(いざなみのみこと)は左に回れ 私は右を回る」 

二柱は別れてすぐに出会い
伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 「あな にえやえおとこを」と言い
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が 「あなにえやおとめを」と言い

 二柱は夫婦となり 生まれた子どもは蛭子(ヒルコ)でした その子は葦の船にのせて流してしまいました

 次に生まれたのは淡洲(アワシマ)でした これも生まれた子の数には入れませんでした

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと) 神生みに失敗したことを 天に帰って伝えた

 天つ神は 太占(フトマニ)で 吉凶を調べ言いました
婦人が先に声をかけたのがいけない もう一度戻ってやり直しなさい」 そうして また天つ神は 太占(フトマニ)をして 地上に降りる期日を調べ
その日に 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は地上に降り立ち 改めて 柱の周りを回りました

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は左にから 伊奘冉尊(いざなみのみこと)は右から回り
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が言う「あなにえやえおとめを」
伊奘冉尊(いざなみのみこと)が言う「あなえにやえおとこを」

 その後 宮殿に住み 子どもが生まれ
大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ) 次が 淡路洲(アワジシマ)次が 伊予二名洲(イヨノフタナノシマ)筑紫洲(ツクシノシマ)億岐三子洲(隠岐の三つ子島)佐度洲(サドノシマ)越洲(コシノシマ)吉備子洲(キビノコシマ)以上の八つの島を生み これを大八洲国といいます

瑞を彌圖 (ミズ)といい 姸哉を阿那而 惠夜 (アナシエヤ)といい 可愛を哀(アイ)といい 太占を布刀磨爾(フトマニ)と云う

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

 【抜粋意訳】 

第四段一書(十)

 ある書によると…

陰神〈伊奘冉尊(いざなみのみこと)〉が先に言い「あな にえやえおとこを」

すると陽神〈伊弉諾尊(いざなぎのみこと)〉の手を握り 夫婦となりました

そして淡路島が生まれ 次に 蛭子(ヒルコ)が生まれました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

  抜粋意訳】

第五段 本文

そして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)とは相談し
「私は大八洲国(おおやしまのくに)や山川草木を生んだ そろそろ天下を治める者を生まないといけない」

そこで一緒に日の神を生み出した 大日孁貴(おおひるめのむち)という
別の言い伝えでは 天照大神(あまてらすおおみかみ)という
ある書には 天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)という

 この御子は 華やかに光り麗しく 国中を照らした

それで二柱の神は喜び
「我が子たちはたくさんいるが まだこんなに妖しく不思議な子はいない 長くこの国に留めておくのはよくない 早く天に送り 高天原(たかまがはら)の仕事をするように」
このとき 天と地はまだそんなに離れていなかった だから天御柱(あまのみはしら)をたどって 天上に送り上げた

 次に 月の神をお生みになられた
ある書によると月弓尊(ツクユミノミコト)月夜見尊(ツキヨミノミコト)月読尊(ツキヨミノミコト)という
その光り麗しいことは 太陽に次いでいた
それで太陽と並んで治めるのがよいと判断し これもまた天に送った

 次に 蛭児(ヒルコ)を生んだ 三年経っても足が立たなかった
だから天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて 風のままに放ち流した

 次に 素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生んだ
ある書によると神素戔鳴尊(カムスサノヲノミコト)速素戔鳴尊(ハヤスサノヲノミコト)という
この方は勇ましくて荒々しく 残忍なことも平気だった
また 常に泣きわめくことがあった
それで国内の人々を多く若死にさせた また 青山を枯山にさせた
それで父母の二神は 次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)に「お前は大変無道である だから天下を治めることができないので 遠い根の国に行きなさい」と言って 追放した

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

第五段一書(二)

別の言い伝え(第二)によると 日と月とが生まれたあとに 蛭児(ひるこ)が生まれた
この子は三歳になっても足が立たなかった
最初 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 柱を回られたときに 女神が先に喜びの言葉を言われた それが陰陽の道理にかなっていなかった
それために蛭児(ひるこ)が生まれた

次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた
この神は性質が悪く 常に泣いたり怒ったりすることが多かった
国の人々が多く死に 青山を枯山にした
それで両親が
「もしお前がこの国を治めたら きっと損ない破ることが多いだろう だから お前は遠い根の国を治めなさい」と言われた

次に 鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)を生み この船に蛭児(ひるこ)を乗せて放ち流した

次に火の神の軻遇突智(かぐつち)を生んだ
そのとき伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 軻遇突智(かぐつち)のために火傷をして お亡くなりになった
その亡くなる際に 横たわったまま土の神である埴山姫(はにやまひめ)と 水の神である罔象女(みつはのめ)を生んだ
軻遇突智(かぐつち)は 埴山姫(はにやまひめ)を娶って 稚産霊(わくむすひ)を生んだ
この神の頭の上に蚕と桑が生じた
臍の中に五穀が生まれた

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

 西宮神社(西宮市社家町)の社伝には ゛海より甦った蛭児の神゛と記されます

 西宮神社の公式HPには 海に流された゛蛭児の神゛が 海より上がり 西宮に祀られた経緯が記されています

 由緒 御鎮座伝説

昔々、鳴尾に住んでいた漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大変手ごたえを感じました。喜んで引き上げてみますと、それは期待していた魚ではなく、今まで見たこともないものでした。よく見ると人形のような、又御神像の様にも見えましたが、魚ではないので海にもどしてしまい、また魚の群れを求め、西の方へと船を進めてゆきました。なかなかえものに恵まれず、今の神戸の和田岬の辺りまで来て、なかばあきらめながら網を入れたところ、再び大変な手応えを感じ、今度こそはと勇んで網を引き上げてみると、何とそれは先程海にもどしたはずの、あの御神像の様に見えたものでありました。

漁師は瞬時に、これは徒事ではないと確信し、漁をきりあげ、御神像を丁寧に布にくるみ、家に持ち帰りました。粗末な家ではありましたが、漁師はその像の為に床をしつらえ、朝な夕なにお供え物をし、お祀りすることになりました。
しばらくたったある日、いつもの様に夕方のお供えをして、自分も夕食をとり、やがて眠りにつきました。その夜の夢の中に、お祀りしている御神像が現れ、「吾は蛭児の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい。」との御神託があったのです。

蛭児の神。それは神代の昔、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神が久美度に興して生み給いし御子。日本書紀によると、三歳になるまで足が立たなかった不具の子であったとも云われています。伊邪那岐伊邪那美二柱の神は、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて茅渟の海へ流してしまわれたのです。
その蛭児の神、葦船に乗せて流された蛭児の神が、再び茅渟の海から出現されたのです。平安の御代に力強くよみがえった蛭児の大神、この神が西宮えびす大神として茅渟の海、今の大阪湾岸をうしはく神として、海に生業の道を求める人々はもとより、開けつつある街の人々の、絶大なる信仰を集めてゆくのです。

さて鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方、良き宮地を求めて出立しました。途中いく度か輿を下ろし休憩して行きましたが、ある所で一休みされたえびす様が、よほどお疲れになったか眠り込んでしまわれ、なかなかお目覚めになりません。困った漁師たちは、恐れ多いとは思いましたが、えびす様のお尻を捻ってお目を覚ましていただき、再び西へ向って進まれたという話も残っています。その御輿を置いて一休みされたといわれている処が、ここより東へ二百米程の札場筋角にある御輿屋跡地(おこしやあとち)といわれているところなのです。この様にして海より甦った蛭児の神は、えびす様としてこの西宮の地にお鎮まりになったのです。

西宮神社公式HPより抜粋
https://nishinomiya-ebisu.com/history/history01.html

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 【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

 阪神 西宮駅南口から南へ約300m 徒歩3分程度

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 県道193号を南下します

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 高速道路の手前 歩道に石灯籠が立ち並び 右手に見えている壁が゛大練塀゛です

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 ゛大練塀゛から入りたくなってしまい 一礼をして塀をくぐります

西宮神社(西宮市社家町)に参着

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 中に入ると 広く整備された境内です

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 その少し先まで行けば゛東門゛がありました

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 更に南には゛表大門゛がありました

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 表大門゛を入った所には 境内社 児社(このしゃ)があり お参りをします

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 どうやら 表参道に出ました

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 参道の左手には廣田神社境外摂社南宮神社゛があり お参りをします

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 注連縄柱があります 一礼をしてくぐり抜け 参道を進みます

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 左手に゛神馬舎゛があり お参りをします

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 左手に゛祈祷殿゛があり 参道には鳥居が建ちます
一礼をして 鳥居をくぐり抜けます

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 参道の正面には゛社務所゛があり 右手には゛手水舎゛があり 清めます

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 ここで 参道は大きく左に折れています これならば正中を歩むことはありません 古い神社では こうした折れ参道が良くあります

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 拝殿にすすみます

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 拝殿前には 青銅製の狛犬と神馬

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 拝殿の変化セクには゛西宮神社゛

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 賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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 拝殿の奥には 幣殿 三殿の本殿が祀られています

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本殿の向かって左手の境内には 向かって左から 境内社 大國主西神社 六甲山神社 百太夫神社 火産靈神社があり お参りをします

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南西側の境内には 境内社 神明神社 松尾神社があり お参りをします

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拝殿の正面には゛神池゛と゛瑞寶橋゛が架かります

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橋を渡り浮島には 境内社 宇賀魂神社があり お参りをします

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もう一つ浮島があり 橋が架かります

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こちらの浮島には 境内社 市杵島神社があり お参りをします

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神池石垣の寄附碑 と 石垣

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浮島から拝殿前に戻ります

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社殿に一礼をして 参道を戻り 鳥居を抜けて 西宮駅への近道を通ると

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境内社 庭津火神社があり お参りをします

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

 『摂津名所図會(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承

 延喜式に載る大國主西神社〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉でありと記しています

 【抜粋意訳】

西宮の沖 沖荒夷の図

大國主西神社(おおくにぬしにしのじんじゃ)

 西宮市夷町にあり 西宮太神宮と称す 延喜式曰 鍬靫 莵原郡に載る
・・・・
・・・・

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮村の西ノ宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記し
西宮とは「廣田社の西にたせれば西宮と称なる」と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)

 〇今在 西宮村
〇廣田社の西にたせれば西宮と称なるへし 今 西ノ宮と云、
神司 高橋村成説
〔古事記〕

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

 『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西神社(鍬靫)

 大國主西は 淤保久爾奴志乃邇志と訓べし
〇祭神 蛭兒尊

〇今武庫郡戸田荘西宮村に在す、今西宮と称す

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

 『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉又 夷宮・戎三郎宮とも呼ぶ と記しています

【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシノニシノ)神社(鍬靫)

 又、夷宮と云ひ、戎三郎宮と云、即 廣田の末社也、
今 武庫郡 西宮村に在り、廣田社の西なるを以て、又之を西宮と云、

 醍醐天皇 延喜の制、祈年祭鍬靫を加奉りき、延喜式
後鳥羽天皇 建久五年七月甲戌、夷宮鳴動の怪あるを以て、幣を廣田社に奉り、
土御門天皇 元久元年八月甲辰、神社を改造て、遷宮を行ふ、
毎年正月十日斎居祭を修む、
凡斎敬て響音を停る事尤厳也、摂津志

奥の夷宮 舊村西濱南に在り、故に南宮と云ひ、沖荒夷と云、
今本社域内に在り、
合せて戎三郎両社と云、

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮町縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)

祭神
祭日

 社格 懸社(明細帳に縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社とあり

 所在 西宮町属武庫郡(武庫郡西宮町縣社西宮神社境内)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

 『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

 西宮神社(西宮市社家町)について 西ノ宮蛭子として有名であり 本社が式内社の大國主西神社(鍬靫)である と記しています

 【抜粋意訳】

〇兵庫縣 摂津國武庫郡西宮町

 縣社 西宮(ニシノミヤノ)神社

 祭神
西宮大神(ニシノミヤシオホカミ)天照皇大神(アマテラススメオホカミ)
大國主神(オホクニヌシノカミ) 須佐男之命(スサノヲノミコト)

 創立年代詳ならず、
延喜の制、式内小社に列せらる、即ち延喜式に、播磨国菟原郡小大国主西神社(鍬靫)と見ゆる神社是なり、
本社は廣田社の西に鎮座するが故に西宮と称せりと(神名帳考証)
 土俗 夷宮と称し、中世以降 福徳の神として一般の崇敬盛なり、殊に商家の尊崇厚し、
慶長年、豊臣秀頼社殿を再興し、寛文年、徳川家綱再建す、
明治十一月縣社に列す、
和漢三才播磨名所巡覧絵図に云く、正月十日、村民自九日朝、至夜開戸不出入、謂之居寵、亦一異也、」と
社殿は本殿、拝殿、神饌所、宝蔵、絵馬所、権殿、神輿舎、神馬含、神饌所、及詰所を備へ、境内地は9114坪(官有地第一種)あり、本社は西ノ宮蛭子とて其名高く、賽者常に絶えずして、二月初子の如きは、京坂其他の地より群集参詣雑踏踏を極む。

 境内神社
大國主西神(オホクニヌシニシノ)神社
百大夫神(ヒャクタフノ)神社
六甲山(ロクカフサン)神社
松尾(マツノヲノ)神社
・・・・
・・・・

 【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

 神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編に記される伝承

 西宮神社 にしのみやじんじゃ

 兵庫県西宮市社家町。
旧県社(現、別表神社)。
西宮大神(にしのみやのおおかみ)(蛭子命)を主神に天照大神・大国主大神・須佐之男大神を祀る。当社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また『伊呂波字類抄』を徴しても明らかである。
高倉上皇の奉幣、後奈良天皇の御寄進があるほか、広田神社との神縁により神祇官の長官白川伯王家との関係が深く、常にその参詣を得ていたことは伯家文書にも詳しく記されている。
 中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足・海上安全・商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、現に人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。
 江戸時代に入り、徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造七六平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得たことは著名であり、現在も全国に配布されている。
例祭は九月二二日に行われ、神幸祭が毎年斎行されているが、最も盛大な祭典は一月一〇日の十日戎で、阪神間最大の祭りとして一〇日前後の三日間は境内に賽者が満たされる。
この他、六月一四日に行われるおこしや祭は、当社鎮座の由来を今に伝えるもので、寄神信仰の基本的な姿がここでも見出され、一一月二〇日には誓文祭(全国各地ではえびす講の祭)が行われる
現在の社殿は戦災後昭和三六年に再建されたものであるが、三連春日造の国宝建造物をその通り素木造にて復元された。表大門(桃山時代)、大練塀(室町時代)はともに重文に指定されている。社宝に慶長一五年(一六一○)銘の銅鐘があり市指定文化財となっている(吉井)

『神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編より抜粋

西宮神社(西宮市社家町) (hai)」(90度のお辞儀)

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