冠川神社(境内社)& 仙台八坂神社

冠川神社(かんむりがわじんじゃ)は 明治7年(1874)に塩竈市鎮座 一之宮 塩竃神社 境内に遷座した国幣中社志波彦神社の元宮です 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に名神大社としてする 朝廷から篤い信仰のある由緒ある古社です 御祭神志波彦大神 記紀神話には登場せず この土地の土着神とされている謎深き神です

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

冠川神社(Kanmurigawa Shrine)
 (かんむりがわじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 

宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11-7(仙台八坂神社 境内)

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》志波彦(shiwahiko no okami)

【御神格 (God's great power)】

・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・身体堅固 The body is solid and strong
・厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
・等 etc

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(名神大)の元宮

【創  (Beginning of history)】

冠川神社

志波彦(しわひこ)神社は、もとこの付近にあり、冠川明神ともよばれていたが、明治7年(1874)に鹽竈神社に遷宮され、八坂神社には祠が残されたが 3年後に分霊をして、塩竈志波彦神社の摂社となった。

冠川神社は、小さな祠であるが別名を志波彦(しわひこ)神社といい「延喜式(えんぎしき)」の「神名帳(じんめいちょう)」に載せられた官社である。(官幣社 かんぺいしゃ)

官社を「式内社(しきないしゃ)」といい、後世、神社の格式を示すものとして重要視された。

宮城郡の式内社は、伊豆佐売(いずさひめ)神社・志波彦(しわひこ)神社・鼻節(はなぶし)神社・多賀神社の4社である。そのうち志波彦(しわひこ)神社と鼻節(はなぶし)神社は名神大社(みょうじんたいしゃ)とされる。

祭神は志波彦神、貞観元年(859)に正五位下から従四位下に引き上げられた。志波彦神社は別名、冠川明神・神降明神・西宮(多賀城を中心に東宮・西宮・南宮・北宮)と呼ばれていた。

瑞山(みずやま)神社

水沢藩 第19代藩主宗利が寛永年間、宮城郡岩切村 志波彦神社境内にあった留守氏祖霊(保榮堂)瑞山神社を水沢に移転する。

水沢の日高神社境内に瑞山神社がある。瑞山神社は宗利の霊廟であると共に留守氏祖霊を祀っている。
岩切歴史探訪会

社殿横の立札より

【由  (history)】

八坂神社 由緒

御祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)

例大祭 〈8月1日〉
前夜祭 〈7月31日〉

当社は 文治5年(1190年・平安)6月7日、高森城主の伊澤家景が京都の祇園から勧請 岩切村余目家の城内に鎮座し、神田・二十石の地を納めた歴史ある神社です。
その後、同村台ヶ原頂上に鎮座して天王山と稱(しょう)しましたが、戦国天正のころより社殿が荒廃しました。
仙台藩主 伊達政宗は 寛永年中に天王山より現在の地に遷宮し、祭田二百文(二石)の地を寄進して厚く祭事を行いました。
神仏混淆により 祇園牛頭天王社と称しましたが、明治の初めに現社号に改め、明治6年に郷社に列し、大正3年12月に幣帛供進社に指定されました。
明治43年4月、各区内鎮守社(17社)を本社に合祀し現在に至ります。

境内社 冠川(かんむりがわ)神社 (志波彦(しわひこ)神社)

 冠川神社は、志波彦神社の名でも知られている八坂神社の境内社である。
天正に縁起を焼失し、沿革不詳だが本社は 延喜式内名神大社 志波彦神社で、いつの頃か甚だしく衰微していたが、延宝3年の再建には 堅石5尺横6尺の小祠になり、しかも、摂社である天王社(神仏習合の際の仙台八坂神社)と並び立つ様であった。
明治4年5月14日、官国幣社規定に当たり 国幣中社に列せられたが、社地が狭いため社殿造建不可なる理由により、明治7年2月24日、塩竈神社へ遷座。
明治10年3月31日、官許を得て 志彦神社分霊を岩切村の旧社に奉遷して、冠川神社と称し、国幣中社(志波彦神社 塩竈神社)の摂社に指定された。

奉納 葉隠 藤岡敬大

境内案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宮城郡 4座(大2座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 志波彦神社(名神大)
[ふ り が な  ](しはひこの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](shiwahikono kamino yashiro)(myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

境内社「冠川神社」が鎮座する「仙台八坂神社」について

・平安時代の文治5年(1190年) 6月7日 高森城主の伊澤家景が京都の祇園から勧請し 岩切村余目家の城内に鎮座して 神田・二十石の地を納めた古社です

【神社名(shrine name

仙台八坂神社(sendai yasaka shrine)
(せんだい やさかじんじゃ)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞之男尊(susanowo no mikoto)

境内社 (Other deities within the precincts)

正面向かって右から

・冠川神社(Kanmurigawa Shrine)

・稲荷社(inari sha)
愛宕神社(atago Shrine)
瘤とり神社(kobutori Shrine)

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東北本線『岩切駅』 徒歩15分
仙台八坂神社の年中行事の案内板と社号標「仙臺 八坂神社」が立ちます

階段を上がり 一礼して鳥居をくぐります

八坂神社の拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿向かって左側から 冠川神社は直ぐ左側に鎮座します

境内社にお詣りします

正面向かって右から

・冠川神社(Kanmurigawa Shrine)
・稲荷社(inari sha)
愛宕神社(atago Shrine)
瘤とり神社(kobutori Shrine)

「九星占術」を用いた運勢や吉方位が 手書きで書かれた案内板があります

参道を戻り 境内を後にします 鳥居をくぐり抜けて振り返り一礼します

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

ご祭神「志波彦(shiwahiko no okami)」の伝承について

定かではありませんが諸説あります

冠明神(kammuri myojin)として祀られる云われについて

地元の伝承では 志波彦大神が 石に躓いて落馬したときに その冠が川に落ちたという伝承があり「冠川」と名づけられたとの伝承があります

あるいは「冠川」とは 岐神が鎮座していた川の名前であり 神が降りた川として「神降り」=「かみふり」がなまって「かむり」になったという伝承もあります

七北田川は別名「冠川」「神降川」(かむりがわ)とも呼ばれていました。
名前の由来はいくつかあり、神様が冠を流してしまった川なので「冠川」という説、あるいは神様の降りた川だったので「神降川」という説などがあります。

仙台市HP「七北田川と泉ケ岳」より
http://www.city.sendai.jp/izumi-kuse/izumiku/shokai/profile/shashinkan/dai5kai.html

元禄8年(1695年)の神社縁起に記される伝承

天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。
同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり 現在のところはっきりとしていない。

By Wikipedia

御祭神の謎

記紀を始め各書にも神話伝承の見えない志波彦大神とは如何なる神様なのでしょうか。
そのヒントが御神名であり志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志波町、栗原市志波姫に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在します。
これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神 或いは 志波姫神と呼んだものと考えられますが詳らかにはなっておりません。
但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。

 

志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由には、鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された御神縁に拠るものと言われております。

 

志波彦神社・鹽竈神社 公式HPより

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観元年(859)正月27日甲申条に記される伝承

「全国(京と畿内と七道)の諸々の神に 神階を新らたに叙す 総数267社」と記される序文に始まり 他の陸奥国の神々と共に 志波彦神が正五位下勳四等から従四位下に神階を進めています

意約

京と畿内と七道(日本全国)の諸神について 新たに神階を進め叙します
総数は 267社
・・・・・
・・・・・

陸奥国
・正五位上勲四等の「計仙麻神」(※ 陸奥國牡鹿郡 計仙麻神社)
正五位下勲四等の「志波彦神(※ 陸奥國宮城郡 志波彦神社 名神大)
・勲五等の「拝幣志神」(※ 陸奥國牡鹿郡 拝幣志神社 名神大)
・勲六等の「零羊埼神」(※ 陸奥國牡鹿郡 零羊埼神社 名神大)
・従五位上勲四等の「志波姫神」(※ 陸奥國栗原郡 志波姫神社 名神大)

んで 従四位下とする

従五位下の「計仙麻大島神」(※ 陸奥國桃生郡 計仙麻大嶋神社 名神大)
は 従五位上とする
・・・・・

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

冠川神社(境内社)& 仙台八坂神社 (hai)」(90度のお辞儀)

鹽竈神社に鎮座する名神大社
志波彦神社(shiwahiko shrine)の記事をご覧ください

東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧に戻る

陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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