国造神社(こくぞうじんじゃ)は 阿蘇神社の本宮ともされ その北方にあるので北宮と云う 第十代 崇神天皇の18年(紀元581)初代 阿蘇国造の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を その御子 惟人命(彦御子神)が勅により 阿蘇国造の神として 御居住の地(現在地)に鎮祭したのが創建と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
国造神社(Kokuzo shrine)
[通称名(Common name)]
北宮さま(きたみやさま)
【鎮座地 (Location) 】
熊本県阿蘇市一の宮町手野2100
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》速瓶玉命(はやみかたまのみこと)〈初代 阿蘇国造〉
雨宮媛命(あまみやひめのみこと)〈速瓶玉命の妃神〉
高橋神(たかはしのかみ)〈速瓶玉命の第二御子〉
火宮神(ひのみやかみ)〈速瓶玉命の第三御子〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・農業の神様
・五穀豊穣の神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
國造神社由緒略記
祭神
阿蘇初代國造 速瓶玉命 外三座由緒
肥後一の宮 阿蘇神社の御土神 健磐龍命の第一の御子で延喜式内社(宮社)に列せられ阿蘇神社と同格に取りあつかわれて来た神社で 阿蘇国土開発と共に庶民に農耕の道を教え畜産に植林にと万幸を与え衆庶を愛撫し仁恵を施された御聖徳と御功業により第十代崇神天皇の朝に阿蘇初代國造と定められ同十八年 阿蘇國造の神としてお祀りされた歴史ある古い神社で現在の御社殿は寛文十二年肥後の藩主細川五代綱利公の御造営なされたものであります。主なる祭典
春祭(祈念祭) 三月二十八日
例祭(おんだ祭)七月二十六日(古式神幸式あり)
秋祭(田実神事)九月二十三日 二十四日現地石碑より
【由 緒 (History)】
由緒
御主神 国造速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は、肥後一ノ宮 阿蘇神社の主神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の第一の御子神にして、延喜の制 式内宮(官社)に列せられて、阿蘇神社と同格の御社であり。父神 健磐龍命の聖業を嗣がれ、阿蘇の開拓に水利にと国土開発の大業をなされ、庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆庶を愛撫し、人徳を施された。
この御聖徳と御功業により、第十代崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同18年(紀元581)御子 惟人命(彦御子神)に勅せられて、阿蘇国造の神として、御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ、茲2071年の歴史ある古いお社であります。
此の間 上歴朝の尊崇はもとより、下万民の敬仰する所で、国司、藩司の崇敬も亦篤く、中世以降に於いても肥後の大守細川氏も阿蘇神社と共に造営に、祭典に、代々藩費を供進せられ、現在の社殿は寛文12年(321)細川五代綱利公の御造営のものである。
古来、農神としての信仰厚く、五穀豊穣に晴を祈り、雨を乞ひ、又害虫消除に頗る霊験新たかであり、近郷近在より其の時折に祈願参拝も多く、近年には阿蘇の古名社として、遠来よりの参拝も沢になりゆき之大神の偉大なる御恩頼を渇仰する故に外ならない。
明治7年10月には県社に列せられた。◎境内社地と神域国立公園阿蘇の外輪山の東北隅なる内壁の幽すいの地にして、数十株の古杉は森々と神寂びて神々しく、別けて「手野の神杉」は、亭々として高く雲表に聳え、社前を流るゝ宮川は、水あくまで清く、後方(北側)は外輪山の連峰を廻らし、前方(南面)は美田開けて遥かに雄大なる阿蘇の五岳を一望に納め、附近には古墳点在して、風致最良く、春、夏、秋、冬夫々の趣あり。
◎神代杉(手野の大杉)この杉は、国造速瓶玉命御手植の神杉と伝えられ、陰、陽の二株あったが、その大なる一株は、文政の頃、火災に罹り、焼失した。(現在は一株であるが、この地方の人々は今でも二本杉と呼んでいる)この杉は特に香気があり、肌は沈木の如くありて、友隆大宮司の時、畏くも桜町天皇の御笏の料として献上され、その後御桃園天皇の御時に、和香木の名を定められ、此の杉を阿蘇香と命じられたと伝えられる。国指定天然記念物(大正13年12月内務省指定)。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
阿蘇国造神社 ASO SHRINE
阿蘇の12神の内、速瓶玉命を始め4柱の神々を祭ってあります。阿蘇神社の本宮ですが、その北方にあるところから北宮ともいわれています。現在の社殿は、寛文12年(1672)細川綱利の造営で、県内でも有数の古い建築物です。境内には幹廻り12m、高さ60m、樹齢2000年以上という大きな杉があり「手野の大杉」ともよばれ、国の天然記念物に指定されています。
現地案内板より
ASO田園空間博物館
国造神社(こくぞうじんじや)
熊本で古い神社の一つで、阿蘇神社の北に位置する為「北宮」とも呼ばれる。 祭神は阿蘇の開拓神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の第1子である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)のほか、雨宮媛命(あまみやひめのみこと)、高橋神(たかはしのかみ)、火宮神(ひのみやかみ)の 4神である。
速瓶玉命は父の健磐龍命とともに阿蘇の開拓につくしたといわれ、牛馬を育て、田畑に水を引き農業を起こしたと伝えられている。このような理由から農業の神様、五穀豊穣の神様としての信仰が厚い。
境内にはこの他、大鯰の霊を祀った「鯰宮」、「手野の大杉」、「白蛇の桧(ひのき)」 などがある。手野集落の清水
国造神社のある手野集落は阿蘇の中でも特に水に恵まれた地域である。
近くには手野の名水や宮川渓谷などがあり、古来より人々の生活を潤わせてきた。集落の中には水が湧いている場所がたくさんあり、住民の生活を豊かにしている。現地案内板より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・門守社《主》櫛磐間戸命,豊磐間戸命
門守社
祭神 櫛磐間戸命,豊磐間戸命
由緒 国造神社の一ノ鳥居、二ノ鳥居、長い参道 そして御神殿の透塀御門を守護する神として此の処に祀られた
別名 蛇の宮とも云う。
祭典 六月十二日現地立札より
・鯰社《主》大鯰の霊
鯰宮
祭神 大鯰の霊
由緒 往古 阿蘇大神 国土草創、阿蘇谷の湖水干拓の時 湖の精と称する大鯰居て涸死す、因てその霊をここに祀つられた
古来より癜瘋肌(ナマズハダ)に祈りて霊験あらたかであると云う。
祭典 三月二十八日
現地立札より
・手水舎〈清冽な湧水〉
・北宮水神社《主》罔象女神
〈手水舎の奥に鎮座〉
・白蛇の桧
白蛇の桧
古くよりこの桧には白蛇が宿り時々姿を現すが、この白蛇を拝んだ(見た)者は運が開けると伝えられている。
この桧は良質目(もく)のある木で、この種のものは育ちにくく、この様に大きくなったものは日本全土で四本しかないと云う。現地立札より
・手野のスギ
手野のスギ 元国指定天然記念物
大正13年12月9日 指定
平成12年9月6日 解除
高さ約48m、幹囲約11m(昭和45年測定)このスギは、ここ国造神社の主祭神速瓶玉命(はやみかたまのみこと)のお手植えの神杉として伝えられ、県下でも最大級の巨木であった。昔は「手野の神杉」、「手野の二本杉(夫婦杉)」といい、2本あったというが、男杉は文政年間(1818~30)に雷火により伐採され、この女杉だけが残っていた。現在、男杉の株痕横に、天保2年(1831)に植えられたという杉がある。これは男杉の古株から生じたヒコバエを植えたものといわれ、「神杉天保二年御郡御目附中村荘右衛門植之」と刻んである植杉碑が建てられている。また、伐採された男杉は香りが高く、その一部を御笏(みしゃく)の材料として仁孝天皇に献上したところ、おほめの言葉をいただいたとも伝えられている。
平成3年の台風19号により地上約11m付近から主幹が折損した。そのため保存を第一として土壌改良等懸命な養生作業を行ったがやむなく枯死してしまった。残念ながら国の指定は解除となったが、地元にて「手野の大杉保存事業期成会」を立ち上げ、折れ残った地上2.5mから7mを切断し、上屋をかけ平成14年に現在の姿となった。元国指定にふさわしく堂々とした貫禄の杉で、神の鎮まる神域を感じさせる。
平成17年11月 阿蘇市教育委員会現地案内板より
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・手野金刀比羅神社《主》大物主神,崇徳天皇
手野金刀比羅神社
祭神
金刀比羅大明神(大物主神・崇徳天皇)由緒
阿蘇大宮司(時代不詳)の夢に金刀比羅大神を手野の宮川の川上に鎮斉の御告ありたるにより此の地に祀られたと伝えられ阿蘇大宮司家の守護神として斉祀せられ国造神社の末社として地方民の信仰も大きい祭典
春祭(旧暦3月10日)
秋祭(旧暦10月10日)現地立札より
・手野風宮神社《主》志那都比古命,志那都比売命
・(土井)菅原神社《主》菅原道真公
・石神社
・(屋敷)神明神社《主》天照大神
・年神社《主》大年神
・(三城)菅原神社《主》菅原道真公,水神
・(尾篭)菅原神社《主》菅原道真公
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國造神社(貞)
[ふ り が な ](くにつくり かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunitsukuri kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神12柱の神々 阿蘇十二明神について
阿蘇神社は 肥後國一之宮(ひごのくにいちのみや)
主祭神は 健磐龍命(たけいわたつのみこと)
祭 神は 一宮から十二宮まで12柱(いずれも健磐龍命の一族)
阿蘇神社の起こりは 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が 孝霊天皇の御代に初代阿蘇国造に任ぜられた際 親神を祀ったとされ それ以降 一族の十二柱の神々を祀り 速瓶玉命の子孫が阿蘇氏を名乗り 代々宮司を務めている(現在で91代目を超える日本屈指の名家)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)は 神武天皇の孫〈神武天皇第二之王子 神八井耳命の第5子〉にあたり 神武天皇76年に神武天皇の命により 阿蘇へ赴き 開拓の神となったとされます
健磐龍命は 山城国宇治の郷から阿蘇に下向し 途中 宮崎で神武天皇の宮跡に神霊を祀り宮崎神宮を創祀したとされ 延岡を経由して 五ヶ瀬川を遡り御嶽山の麓(御岳村)から 馬見原に入り 幣立宮を建立し天津神・国津神を祀り 阿蘇へ入ったと伝わります
阿蘇における健磐龍命(たけいわたつのみこと)の蹴破り伝承
太古 阿蘇のカルデラの内側は 巨大な大湖水で阿蘇火口湖であった 宮崎方面から阿蘇に入った健磐龍命(たけいわたつみのみこと)は 大カルデラ湖を見て この水を抜いて田畑を造り豊穣の地にしようと決めた 外輪山の低いところを蹴破ろうと試みたが 最初に蹴った場所が峠が二つもあって破れず 隣を見事に蹴破って水を抜いた
峠が二つもあって 蹴破れなかった場所が「二重峠(ふたえのとうげ)」
蹴破った際に命が尻もちをつき「立てぬ」と言ったので その地を“立野(たての)”と呼ぶようになったのが地名の由来という
健磐龍命(たけいわたつのみこと)は 阿蘇開拓の主神祭として阿蘇神社に祀られています
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)
蹴破り伝承と阿蘇山 阿蘇神社の位置関係
阿蘇は 世界最大級の規模を誇るカルデラ〈周囲の距離は約128㎞にも及ぶ〉火口原に5万人もの人々が生活する世界に類例のない地域で 現在も活発に活動を続ける中岳は 古くから信仰の対象として崇め 人々も巧みにこの地を開拓し 火山とともに共存してきました
立野(たての)〈蹴破り伝承の地〉
阿蘇の外輪山には 西側に一カ所だけ割れ目があります 蹴破り伝承の地 南阿蘇村の立野(たての)峡谷です 実際に阿蘇カルデラ内の水は 白川となって ここから流れ出て 熊本平野を造っていきました
現在 立野ダム建設中
阿蘇神社(あそじんしゃ)〈蹴破り伝承の祭神を祀る神社〉
阿蘇山の南には 阿蘇神社が鎮座します 神社は横参道〈社殿に対して正面ではない参道〉は 南に真っ直ぐ阿蘇山へ通じていて 阿蘇山そのものを信仰の対象としたのが神社の始まりではないかとの説があります
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)〈阿蘇神社の奥宮〉
実際 阿蘇山頂の火口湯溜まりは 古より「神霊池」とよばれ 阿蘇神のご神体とされてきました
北の御池(噴火口)一の宮 健磐龍命荒魂
中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都比咩命荒魂
南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命神霊
阿蘇山上には 火口を遥拝する拝殿〈阿蘇山上神社〉のみが佇みます 歴史的に麓の阿蘇神社「下宮」対して「上宮」と呼ばれ 古代より火口は国家祈祷の対象でした
・阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
蹴破り伝承の後 湖底に出現した大鯰(オオナマズ)
蹴破り伝承の後 立野火口瀬より疎通し 流れ出た水は白川となって海へ注ぐことになりましたが 水が抜けていくと阿蘇の湖底に大きな鯰(ナマズ)がいるのが分かりました 命はそれを退治し 全ての水を流すことができたと伝わります
国造神社(阿蘇市一の宮町手野)の境内には 鯰(ナマズ)社が祀られています
鯰(ナマズ)社
健磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破り干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分かけて横たわっていた。ミコトが鯰に向かって「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事も出来ぬ」と言われると、鯰は頭をたれてミコトに別れを告げるように去って行ったと伝えられている。
ミコトはその湖の精であった鯰の霊をまつると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。
祭神が鯰の霊ということで、皮膚病ことにナマズハダに霊験があり、今でも全快すると鯰の絵を書いて、神社に奉納する風習が残っている。
一の宮町現地案内板より
蹴破り伝承の後 阿蘇谷に広がる美田
〈阿蘇カルデラを開拓 農耕の道を拓く健磐龍命(たけいわたつのみこと)〉
健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 蹴破った大湖水 阿蘇火口湖〈カルデラ湖〉は 立野火口瀬より疎通し 阿蘇谷の内に美田を開拓され 命が里人に農耕の道を教えられた事は 現在まで 農耕祭事として伝承されています
阿蘇(あそ)の農耕祭事(のうこうさいじ)
国指定重要無形民俗文化財(くにしていじゅうようむけいみんぞくぶんかざい)昭和57年1月14日指定阿蘇神社をはじめ、国造神社や霜神社など阿蘇谷の関係神社には、全国的にも貴重な農耕祭事(農業のお祭り)が、古式のまま伝えられています。
耕作の開始に豊年を祈り、収穫を感謝するまでの御祭りが、農事に合わせて執り行われます。「阿蘇の農耕祭事」は、わが国の農業生活の移り変わりや、人々の信仰をよく表している典型的なお祭りとして評価されています。
さらに 阿蘇の開拓は 国造神社の創建へとつながります
社伝によれば
肥後一ノ宮 阿蘇神社の主神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の第一の御子神 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は 父神〈健磐龍命〉の聖業を継がれて 阿蘇の開拓や水利に国土開発の大業をなされ 庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆庶を愛撫し 人徳を施された
この御聖徳と御功業により 第十代 崇神天皇の朝に 阿蘇初代国造と定められ 同18年(紀元581)御子 惟人命(彦御子神)に勅せられて 阿蘇国造の神として 御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ 茲2071年の歴史ある古いお社であります
・国造神社(阿蘇市一の宮町手野)
国造神社に伝わる 阿蘇の農耕祭事
阿蘇(あそ)の農耕祭事(のうこうさいじ)
国指定重要無形民族文化財 昭和57年1月14日指定
阿蘇市に所在する阿蘇神社(あそじんじゃ)及び国造神社(こくぞうじんじゃ)では、全国的にも貴重な農耕祭事(農業のお祭り)が、古代から途絶えることなく現在も変わらず伝えられています。
四季を通じ、豊年のお祈りから豊作を感謝するまでのお祭りや、風や霜の害を防ぐお祭りが毎年執り行われています。
「阿蘇の農耕祭事」は、農業生活の移り変わりや、人々の信仰の様子を知ることができ、わが国の文化をよく表しているお祭りです。「阿蘇の農耕祭事」国造神社関係
期 日
名 称
場 所
旧1月16日
歌い初め
国造神社
3月28日
春 祭
国造神社
旧4月4日 旧7月4日
風 祭
風宮社
7月26日
御田祭
国造神社
8月 6日
ねむり流し
国造神社
9月23日・24日
田実祭
国造神社
平成18年3月 阿蘇市教育委員会
参道掲示案内板
霜の害を防ぐお祭り 火焚神事(ひたきしんじ)にある 鬼八(きはち)の伝承について
霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央の役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
・霜神社(阿蘇市役犬原)
国造神社 祭神 速瓶玉命とその妃・雨宮媛命の御陵について
國造神社の鳥居の西60mの地点には 祭神の速瓶玉命の御陵とされる上御倉古墳とその妃・雨宮媛命の御陵とされる下御蔵古墳(下御倉古墳)があります
古墳は6世紀後半の横穴式石室をもつ円墳で 有力豪族・阿蘇氏が古墳時代からこの地域を支配していたことがわかります
古墳辺りの高台からは 阿蘇のカルデラ越しに中岳を望めます
県指定史跡 下御倉古墳(しもみくらこふん)(昭和34年12月8日指定)
下御倉古墳は直径約30m、高さ約4.5mの円墳で。内部には複式の横穴式石室があります。北側にある上御倉古墳に比べてやや規模が小さいですが、石室全体の奥行は8.7mあります。古くから土砂が流れ込み、正確な高さは不明です。石室の奥には遺体が葬られた玄室があり、玄室の構造は、奥行2.9m、幅2.47m、高さは約2mです。正面奥壁にそって石屋形が置かれ、この部分に遺体が納められていました。石材は上御倉の場合と同じく阿蘇溶岩を用いていて、大きな石材を利用しているのが特徴です。
上御倉・下御倉古墳は古墳時代後期(6世紀頃)の特徴を示す典型的な石室構造をしており、県内にある横穴式石室を採用した古墳のなかでも比較的規模が大きいものです。
両古墳が作られた時期は、県内最大規模の長目塚古墳を有する中通古墳群に後続する時代で、日本書紀にみえる「阿蘇君 あそのきみ」が「国造 くにのみやつこ」として阿蘇一帯を治めるなかで中通から手野の地へと本拠地を移したと推測されています。
古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である「条里制」に基づいて、いち早く土地が開拓されました。上御倉・下御倉古墳に葬られた人物は、このような阿蘇谷の開拓を指揮した有力は指導者であったと想像できます。現地案内板より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR豊肥本線 宮地駅から北上 約6km 車13分程度
県道11号を阿蘇神社方面に北上して さらに手野地区へと進みます
社頭 鳥居横には駐車場が完備されています
国造神社(阿蘇市一の宮町手野)に参着
社号標と鳥居の扁額には 國造神社とあり 一礼をして鳥居をくぐります
参道は緩やかに上りながら 木立の中を抜けていきます
御神橋が架かり その先の石段の上に鳥居が建ち 社殿が見えています
橋の左手先には 手水舎があり その横から下の小川に降りられるように階段がつくられています もしかすると禊場なのだろうと想います
清冽な湧水が流れ出ていて 想わず飲んでしまう美味しい水 この手水舎で清めます
二の鳥居にも 國造神社の扁額がかかげられます
拝殿にすすみます
拝殿に掲げられた扁額には「北宮」とあり 両脇の扁額には 御祭神4柱が記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿には壁はありません
拝殿の奥には 幣殿 そして本殿が鎮座します
白蛇の桧や 手野の大杉などがあります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
國造本紀には 阿蘓(アソノ)國造は 神八井耳命の子孫 速瓶玉命と記しています
【意訳】
國造本紀
阿蘓(アソノ)國造(クニノミヤツコ)
瑞垣〈崇神〉朝の御世 火の國造の同祖 神八井耳命(カンヤヰミミノミコト)の孫 速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト)を定め賜う國造
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
肥後國 國造神社が官社となったと記しています
【抜粋意訳】
承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉の条
修造
攝津國 大依羅社
肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の三社〈・健磐龍命神社・阿蘇比咩神社・國造神社〉の所在について 阿蘇神社の同所に祀られていると記しています
【抜粋意訳】
國造神社
國造は久爾乃美夜都古と訓べし
〇祭神 速瓶玉命 社家注進
〇同前社地に在す 同上続日本後紀 承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉
前件三社の三社の鎮座の図
玉勝間に、肥後國 阿蘇山は、麓より三里のぼりて、山上に大なる池ありて、常に湯わきあかりて玉をちらし、いみじく火のもゆるを、其火のもゆること熾なる時には、石をとばして池のほとりにちかづきがたし、神社は、山の下なる宮地村といふにたたせ給へり、中略
一の宮は健磐龍命の神社、二の宮は阿蘇比咩の神社、國造神社は速瓶玉命、金凝神社は綏靖天皇におはします也 中略
また金凝神社を、綏靖天皇と申すも、神八井耳命を誤れるなるべしと云り
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の國造神社 の所在について 手野村であると記しています
【抜粋意訳】
國造神社
祭神 速瓶玉命
官社 仁明天皇 承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉祭日 六月二十四日
社格 縣社
所在 手野村(阿蘇郡古城村大字手野)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
式内社 國造神社の所在について 手野村としているが「神社覈録、神祇志料等の書、共に同郡 宮地村 阿蘇神宮の三宮なりとなす、なほ後考を俟つべし」と記しています
【抜粋意訳】
○熊本縣肥後國阿蘇郡古城村大字手野
縣社 國造(クニノミヤツコ)神社
祭神 國造速瓶玉(クニノミヤツコ ハヤミカタマノミコトノ)命
相殿 雨宮媛(アメノミヤヒメノ)命
髙橋(タカハシノ)神
火宮(ホノミヤノ)神速瓶玉命は 健磐龍命の子にして、阿蘇国造なり、国造本紀に「阿蘓國造 瑞垣〈崇神〉朝の御世 火の國造の同祖 神八井耳命(カンヤヰミミノミコト)の孫 速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト)を定め賜う國造」とあり、景行天皇十八年、勅して社殿を造営し、速瓶玉命を祭らしめ給ふ(社伝)延喜の制 式内小社に列す
続日本後紀に「承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉」
土俗 北宮と称す、宮地村なる阿蘇神宮の北に当るを以てなり(肥後國志、陳述志、地名辞書)
明治五年縣社に列す、社殿は本殿、祓殿、拝殿、社務所を具備し、境地二千四百十七坪あり、境内に陰陽杉と称る老杉二株あり、一株は周囲十三抱、一株は十一抱に及び、轟々として天に聳ゆ、凡そ九百年に及べりといふ(大宰管内志、肥後國志)、
又この地は、速瓶玉命の石隠れし給ふ處なりとて、御穴の故蹟あり、土俗 御蔵穴と称す、上下の二あり、外形は円形の小丘にして上に竹藪繁茂せり、穴の口は西南に開きて、形竃の口の如く、五間程入れば、高さ九尺、上下左右 石を以て畳む、奥に幅二間、高さ八尺餘の切石あり、之を障子石といふ、その前に幅三尺、長さ七尺、高さ三尺の石棺あり、下御蔵の穴は、埋もれて入ることを得ず、弘化元年 手野の里長某が、字古城といふ岡山を開墾せし時、岩穴三つに開き当れり、この穴の中より直刀、短刀、鏃、轡、玉、土器等種々の古器を得たり、骸骨とおぼしきものありしも、朽ちてさだかならずといふ
附言、式内 國造神社に就ては、神社覈録、神祇志料等の書、共に同郡 宮地村 阿蘇神宮の三宮なりとなす、なほ後考を俟つべし。
境内神社
鯰(ナマズノ)神社
闇神(クラオカミノ)社
水(ミクマリノ)神社例祭日 七月二六日
会計法適用指定年月日 明治四十一年九月二十九日 県令第十二号
神饌幣帛料供進指定年月日 明治四十年二月十六日県令第七号
氏子戸数 百九十戸
崇敬者数 二百二十人
【原文参照】
国造神社(阿蘇市一の宮町手野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)