北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は 第12代 景行天皇40年(110)日本武尊が東征の時 当地御通過に際し「大塚丘(おおつかおか)」に富士の神霊を拝されたのが創祀 その後 延暦7年(788)甲斐守 紀豊庭が現地に社殿を建立しました 例大祭 吉田の火祭(よしだのひまつり)は日本三奇祭のひとつとされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
北口本宮冨士浅間神社(Kitaguchihongu Fujisengen shrine)
[通称名(Common name)]
上浅間(かみせんげん)
【鎮座地 (Location) 】
山梨県富士吉田市上吉田5558
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
彦火瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)
大山衹命(おほやまつみのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・冨士火山鎮護の神・火防の神・安産授育の神・産業の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・富士山 世界文化遺産 構成資産
・旧 縣社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
北口本宮 冨士浅間神社
御祭神
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
天津彦々火瓊々杵命(あまつひこひこほのににぎのみこと)
大山衹命(おほやまつみのみこと)御由緒
日本武尊當地御通過に際り親しく富士の霊峰を御遥拝になった。その由縁を以て祠宇を創建その蹟を大塚丘という。後延暦七年(1200年前)甲斐守紀豊庭現地に社殿を建立、現在の本殿は元和元年(373年前)鳥居土佐守造営、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、神門等は江戸小伝馬町の人、村上光清師の首倡に因り享保十八年起工し、元文三年(250年前)に総て竣成された。
大正十三年保存会に依って各所修造、屋根は銅版に葺替、本殿は桃山建造物の首位なりとして昭和二十八年三月国重要文化財に指定さる。御神徳
戸無き八尋殿の猛火の中にて皇子を挙げ給う。瓊々杵命詔り給はく「汝くしびにあやしき威さあり子等復ひとにすぐれたるいきほひ有る・・・云々」即ち冨士火山鎮護の神、火防の神、安産授育の神、又産業の神として汎く世に尊崇され給う。雑 載
富士登山のともがらは、本神社参拝の後に登ること往古より変わらぬ例とす。祭 日
例 祭(初申祭)五月五日
鎮火祭(日本三奇祭 吉田の火祭)八月二十六日 二十七日
寒申祭(一月寒入り初の申)申の日
節分祭(追 儺 祭)節分の日
開山祭(お山びらき)七月一日
閉山祭(お山じまい)九月十日
「昭和六十三年誌」現地案内板より
【由 緒 (History)】
北口本宮 冨士浅間神社
鎮座地 山梨県富士吉田市上吉田五五五八番地
祭 神 木花開那姫命 彦火瓊々杵尊 大山祗神
祭 日 例大祭五月五日 鎮火祭八月二十六~二十七日 祈年祭二月十七日
新嘗祭十一月二十三日 開山前夜祭並夏越大祓式六月三十日由 緒 景行天皇四〇年(西暦一一〇)日本武尊東征の砌、当地御通過に際し「大塚丘」に於て富士の神霊を拝され、大鳥居を建てしめ、子方ひろし冨士の神山は北方より拝すべし・・・と詔(みことのり)して曰く、因りて丘上に小祠を営み、浅間大神を勧請し日本武尊も合わせ祀る。延暦七年(七八八)甲斐守紀豊庭、丘北に地を卜し現在地に社殿を構える。以後、甲斐守藤原氏、北条義時公、武田信玄公、浅野氏重氏、谷村城主鳥居氏逐次造営、享保一八年(一七三三)富士道者 村上光清師造営現在の規模となる。
神社配布紙より
由緒
浅間さま、正しくは北口本宮冨士浅間神社という。
今から1880年ほど前 景行天皇四〇年日本武尊が東征のおり、当地御通過、親しく大塚丘に立って富士山の神霊を遥拝され大鳥居を建て、御山は北方より拝せよと祠を建ててまつったのが、始まりといわれている。
延暦7年(788)甲斐守紀豊庭が現在の位置に神殿を建て、浅間大神をまつり、日本武尊の霊を大塚丘にまつった。
本殿は元和元年(1615)谷村城主、鳥居土佐守成次が再建し、さらに貞享5年(1688)、城主秋元富朝、喬知父子が社殿を造修した。
享保18年(1733)江戸の村上光清が浄財を集めて、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門を造営している。
本社殿は桃山時代の高壮な建築物として、昭和28年三月重要文化財に指定される。樹齢900年の杉、桧林のうっ蒼とした境内は幽寂に満ちてすがすがしい。山道には100基に余る石灯篭が苔むして両側に並び、極めて壮厳である。神社の境内は85800平方米あり、県内最大である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・諏訪神社《主》建御名方神 八坂刀売神
北口本宮冨士浅間神社 摂社「諏訪神社」
祭神 建御名方神 たけみなかたのかみ
八坂刀売神 やさかとめのかみ例祭 「鎮火祭」八月二十六・二十七日
由緒 勧請年代は不詳であるがくから当社一帯の森を「諏訪の森」と呼ぶことや『甲斐國志』巻之七十一神社部第十七上〔諏方明神〕の記述からも相当の古社であることが伺える。元々は当地域の氏神であったが明治維新の際に北口本宮の摂社となる。例祭である「鎮火祭」は日本三奇祭の一つに数えられる「吉田の火祭り」のことで、勇壮な神輿の渡御や高さ三メートルにも及ぶ大松明八十本余の焚き上げ等、例年大勢の参詣者で賑わう。
・下諏訪社《主》事代主神
・子安社 《主》伊弉諾神 伊弉冊神
・東宮本殿《主》彦火火出見尊
重要文化財
北口本宮冨士浅間神社 東宮本殿
明治四十年八月二十八日(旧国宝)指定
鎮座地 富士吉田市上吉田五五五八祭 神 天津日高彦火火出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)、冨士権現とも呼ばれた。貞応二年(1223)北條義時の創建とも伝えられるが、現社殿は永禄四年(1561)武田信玄が川中島合戦の戦勝祈願して浅間本社として造営したものである。
その後文禄三年(1594)に浅野氏重、元和元年(1615)に鳥居成次が修理し、さらに、慶安二年(1649)と延宝六年(1678)に秋元氏、享保十九年(1734)には村上光清による修理が加えられた。
本殿は身舎梁間(はりま)一間、桁行(けたゆき)一間で全面に一間の向拝(こうはい)をつける一間社流造(いつけんしゃながれづくり)の形式である。柱は床下部八角の丸柱を用い、高欄を回した縁と登高欄(のぼりこうらん)付五段の階を持つ。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で身舎からそのまま向拝まで延び破風には鏑懸魚(かぶらげぎょう)をつける。この様式は向拝頭貫(かしらぬき)の蟇股(かえるまた)の彫刻とともに室町時代の手法を残すものである。外観の要所に施した装飾には桃山時代の影響が見られる。向拝柱にある金具の卍は村上講社の講印であり、藤の紋章は村上家の紋であるので、光清修理の時付けられたものであろう。
昭和二十七年(1952)解体修理を行なった。
平成十二年三月 山梨県教育委員会 富士吉田市教育委員会現地案内板より
・東宮本殿のすぐ脇 神武天皇社《主》神倭磐余彦天皇
・西宮本殿《主》天照大神
重要文化財
北口本宮冨士浅間神社 西宮本殿
昭和二十八年三月三十一日指定
鎮座地 富士吉田市上吉田五五五八祭 神 天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受(とようけ)大神、琴平(ことひら)大神、文禄三年(1594)谷村城主 浅野左衛門佐氏重(あさのさえもんのすけうじしげ)により東宮に替わる本殿として建立されたが、元和元年(1615)鳥居成次(とりいなりつぐ)の本殿建立により現在地に移され西の宮となった。その後享保十九年(1734)村上光清(むらかみこうせい)により大修復が行なわれた。
全体の形式は東宮と同じ一間社流造(いつけんしゃながれづくり)であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝(こうはい)をつける。身舎全面と側面には刎(はね)高欄(こうらん)付きの縁を回し、全面には登高欄付の七段の階をもうけている。身舎は床下八角の丸柱、向拝は面取りの角柱で頭貫中央に蟇股(かえるまた)を置き、木鼻には獅子と獏(ばく)の彫刻を置く。蟇股、木鼻には極彩色が施され、細部に渡って装飾、飾り金具が用いられているが、向拝柱の飾り金具には村上光清の紋である卍と藤の紋がつけられているので光清修復の時のものであろう。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、二重軒(ふたのき)付で破風に鏑懸魚(かぶらげぎょ)をつけている。全体に華麗な桃山前期の建築意匠を伝え、荘厳な本殿建築に向っての流れを感じさせるものである。
昭和三十九年(1964)解体修理を行った。
平成十二年三月 山梨県教育委員会 富士吉田市教育委員会現地案内板より
・恵毘寿社《主》大国主神,事代主神
本殿西側の境内社〈順路通り 向かって左から〉
・日之御子神社《主》日之御子大神
・地鯉鮒社《主》少彦名命
・倭四柱社《主》荷田東麿 賀茂真渕 本居宣長 平田篤胤
・日枝社《主》大山咋命
・日隆社《主》高皇産霊神
・愛宕社《主》火結神
・天津神社《主》八百万神
・國津神社《主》一千五百万神
・天満社《主》菅原道真公
・夫婦檜と神馬舎
諏訪神社手前向かって左の境内社
・三殿社《主》火迦遇突智命 市杵島姫命 大名持命 少彦名命
・三神社《主》速須佐之男命 天児屋根命 徳川家康公
・風神社《主》級長津彦神 級長津姫神
・福地八幡社《主》誉田別命
重要文化財 福地八幡社
平成二十九年十一月二十八日指定
福地八幡社は、古くは「古吉田」の地にあった氏神と伝えられる。貞享元年(1684)に建立、元文五年(1740)に村上光清(むらかみこうせい)を中心とした富士講中が、その古材の一部を用いて再建した経緯をもち、建築技法的にも両期の要素を併せもつ。元文期の再建は、その規模や構造の類似から東宮本殿を模範にしたと考えられる。身舎の頭貫木鼻(かしらぬききばな)、向拝の獅子鼻、獏鼻は貞享期までさかのぼる可能性があるが、向拝や妻側に施される絵様の多くは、元文期のものである。神社境内の建物様式の変遷を伝える貴重な社である。
祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
構造形式 一間社流造 銅板葺
附 棟札2枚 貞享元年8月 元文五年3月現地案内板より
・稲荷社《主》宇迦魂神
・青麻社《主》天太玉命
・祖霊社《主》藤原角行 村上光清 伊藤身禄
・随神門《主》豊磐間戸神,櫛磐間戸神
・手水舎
水舎高札
此の水は、此処から東南一、六キロヘだった富士の裾野に湧き出る泉瑞と称される霊水を伏樋でひいたもので往古から當神社の御供水として用いられ、夜増の水といわれる飲料水です。
伝えに、昔右大将 源頼朝が富士野巻狩をされた時、裾野十数里の間、飲むべき清水なく士卒渇に苦しんだので、公は富士の山神に祈り鞭をあげて巌を掘った処、麗水浪々として湧出したという。これはこの水であり、清く澄み冷たいこと正に天下無類といわれております。
水盤(縦一九三糎 横二八三糎 高さ一一〇糎)は一箇石であり、御水舎(江戸時代中期 延亨三年 約一一四五年前)、は四石柱支えによる雄大壮重比類稀な建築だと称せられています。
現地立札より
・神楽殿
北口本宮冨士浅間神社 太々神楽
山梨県指定無形民俗文化財 平成四年六月二十二日指定
特色
この神楽は戦国時代にはすでに奉納されていたことが古文書等に記されている。現在の形態が確立したのは江戸時代に入ってからと伝えられ、採物舞(とりものまい)を含む出雲流の神楽であり、富士太々神楽(ふじだいだいかぐら)と称せられている。富士山の神霊に五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願い、感謝する舞といわれ、また富士導者によって奉納されている神楽でもある。形態
素面の採物舞と面の舞に大別され、素面四舞、有面八舞である。
面の男舞は、大地を踏み鎮めるため動き廻って舞う「反閇(はんぱい)」と、途中から早いテンポに変わる「散らし」の舞から構成されている。
囃子は大太鼓、締太鼓、横笛である。すべて一人舞であり、次の十二舞で構成されている。舞の数
一、榊(さかき)の舞 二、神巫(みこ)の舞 三、四方拝の舞
四、猿田彦の神の舞 五、鈿女の神の舞 六、手力男の神の舞
七、天照皇大神の舞 八、綿津美の神の舞 九、稲荷大神の舞
十、片剣の舞 十一、両剣の舞 十二、蟇目(ひきめ)の舞奉納日
二月三日「節分祭」、二月十七日「祈年祭」、五月五日「初申祭」
六日三十日、七月一日「富士山山開き」.八月二十六日、二十七日「吉田の火祭」、十一月二十三日「新嘗(にいなめ)祭」等継承者 太々神楽講講長 水野態雄他十二名 平成六年九月
山梨県教育委員会 富士吉田市教育委員会
現地案内板より
・大スギ
山梨県指定天然記念物
北口本宮冨士浅間神社の大スギ昭和三十三年六月十九日指定
所在地 富士吉田市上吉田五五五八番地
所有者 北口本宮冨士浅間神社本樹は樹齢千年くらいと言い伝えられている。根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような樹形は、ご神木の名に恥じない荘厳さがあり本殿を見守るかのようである。「富士太郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。南側附近の損傷部分は、昭和三十四年八月の七号台風により被害を受けたものである。
山梨県を代表するスギの巨樹として、山梨県の天然記念物の第一号に指定された。
大きさは次の通りである。
1、露出根張り 21,0m
2、幹根境の周囲 12,7m
3、目通り幹囲 8,2m
4、樹高 30、0m
5、枝張り 東西12,8m 南北14,7m平成十一年三月 山梨県教育委員会 富士吉田市教育委員会
現地案内板より
・社務所
・大鳥居
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
北口本宮冨士浅間神社 起源の地「大塚丘(おおつかおか)」について
・大塚丘《主》日本武尊
〈北口本宮冨士浅間神社 起源の地〉北口本宮の西南350m 徒歩5分
大塚丘(おおつかおか)
北口本宮冨士浅間神社の社記によると人皇十二代 景行天皇の皇子 日本武尊 東征のおり、相模の国(神奈川県)足柄坂本から越えて 甲斐の国(山梨県)に入り酒折の宮に行かれる途中 この丘に登り富士の霊峯を遥拝したところと伝えられている。
このことを知る里人は丘上に社殿を建て浅間大神を祀り日本武尊を合祀した。
その後 延暦七年(788)甲斐守紀豊が丘の北東に社殿を創立し浅間大神を遷座(せんざ)させたのが今の北口本宮冨士浅間神社のはじめであり、丘上には日本武尊が祀られている。
昭和五十一年十二月 富士吉田市教育委員会現地立札より
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
吉田の火祭(よしだのひまつり)について
北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)諏訪神社の両社による例大祭で 日本三奇祭のひとつとされます
火祭りは その名の通り 上吉田の金鳥居(かなどりい)から北口本宮冨士浅間神社にかけた本町通りの沿道〈約1キロ〉におよび 大松明〈高さ約3メートル〉が70~80本余り燃やされる 各家ごとには 井桁状に組まれた多数の松明も作られ燃やされる 火の海と化した上吉田の町は 富士山の噴火の再現のようです
火祭りが無ければ 上吉田の金鳥居(かなどりい)から北口本宮冨士浅間神社にかけた本町通りの沿道〈約1キロ〉は 普段はこんな感じです
祭日は かつては旧暦7月21日22日 明治期に新暦8月21日~22日に改め
大正初期に 現在の8月26日・27日の両日に改められた
富士のお山と一体となった壮大な火祭りの神輿は2台
この神輿のうち 一台は摂社 諏訪神社に祀られている 富士山をかたどった「御影(みかげ)」と呼ばれる神輿です
この神輿は かつて富士山が女人禁制だったことから 今でも男性しか担ぐことが許されないと云います
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
富士急行線 富士山駅から 上吉田の金鳥居(かなどりい)をくぐり R137号〈本町通り〉を南下約1.9kmで社頭に出ます
北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市上吉田)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 杉木立に囲まれた石燈籠の並ぶ参道を進むと 木造日本最大 冨士山大鳥居が建ちます
この時は 冨士山大鳥居は式年大修理の最中でしたので 迂回して隋神門の横に出ます
参拝路に沿って境内へ進みます
神楽殿の前に進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 境内に戻ります
杉並木の参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
○山梨駆甲斐國南都留郡福地村大字上吉田
縣社 富士淺間(フジアサマノ)神社
祭神 木花之佐久夜毘賣(コノハナサクヤビメノ)命
配祀 天孫瓊瓊杵(テンソンニニギノ)尊
大山祇(オホヤマツミノ)命社記に據るに「景行天皇御字四十年康戌の歳、皇子日本武尊東征而還上座時、相模国足柄坂本に至り、越えて甲斐に出で、酒折宮に座す、途次 大塚丘に登座而、富士山麓を遥拝被為在し時、里民仰を奉じて大鳥居を建立し、同天皇五十年康申四月土民丘上に小祠を創立して、淺間大神を勧請し、日本武尊を合祀す、故に庚申年を大縁年とし、毎申年を小縁年とし、毎申日を縁日とし、四月上申日を例祭日となす、」云々とあり、
延暦七年甲斐守紀豊庭地を丘北に卜し社殿を造営して、淺間大神を遷座し奉れり、現今の本社是なり、丘上に日本武尊を祀り、大塚神社と称へ奉る、(古歌に曰く、東路の蝦夷を征し二の皇子の稜威に開く富士の北口)
降て仁和三年丁未甲斐守藤原當興、貞慶二年癸未北條左京大夫平義時 各社殿を造営せり、文明十二年三月大鳥居創立せらる。後 明應九年庚申年再建す、以来六十年を経る毎に、建替の式年と定め、寛文六丙午年秋元氏改建、貞享五戊辰年五月加修し、現今のものは明治二十二年起工し同二十六年に落成、その高五丈八尺餘明き三丈五尺、額に「三國第一山」と銘す、竹田宮良怒法親王の筆蹟にして、寛永十三年秋元但馬守の寄附とす、其の後武田氏世々崇敬厚くして、・・・・・・境内は富士山の北麓に在りて一に北口本宮と称す、富嶽登山の門口にして、北口或いは吉田口と云ふ、地域は・・・・・・
明治四十三年四月に至り、社号 富士嶽神社を現社号に改称せり、
祭典、例祭は五月五日、山開祭は同七月朔日なり、
而して有名なる火祭り、即ち神幸火祭は毎年八月二十一、二両日(明治四十二年迄は陰暦七月二十一 二日)にして、當社 及 摂社諏訪神社(旧社名 建岡神社)両社の祭典なり、故に神輿は富士御影並列して渡御し、二十一日午後出御、御旅所に着御一泊、同夜 鎮火祭を執行す、因て驛中毎戸薪を竹の子形に結び、長さ丈餘、根の周囲七八尺とし、大小其分に応じ之に火を点じて篝火とす、その火徹夜消失せず、炎焔天を焦がして恰も不夜城の如し、一望すれば猛然火災の時の如く、頗る危険の様なれども、往昔より之れが為に災害を発生せし事なしと云ふ、此の日遠近より賽する者多く、驛中雑踏を極む、・・・・・
【原文参照】
北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市上吉田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)