香春神社(かわらじんじゃ)は 元々は香春岳(かわらだけ)の三つの峯(第一峰・第二峰・第三峰)の山頂に〈・辛国息長大姫大目神・忍骨神・豊比咩神〉の三神を奉祀したのが創始 三座は三つの山頂から遷座されて 和銅2年(709)゛新宮゛と称し『延喜式神名帳〈927年〉』所載の豊前國 田川郡の三座〈・辛国息長大姫大目神社・忍骨神社・豊比咩神社〉となり現在に至ります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
香春神社(Kawara shrine)
【通称名(Common name)】
香春神(かはらしん)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県田川郡香春町大字香春733
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほじのみこと)
忍骨命(おしほねのみこと)
豊比賣命(とよひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
福岡縣田川郡香春町鎮座
縣社 香春神社御由緒(略)
一、祭神及ビ創立
第一座 辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオジノミコト)
神代ニ唐ノ経営渡ラセ給ヒ
崇神天皇ノ御代ニ御帰国
香春一ノ岳ニ鎮リ給フ第二座 忍骨命(オシボネノミコト)
天照大神ノ第一皇子ニシテ
二ノ岳ニ鎮リ給フ第三座 豊比賣命(トヨヒメノミコト)
神武天皇ノ外祖母住吉大明神ノ御母ニシテ
三ノ岳ニ鎮リ給フ当神社ハ前記三柱ノ神ヲ奉斎セル神社ニシテ遠ク
崇神天皇ノ御宇ニ創立セラレ、各神霊ヲ 香春岳上頂三ヶ所ニ奉祀セシガ 元明天皇ノ和銅二年ニ 一ノ岳南麓ニ一社ヲ築キ三神ヲ合祀シ 香春宮ト尊称セラル、延喜式神名帳ニ在ル、豊前一ノ宮六座ノ内ノ三座ナリ
明治四年九月郷社ニ列セラレ、香春神社ト改称
明治六年七月十五日県社ニ列セラレ今日ニ至ル
香春神社社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
祭神及創立
一、祭神及創立
第一座~辛国息長大姫大目命。第二座~忍骨命。第三座~豊比売命。
当神社は前記三柱の神を奉斎せる宮祠にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、各神霊を香春岳上頂三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年に、一之岳の南麓に一社を築き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる。延喜式神名帳に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。二、祭神の御身分
第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎭座し、香春三所大明神と称し崇め奉りしなり。三、御神徳
本神社御祭神の御神徳は、続日本後紀に記述せる、太宰府言上に明かにして、皇室、国司、郡司、百姓の崇敬、宇佐神宮と相並びて、偉大なりしを觀れば、御神徳の鴻大なる、茲に人為を以て云為すべきに非ず。四、神階
仁明天皇承和10年3月3日辛国息長大姫大目命、忍骨命を共に、正一位に叙し賜ふと神位宣解にあり。土御門天皇建仁元年豊比売命に正二位を奉まつらる。五、朝廷の御尊崇
御冷泉天皇、永承年中、宣旨を以て、当神社造営遷宮儀式を勅定せられたりしが、順徳天皇建暦2年8月21日宣旨を以て、当神社は、聖朝鎭護無双の霊神なれば、公家に沙汰をなし33年毎に一度造営すべきを勅命せらる、後ち後嵯峨天皇寛元元年10月8日宣旨を以て、再び、当社造営は、朝家の経営当国の課役となすものなりと、勅し給ふ。之れにより是を見れば、当神社は、歴代皇室の御尊崇の厚かりしは、聊かも疑ふ可からざる事實なりとす。六、武家国司の尊崇
前述の後嵯峨天皇寛元元年10月の御宣旨と共に、關東御教書を下して、当社は垂跡年舊く、霊験日に新たなり。恒例不退の禮奠、皆是れ聖朝安穏の懇祈なり、若し、上代の嘉跡に背き、造営を致さざるは宣慮恐れ有云々。其後弘長2年4月18日關東御下知あり、重ねて文永6年3月23日關東御下知を以て、当神社の御造営の儀に就いて沙汰せられたり、尚、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀には、必ず国司代を参向せしめ、神事に随従し傳供を備ふ、其の崇敬宇佐神宮と共に、外に其の例なかりき。◎明治4年9月郷社に列せられ、同時に香春神社と改称し、同6年7月15日縣社に列せられ今日に至る。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
香春神社(有形文化財)
創建及び沿革
和銅二年(709)、一の岳南麓に一社を建立し、三神を合祀したのが起こりとされ、延喜七年(903)、延喜式神名帳に「田川郡三座」「香春社」として名前があげられる。戦国期、豊臣秀吉九州平定につき社領没収等により神社衰退、小笠原藩によって再興し、明治四年『香春神社』と改称。同六年『県社』に定められ現在に至る。建築物として鳥居や手洗盤などは江戸初期であるが本殿以下は文化・文政の頃に建て替えが行われ今に至っている。ただし、西側回廊については損傷激しく平成に入り改築されている。
平成二十五年九月二十六日 指定
名称 香春神社本殿・拝殿・東廻廊・石垣
員数 三棟、石垣本殿
総欅造身舎の各柱に絵様頭貫木鼻を付ける。
この手法が文化年間建立の神社建築であり、紅梁の絵様や本かえるまたの形式などから文化年間の建立と思われる。なお妻大瓶来結錦の房を束ねた形式から大内文化の特色の一つらしい。拝殿
紅梁や木鼻の絵様、蟇股の形式などから十九世紀中頃であろう、幅10m、奥行約6m東回廊
東・西回廊ともに基本的には同形式である。正面八間、折れ曲がり側面七間、梁間二間、入母屋造、文化から文政の頃の建立。石垣
文化元年(1804)寅 九月建設、石垣師は英彦山修験者による。現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・廻廊
〈本殿の向かって左〉
・納神社
※明治34年(1901)香春岳 一ノ岳の山頂に建立
昭和34年(1959)3月3日現地に遷座
〈社殿向かって左手前境内〉
石祠三宇 向かって右から
・蛭子社《主》事代主命・諏訪社《主》建御名方神・天福社《主》天福神
〈社殿向かって右手前〉
・白八稲荷大明神《主》宇迦之御魂神・山王石
神の宿る 山王石
昭和十四年六月三十日、午後三時
かつてその威容と峻厳なる姿から神秘の御岳と呼ばれ、古くから畏敬の念を持って人々に親しまれた眼前の香春岳一の岳山頂より、轟音と共に降って沸いた如く巨大石が落下し、静かに当時そのままの雄姿で現在地に鎮座しています。
香春神社神殿は直撃は免れ、人災も無く、正に奇跡の神としか言い様のない神秘の出来事であり、人々が奇跡の神として、この身に奇跡の授かりをと願う参拝者が多く見られるようになりました。
巨大石は、山頂の山王神社にちなんで「山王石」と命名され、奇跡神秘な神業、神の宿る石として香春神社で祭られております。石の高さ 四米二〇糎 石の重量 八六頓
石の周囲 一五米六〇糎 石の種類 石灰石平成二十一年四月五日 香春神社活性化推進委員会
現地案内板より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈山頂に鎮座〉・山王神社《主》大山咋神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
香春岑神三社〈現 香春神社(香春町香春)の三つ峯の山頂にあった元社〉は 石灰岩の山で 元々は 上木は生えていなかった
此の山の下で 僧最澄が遣唐使に出向く際に 無事に渡海を祈願し 無事に生還したので 読経して神宮寺を造営したところ 以来 草木が茂ったたことが記されています
【抜粋意訳】
卷第六 承和四年(八三七)十二月庚子〈十一〉
○庚子
自に旭旦至戌時に大風。京中屋舍往々に破壞す。
大宰府言す。管せる豐前國田河郡 香春岑神。辛國息長大姫大目命。忍骨命。豐比咩命。惣て是の三社は。元來(モトヨリ)是れ石山にて。而上木惣て無し。
至るふ延暦年中。遣唐諸益の僧最澄躬到て此山に祈て云く。願くは縁て神力に。平かに得渡海するを。即於て山下に。爲めに神の造て寺を讀經せん。爾來(コノカタ)草木蓊鬱とし。神驗如在すか。毎に有に水旱疾疫之灾。郡司百姓就て之に祈祷すれば。必ず蒙を感應を。年登り人壽く。異なり於他郡に。望くは預けて官社に。以て表さん崇祠を。許す之を。
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
香春神社の三柱の神〈①辛国息長大姫大目命神②忍骨命神③豊比咩神〉の内 辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神 忍骨(ヲシホネノ)神の二柱の神に神階の奉授が記されています
しかし この内゛辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神゛と云う神名は①辛国息長大姫大目命神社と③豊比咩神社を合せた神名となっていて 同一神として捉えているとの説もあります
【抜粋意訳】
卷十 貞觀七年(八六五)二月廿七日己卯
○廿七日己卯
豐前國 從五位上 辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神 忍骨(ヲシホネノ)神 並に授くに從四位上を
阿波國 正五位下 天石門和氣八倉比咩神 從四位下
和泉國 從五位下 泉穴師神 從五位上
出羽國 正六位上 城輪神 高泉神 並に 從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
香春神社(香春町香春)は 三つの式内社〈①辛国息長大姫大目命神社②忍骨命神社③豊比咩神社〉の論社となっています
①辛国息長大姫大目命神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前國 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 辛國息長大姫大目命神社(貞)
[ふ り が な ](からくにをきなかおほひめおほめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Karakuni wokinaka woohimewohome no mikoto no kaminoyashiro)
②忍骨命神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前國 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 忍骨命神社
[ふ り が な ](をしほねの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Woshihone no kaminoyashiro)
③豊比咩神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前國 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『古風土記逸文』〈昭和2年〉に記される「豊前 鹿春神」について
豊前國風土記逸文 鹿春神に 年魚〈鮎〉の棲む清浄な川原(香春)に新羅国の神が住み鹿春神(かはらのかみ)となつたと記します
【抜粋意訳】
豊前國風土記逸文 鹿春神
豊前國風土記曰。田河郡鹿春郷。〔在に郡東北〕。此郷之中有河。年魚在之。其源從に郡東北杉坂山出。直指に正西流下。添に會眞漏河焉。此河瀬清淨。因號に清河原村。今謂に鹿春郷訛。昔者新羅國神自度到來。住に此河原。便卽名曰に鹿春神。又號北有峯。頂有沼。〔濶丗六歩許〕黄楊樹生。兼有に龍骨。第二峯有に銅幷黃楊龍骨。第三峯有龍骨。〔釋日本紀卷十・宇佐八幡託宣集〕
(一)便、頭注无
豊前國風土記に曰く。田河の郡、鹿春郷 (かはるの郷 )。(郡の東北にあり)この郷の中に河あり。年魚(あゆ)これにあり。その源は、郡の東北なる、杉坂山より出づ。直ちに正西を指して流れ下り、眞漏河に添會(つど)ふ。この河の瀬清し。因れ清河原の村と號ふ。
今鹿春の郷と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅國の神、自ら渡り來りて、この河原に住む。卽ち名づけて鹿春の神と曰ふ。又郷の北に峰あり。頂に沼あり。(潤さ三十六步許)黄楊(つげ)の樹生ふ。兼(ま)た、龍(たつ)の骨あり。第二峰に、銅(どう)並に黃楊、龍の骨あり。第三峰に龍の骨あり。〔釋日本紀卷十・宇佐八幡託宣集〕
【原文参照】
社記『香春神社縁起(かわらじんじゃえんぎ)』にある香春神の三柱の神について
香春神の三柱の神〈①辛国息長大姫大目命神②忍骨命神③豊比咩神〉は
『香春神社縁起』には 崇神天皇(すじんてんのう)御代(BC97-BC30)この三柱を 香春岳(かわらだけ)の三つの峯に奉祀したのが創始としています
一の峯は 辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほじのみこと)
二の峯は 忍骨命(おしほねのみこと)
三の峯は 豊比賣命(とよひめのみこと)
゛豊前國風土記逸文 鹿春神゛にあるように
一の峯は 黄楊(つげ)の樹生ふ。兼(ま)た、龍(たつ)の骨あり
二の峯は 銅(どう)並に黃楊(つげ)、龍の骨あり
三の峯は 龍の骨あり
※ここで云う゛龍骨゛とは゛石灰石゛のこと
一般的には 大型脊椎動物(ゾウなどの哺乳類)の化石化した骨
竜骨 (生薬)は -これを原材料とする生薬
※ここで云う゛銅(どう)゛とは 採銅所(さいどうしょ)があって 銅の採掘
※ここで云う゛黄楊(つげ)の樹゛とは 古代には神聖な樹木とされ櫛の材とされた
重要な場所とされていたことが 伺い知れます
香春神社(香春町香春)の建立について
社記『香春神社縁起(かわらじんじゃえんぎ)』によれば
和銅2年(709)一ノ岳の南麓に一社〈現 香春神社(香春町香春)〉を建立し 三神を合祀 香春宮と称したと記され
弘安10年(1287)成立の社記『香春神社解文(かわらじんじゃげぶみ)』によれば
香春の新宮〈現 香春神社(香春町香春)〉を設けて三神が合祀の時 日置絢子(ひおきのあやこ)が祀っていた 三ノ岳の阿曾隈(あそくま)の豊比咩命(とよひめのみこと)〈その時は採銅所の古宮八幡神社に奉祀られていた〉を勧請されたと記し 現在の祭祀形態となりました
古宮八幡宮の建立について
古宮八幡宮(香春町採銅所)は 旧社地の古宮鼻〈三ノ岳の東麓 阿曽隈〉に 元明天皇和銅二年(709)創祀とされます〔香春神社(香春町香春)〈和銅2年(709)一ノ岳の南麓〉の創祀と同時期〕
その後 永禄4年(1561)に社殿宝庫を焼失し 慶長4年(1599)に旧社地の古宮鼻〈三ノ岳の東麓 阿曽隈〉より現在地(香春町採銅所)に移ったと云う
こちらの伝えでは 三ノ岳の阿曾隈(あそくま)の豊比咩命(とよひめのみこと)は 香春神社(香春町香春)に遷座せず 古宮に留まって祀られているようにも見えます
現在でも 豊比咩命は 例祭の時にだけ新宮である香春神社に下向し 例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻りっています
延喜式内社 豊前國 田川郡 豊比咩神社(貞)(とよひめの かみのやしろ)の変遷
・香春神社(香春町香春)〈現在〉
・古宮八幡宮(香春町採銅所)
〈香春神の三ノ峯の社 元鎮座地 古宮〉
・阿曽隈社(香春町採銅所)
〈古宮八幡宮の元宮〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR日田彦山線 香原駅から 金辺川を渡り北上約2.4km 車6分程度
金辺川を渡る新下香春橋から見えているのが 香春神社の鎮座する 香春岳(一ノ岳)です
セメント原料採掘のためか 上部が削られていますが 今でも神々しいお山に見えます
住宅街の中に南を向いて 一の鳥居があります
香春神社(香春町香春)に参着
住宅街を抜けると香春岳(一ノ岳)の南麓の境内地となります
二の鳥居が建ちます
駐車場に車を留めて 歩みます
石の御神橋を渡り 石段を上がります
石段を上がると注連縄柱があり 一礼をして境内へと進みます
拝殿にすすみます
参道左手に手水舎があり 清めます
石段があり 東西に廻廊が伸びていて その中央に拝殿が建ちます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
創建一千三百年の石碑が建ちます
境内社にお参りをして 参道石段を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 辛國息長大姫大目命神社について 祭神は比賣語曾神とする〔社家注進〕を説明しています
【抜粋意訳】
辛國息長大姫大目命神社
辛國は 加羅久爾、
息長大姫大目は 於岐奈賀於保比女於保賣と訓べし、
〇祭神 比賣語曾神〔社家注進〕〇河原村に在す、〔同上〕香春宮と稱す、例祭
〇日本紀、垂仁天皇二年十月條に、都怒我阿羅斯等、有國之時、黄牛負に田器、將に田舎、黄牛忽失、則尋迹覔之、跡留にー郡家中、時有に一老夫曰、汝所求牛所、入に於此郡家中、然郡公等曰、由に牛所負物而推之、必設に殺食、若其主覓至、則以物償耳、即殺食也、若問牛直欲得に何物、莫に望財物、便欲得に郡内祭神、云爾俄而郡公等到之曰、牛直欲得に何物、對如に老父之教、其所祭神、是白石也、以に白石授に牛主、因以將來置に于寢中、其石化に美麗童女、云々、詣に于難波、爲に比賣語曾社神、且至に豊國國前郡、復爲に比賣語曾社神、並二處見祭焉、
・・・・・〇豊前國風土記曰、〔釋日本紀、頭注等所に引用〕田河郡鹿春郷、昔者新羅國神自度到來、住に此川原、即名曰に鹿春神、〔頭注云、案之、豊州比賣語曾社不見に神名帳並風土記也、而任那新羅同種也、辛爲比賣語曾神之垂跡也、〕
神位
三代實錄、貞観七年二月廿七日己卯、豊前國從五位上辛國息長比咩神從四位上、
式内社 忍骨命神社(をしほねのみことの かみのやしろ)は 彦山権現〈現 英彦山神宮〉と云われているが 忍骨命とは天忍穗耳命との通説からくるもので 忍骨命が 同名異神の蕃神〈外国の神〉である可能性が高いと記しています
【抜粋意訳】
忍骨命神社
忍骨は 於志保禰と訓べし
〇祭神 明らかなり或人云 彦山権現縁起に、忍骨命を祭るとあり、然ればこの神社は、今云う彦山権現也と云り、
連胤按るに、彦山は忍骨命といふは、縁起の如くなるべけれど、この帳に載せたる然るべからず、こは續日本後紀の文にて明かならずや、又 按るに、忍骨命と称ししも、地神五代の中なる正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊にはあらで、同名異神にして蕃神〈外国の神〉にもあらん、すでに比賣許曽神を下照姫神といふに同じからずや、神位
三代実録 貞観七年二月二十七日己卯 豊前国 従五位上 忍骨神 従四位上
式内社 豊比咩命神社について記しています
【抜粋意訳】
豊比咩命神社
豊は止與と訓べし、比咩は假字也、
〇祭神明か也
〇
〇頭注云 ,註、肥前國佐嘉郡下、〔與止日女神社の條見合すべし〕官社 以上三座
績日本後紀、承和四年十二月庚子、太宰府言、管豊前國田河郡香春岑神、辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命、惣是三社、元來是石山而土木惣無、至に延曆年中、遣唐請益僧最澄、躬到に此山祈云、願緣に神力、平得に波海、即於に山下、爲神造寺讀經、爾來草木鬱蒼、神驗如在、毎有に水早疾疫之灾、郡司百姓就之祈禱、必蒙に咸應、年登人壽異に於他郡、望預に官社、以表に崇祠、許乏、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 辛國息長大姫大目命神社について 祭神は辛國息長大姫大目命は比賣語曾神として〔日本書紀 垂仁天皇巻〕を説明しています
【抜粋意訳】
辛國息長大姫大目命神社
祭神 辛國息長大姫大目命
今按日木紀〔垂仁巻〕云
一云御間城天皇之世額右角人乘ー船泊干越國笥飯浦間之日何國人也對日意富加羅国王之子名都怒我阿羅斯等云々
ー云初郡怒我阿羅斯等在國之時黄牛負田器將往田含黃牛忽失則尋迹覓之跡留一郡家中時有一老・・・〔日本書紀 垂仁天皇巻 訳文〕
「また一説によると 崇神天皇の御世 額に角の生えた人が ひとつの船に乗って越の国の笱飯の浦に着いた それで そこを名づけて角鹿(つぬが)という 「何処の国の人か」と尋ねると 「大加羅国(おおからのくに)の王子 名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という 日本国に聖王がお出でになると聞いてやってきました 穴門(あなと)に着いたとき その国の伊都都比古(イツツヒコ)が私に「私はこの国の王 私の他に二人の王はない 他の所に勝手に行ってはならぬ」と言い しかし 私はよくよくその人となりを見ると これは王ではあるまいと思い そこで そこから退出した しかし 道が分らず島浦を伝い歩き 北海から回って出雲国を経てここに来ました」と述べたこのとき天皇の崩御があり そこで留まって垂仁天皇に仕え三年たった
天皇は 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)に尋ねられ「自分の国に帰りたいか」と問う 「大変帰りたいです」と答え
天皇は彼に「お前が道に迷わず速くやってきていたら 先皇にも会えたであろう そこでお前の本国の名を改めて 御間城天皇(みまきてんのう)の御名をとって お前の国の名にせよ」と言われたそして 赤織の絹を阿羅斯等(アラシト)に賜わり 元の国に返された ゆえに その国を名づけて「ミマナの国」というのは この縁によるものである
阿羅斯等(アラシト)は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた 新羅(しらぎ)の人が それを聞いて兵を伴いやってきて その絹を皆 奪った これから両国の争いが始まったという」また別の説によると はじめ都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は国にいたとき 黄牛(あめうし)に農具を負わせて田舍に行った ところが黄牛が急にいなくなった 跡を追って行くと 足跡がある邑(むら)の中に留まっていた
一人の老人が言った「お前の探している牛は この村の中に入った 村役人が言うのに『牛が背負っていた物から考えると きっと殺して食べようとしているのだろう もしその主がやってきたら 物で償いをしよう』と言って 殺して食べてしまった もし『牛の代価に何を望むか』と言われたら 財物を望むな『村にお祀りしてある神を欲しい』と言いなさい」と言った
しばらくして 村の役人が来て言った「牛の代価は何を望むか」回答は老人に言われたようにした その祀る神は 白い石であった それで 白い石を牛の代りとした
それを持ち帰って寝屋の中に置くと 石は美しい乙女となった 阿羅斯等(アラシト)は大変喜んで交合しようとした しかし阿羅斯等がちょっと離れたすきに娘は失せてしまった 阿羅斯等(アラシト)は大変驚き妻に尋ねた 妻は答えて「東の方に行きました」と言う
探して追って行くと 海を越えて日本国に入った 探し求めた乙女は難波に至って比売語曽社神(ヒメゴソノヤシロノカミ)となった また 豊国の国前郡に行って 比売語曽社神(ヒメゴソノヤシロノカミ)となった そして この二箇所に祀られているというに處見祭爲とあるを古事記傳に國前郡は豊後なり 此はかの豊前の田川郡の香春をかく傳へ誤りたるにやあらむ豊後には此神ある事物に見えたる事なし又神名帳豊前國田川郡辛國息長大姫大目命神社これを續後紀六には香春岑神辛國云々とあり此神社をも比咩語曾神社と云とぞ書紀釋に豊前國風土紀曰 田河郡鹿春郷昔者新羅國神自度到來佳此川原便卽名曰鹿春神案之豊洲比賣語曾社不見神名帳併風士記也而任那新羅同種也辛爲比比賣語曾神之垂跡歟と云るが如く書紀は誤りにて釋紀の説實を得るに似たり されど新羅國と意富加羅国と異なれとこは同じ事をかく云傅へたるものなるべければ息長大姫大自命は比賣語曾神と定めて可ならん姑く附て考に備ふ
神位
清和天皇貞観七年二月廿七日己卯豊前國從五位上辛國息長比咩神授從四位上
忍骨命について 『神社覈録』では蕃神〈外国の神〉にもあらん としているが 天忍穗根尊〈天忍穗耳命〉と定めてよいと記しています
【抜粋意訳】
忍骨命神社
今按〈今考えるに〉
『神社覈録』に忍骨命と称すは 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊にはあらで 同名異神にして蕃神〈外国の神〉にもあらん 比賣許曽神を下照姫神といふに同じからずや云るは辛国云々と云によりての考えなれど
天忍穗根尊と定めて可ならん 姑附て考えを俟つ神位
清和天皇 貞観七年二月二十七日己卯 豊前国 従五位上 忍骨神 従四位上
式内社 豊比咩命神社について 所在は下香春村〈現 香春神社(香春町香春)〉と記し 『續日本後紀』卷第六 承和四年(八三七)十二月庚子〈十一〉の條に官社に関連するとして記しています
【抜粋意訳】
豊比咩命神社
祭神 豊比咩命
官社
仁明天皇 承和四年十二月庚子 太宰府言管豊前國田河郡香春岑神辛國息長大姫大目命忍骨命豊比咩命惣是三社元來是石山而土木惣無有至延曆年中遣唐請益僧最澄躬到此山祈云願綠神力平得渡海卽於山下爲神造寺讀經爾來草木鬱蒼神験如在毎有水旱疾疫之灾郡司百姓就之祈祷必蒙感應年登人壽異於他郡望預官社以表崇祠許之祭日 三月十五日十六日九月八日九日十一月初午日
社格 縣社所在 下香春村 (田川郡香春町大字香春)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
香春神社(香春町香春)について 延喜式神名帳 田川郡三座〔並小〕、辛園息長大姫大目命神社、忍骨命神社、豊比咩命神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 豊前國田川郡香春町大字香春
縣社 香春(カハルノ)神社
祭神
忍骨(オシホネノ)命
辛國息長大姫大日(カラクニオキナカオホヒメオホメノ)命
豊比咩(トヨヒメノ)命當社は延喜式神名帳に「田川郡三座〔並小〕、辛園息長大姫大目命神社、忍骨命神社、豊比咩命神社、」とあるもの是なり、
豊前風土記に「田川郡鹿春郷云々、昔、新羅國神自度到來、住此河原、便郡名曰に鹿春神」とありて、其の創建の由來に關しては、元享釈書最澄之傳に「延暦二十三年秋七月、從に遣唐使菅清公、唐に渡らんとする時、田川郡賀春山下に宿りしに、夢に賀春大神顯はれ給ひ、海上を守護せしむる旨教示し給ふ、よりて海途平穏なるを得、帰朝後直ちに法華院を建て、白ら講席を創む云々」と見え、
また續日本後紀に、
「承和四年太宰府言、管豊前國田川郡香春岑神、辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命、惣是三社、元来是石山而土木惣無、至に延暦年中、遣唐請益僧最澄、躬到に此山に祈云、願縁に神力、平得に渡海、即於山下、為神造寺読経、爾来草木蒼欝、神験如在、毎有に水干疾疫之災、郡司百姓就之祈祷、必蒙に感応、年登人寿異、於他郡、望預に官社、以表崇祠、許之」
とあるによりて、其の大要を推知するに足るべし、
且つ貝原翁の著豊國紀行にも、「香春町云々、此處に傳教大師渡唐の前後に住まれし事あり、此時より香春に寺を建て初めけり、昔は六坊ありし其跡、社の左右処々にあり、今も一坊残れり云々」とあるを見れば、最澄の神院建設後、神験灼然として、終に今の神祠を営むに至れるなるべし、
さて香春嶽は 豊前風土記に「郷北有峰、頂有沼、黄楊樹生、兼有龍骨、第二峰有銅並黄楊樹龍骨、第三峰有龍骨」、とありて、三峰より成れる急峻なるが、
社記によれば、第一嶽に宇國息長大姫大目命神社、第二嶽に忍骨命神社、第三嶽に豊日咩命神社鎮座し、香春三社大明神と総称せりしよしいへり、今社は一の嶽の南麓に在りて南に向へり、往昔は三の嶽の麓に在りしと豊前志に見ゆ、
三代実録に「貞観七年二月二十七日己卯、豊前國従五位上 辛國息長比咩神、忍骨神並授従四位上」
とあれど、豊比咩命に關しては、此事なし、恐くは漏れたるなるべし、忍骨命に、其事歴明かなれども、他の二神は、正史に見えざるより、此に關する先輩の諸説未だ定まらず、一は新羅神なりとし、他は、息長帯姫命とす、前説は、豊前國風土記に「田川部鹿春郷、昔新羅神、自度来此川原、即名曰鹿春神」とあるに本づき、後説は語原より説きて、辛國は、彼國を平らげ給ひし御功動を称へ奉れるよりの御名にて、大姫の大は称言、大目は大日の誤にて、下に女の字を脱したるべく、即息長帯日女命をかくいひなしたるなり、と主張す、さもあるべし、
次に豊比咩命は、八幡宮縁起に、「皇后使妹豊姫興磯良云々」とあるに據りて、神功阜后の御妹にましますべきかといひ、皇后の御妹に虚空津比賣命と申すがあり、命征韓の時に、功積を立て給ひしを以て、凱旋の後皇后之を豊國に封じ、併せて韓國をも鎮座せさせ給ひし故に、豊姫とも申せしなるべしといへり、
尚當社の古縁起の一〔弘安十年のもの〕によれば、元明天皇和銅二年の創建にして、永承年中造営し、以来建暦年度に至るまで、六度の造営あり、又後嵯峨天皇寛元元年十月八日には、当社の造営ありて、朝家の経営を以て、諸國に課役することの宣旨ありきと云へど、文永五年十二月十六日火災に罹りたる爲、其宣旨を失すと云へり、
豊前國志に「大鳥居享和二年二月、門台雁木の左右に老松諸木森立し、神さびたり、迫りの丘に大石垣あり、爰の雁木を登りて、大殿の裏を窺へば、宮柱太敷ままに立並び、其様麗しく、又仰いで森の梢を見上ぐれば、香春岳数千丈の岩壁我々として立ち、天下に比ひなし云々」と賞讃せる社地にして、今境内千三百坪(官有地第一種)を有し、社殿は本殿・幣殿・拝殿・廻廊、神供所、神輿庫等を備へ、結構壮麗なり、明治五年十一月縣社に列す。
【原文参照】