八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿奉織した和妙(にぎたえ)の神衣 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神服織機殿神社(Kanhatori hatadono shrine

通称名(Common name)

・下機殿(しもはたどの)

【鎮座地 (Location) 

三重県松阪市大垣内町字西ウハ240

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
〈皇大神宮(内宮)所管社〉

【創  (Beginning of history)】

機殿神社 神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)

機殿神社には二社あって、
一つは下機殿と呼び、東黒部地内大垣内の神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)で『和妙』(絹・にぎたえ)を奉織、
一つは井口中の上機殿という神麻績機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)で『荒妙』(麻・あらたえ)を奉織する皇大神宮の所管社です。

伝えるところによると、早くから神服部氏(かんはっとりうじ)神麻績氏(かんおみうじ)が居て、和妙、荒妙の神御衣(かんみそ)を奉織していたといわれています。さらに雄略天皇の御代に呉の国から漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)また衣織(きぬぬい)の兄媛弟媛(えひめ おとひめ)を奉り、これより機殿の技に改善が加えられ、この両機殿を中心にこの地方一帯の機業は盛んとなり、やがて後の松阪木綿へと繋がっていったといわれています。今、当地に残る黒部という地名は呉部(くれべ)のなまったものと考えられています。

■神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)

古くから紡織業と関係が深く、神様に奉る絹や麻を奉じる服部神部という人々が住んでいた土地。皇大神宮の神御衣(かんみそ)のうち、和妙(にぎたえ)を奉織する機殿(八尋殿(やひろでん))の守護神を、また伝承では服部神部の祖神、天御桙命(あめのみほこのみこと)と奉織工の祖先、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)をお祭りするといわれ、域内には八つの小さな末社がある。

【住所】三重県松阪市大垣内町

一般社団法人松阪市観光協会HPより
https://www.matsusaka-kanko.com/information/information/kanhatorihatadono/#

【由  (History)】

『神宮要綱』に記される内容

【抜粋意訳】

神服織機殿神社

鎭座地 三重縣多氣郡東黑部村大字大垣内

殿舎
正  殿 神明造、萱葺、金銅物打立、御階付、南面・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
瑞  垣 繰袖板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

八尋 殿 神明造、萱葺、金銅物打立、御階付、南面・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重

斎  館 切妻柿葺・・・壹宇

同末社
鎭座地 神服織機殿神社社域内
殿舎
正  殿 神明造、板葺、内二宇南面、二宇東面、三宇西面、一宇北面・・・八宇
右神宮司廰造替

 神服織機殿(カムハトリハタドノ)神社は年中両度 神御衣祭(カムミソサイ)に皇大神宮及び荒祭宮に供進すべき和妙(ニギタエ)の神衣を奉織する御機殿(八尋殿と稱す)鎭守の神を奉齋せる御社にして、古くより和妙の奉織に奉仕せる服部神部(ハトリカムベ)等が奉祀せる所なり。

 機殿の起源については、倭姫命世記に垂仁天皇の二十二年、皇大神飯野の高宮に坐しし時 機屋を作りて大神の御服を織らしめ給ひ、二十五年磯宮に入りましゝ時 服織社を其の地に建て、五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋を建て、天棚機姫神(アメノタナハタヒメノカミ)の孫 八千々姫命(ヤチチヒメノミコト)をして、天上の儀に准じて大神の和妙の神衣を織らしめ給ふと見えたり。是れ所謂宇治の機殿なるものにして、清寧天皇の三年、本の服織社の地に移さると云ふ。
 然るに神名祕書に引く所の機殿儀式帳には .飯野高宮に坐しゝ時機殿を 長田郷(オサダガウ)に建て、又其の處に一社を建てゝ麻績社とも河埼社とも稱せしが、後に機殿を岸村に移さるゝに及び、併せて其の社をも移して岸社と稱す。孝徳天皇の御宇一時 神衣奉織のことを停められしが、天武天皇の朝、新に流田郷(ナガレタガウ)服村(ハトリムラ)に両機殿を再建せらると云へり。
 諸書の記載混乱して、今其の眞相を捕捉し難しと雖も、要するに宇治の機殿は 後の神服織機殿・神麻績機殿とは系統を異にし、皇大神宮の宮域内にありて禰宜等此の所に御衣を奉織し、(後に此の機殿絶えたるにより、御稻御倉を以て之に代用す)神嘗祭の際其の織衣を奉納すること、同祭の條下に述ぶる如し。抑多氣郡の地たるや、古來紡織業と最も密接の開係を有す。

 伊勢の麻績の君の名は古く崇神天皇紀に見え、和名抄の郡郷に多氣郡麻績郷あり、延喜神名式に同郡麻績神社・服部伊刀麻(ハトリイトマ)神社・服部麻刀方(ハトリマトカタ)神社を載す。
麻績氏は出自又極めて古く、古語拾遺の皇大神天岩戸に隠れましゝ條に、八十萬神等相議りて伊勢の國の麻績の祖 長白羽神(ナガシラハノカミ)をして、麻を種ゑて青和幣(アヲニギテ)を作らしめ給へるこさ見え、又舊事紀の天神本紀には天八坂彦命(アメノヤサカヒコノミコト)を以て伊勢の神麻績連(カムヲミノムラジ)の祖とし、姓氏錄の左京神別には神麻績連は天物知命(アメノモノシリノミコト)の後と記し、三代實錄貞観五年の條には、伊勢多氣郡に、豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の後なる麻績氏の居りし事見えたり。
 神名秘書竝に神宮雑例集によるに、多氣郡流田郷なる機殿は、古くはー殿にして服織と麻績とに兼用せられしが、天智天皇八年燒亡の後、之を二殿に分たれしも、猶その距離三十丈にして同一地域に在りしを、白河天皇の承曆三年宣旨によりて麻績機殿を同郡井手郷に移造せらるるに及び、両機殿全く所在を異にすることゝなれりと云ふ。
 而して其の神麻績機殿の今飯南郡なるは、古今郡界の移動によるならん。両機殿はもと二十年每に造替の制なりしが、室町時代以降神宮の御衰微に伴ひ、神御衣祭の中絶と共に殿舎次第に荒廃に委し、殊に神麻績機殿に於て甚しきものありしが、元祿中神御衣祭再興せられ、尋で享保三年藤堂氏両機殿修理料各三十石を寄進するに至りて、漸く面目を一新するを得たり。
かくて明治四年以後暫く地方應の手によりて造営を奉仕せしが、後全く神宮の管轄に帰せり。

 本社は元來 神服織機殿に於ける八尋殿の附属社とも云ふべき御機殿鎭守神社にして、其の祭神につき傳ふる所區々なりと雖も、蓋し神服の氏人等が其の祖先を奉祀する所にして、神殿二座の内一座は神服の祖神 天御鉾命(アメノミホコノミコト)、一座は人面等の祖 天八千々姫を祀れるならん。末社八宇は、祭神竝に創立年代明かならず。正殿の左右なる末社二宇は、機殿事蹟雜錄に八幡・春日とし、御機殿緣起に東實殿・西實殿とす。蓋し神服等が本宮の東西實殿に做ひて、増作せるなるべし。神御衣祭の條参照すべし。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈向かって右側〉八尋殿
〈向かって左側〉・神服織機殿神社

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・末社8社

〈瑞垣内 正殿の左右に 末社2宇〉
『機殿事蹟雜錄』に八幡・春日 『御機殿緣起』に東實殿・西實殿とある

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〈境内 正殿の向かって左に 末社2宇〉と社務所

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〈境内 八尋殿の向かって右に 末社4宇〉

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・社頭〈南向き〉

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・鎮守の杜〈北側から眺める〉

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

神服織機殿神社は 皇大神宮(内宮)所管社です

・皇大神宮(内宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(小52座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 服部麻刀方神社二座
[ふ り が な ]はとりのまとかたの かみのやしろ ふたくら
[Old Shrine name]Hatori no matokata no kaminoyashiro futakura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

式内社 伊勢國 多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとかたの かみのやしろ ふたくら)の論社について

・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉

二十五柱神社(松阪市柿木原町)
松方社(麻刀方神社)が合祀された二十五柱神社〉

・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

伊勢神宮の神饌(しんせん)〈御饌(みけ)御贄(みにえ)〉について

神饌とは 御饌(みけ)とも云い お祭りなどで神様に献上するお食事のこと
〈神様に御饌(みけ)を奉り そのお下がりを参列した人たちでいただく行為・「神人共食(しんじんきょうしょく)」が 日本の祭りの特徴とも云う〉 

『伊勢神宮の神饌〈1990-02-20〉』に記される内容

【抜粋意訳】

神饌について

 神にお供えする飲食物を「神饌」というが,これは主として明治時代になって用いられた語で,古くは「みけ (御饌・御食)」とか「みにえ(御贄)」といい,神宮では「おもの」ともいった。「もの」に尊称をつけたのである。

 昔は食べ物のことはあまり人に話さないという風潮が一般的にあったようだ。まして神々のおめし上がりになる゛おもの゛,おのずから秘された形になっていた。

 どの神社でも昔は神饌調理法など直接奉仕する一部の人だけが承知すればよく,それを公開したり語ることはなかった。伊勢の神宮ではことさらであった。しかし現在ではまったく非公開で押し通せるものではない。情報が発達し撮影機材も発達している。写真を写させてほしいとの願書はしばしば出されるが,すべてお断わりしている。だがそれほど厳重に秘されたものではなく,その気になればシャッターチャンスもあるので防御は不可能だが,昔から慎むことを知る人々により,ことさら写すことも語ることもなされなかったのである。

 神饌というと一般の人々は古代や中世初期の食生活が伝わっているだろうと大きな期待をもっておられる。だが残念ながらそれほど多くは残されていないのが事実である。がっかりなさるかもしれぬが,一般の神社では明治初年の神祇制度の大改革により古い姿がほとんど失われたのである。
 神宮の場合も,なんとか遷宮諸祭と,三節祭(神嘗祭と六月と十二月の月次祭)に旧儀が保たれたが,日別朝タ大御僕祭も,古い姿そのままではない。信仰的な精神は古代そのままでも,調理法や,お供えの仕方など変わってしまった。
 明治以前の奉仕者は,内宮は荒木田神主,外宮は度会神主という世襲の一族が神職となっていて,親から子へ口伝(くでん)として伝えられ,基本的な図や文書はあるものの詳細は口伝であっただろうから,全貌は伝わらないのである。
 奈良の古社などは珍しい神饌が残されているが,あれも古式がずっと伝わったのではない。明治初年に廃されて,全国一律の神饌にと国家管理がなされた中で,かろうじて一社の古伝を尊重され復元されたものである。早く復元された神社は古式をほぼ正しく伝えることが出来たが,時代の波に洗われて変化せざるを得なかった神社がほとんどである。だから神饌の研究・調査はむづかしく慎重にお願いしたいとアドバイスしておく。

・・・・以下略

【原文参照】

矢野,憲一「伊勢神宮の神饌」『調理科学』23(1),調理科学研究会. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10812860

神宮の神事に用いる神饌などを調進する施設 御料地(ごりょうち)について

御料地とは
神饌など神々へのお供え物を御料(ごりょう) そして御料を調達する場所や施設を御料地(ごりょうち)と呼びます

・神宮神田(伊勢市楠部町)〈※一般の方の見学はできません〉

〈神宮神田の歴史は古く、2000年前に倭姫命がお定めになったとの伝承があります。神田では五十鈴川の水をいただき、神宮のお祭りにお供えされる御料のうるち米ともち米が清浄に育てられ、その年にとれた新米は神嘗祭で大御神に奉られます〉

・神宮御園(伊勢市二見町溝口)〈※一般の方の見学はできません〉

〈神宮御園では季節に応じた野菜果物を栽培し、その品目は多種〉

御塩殿・御塩汲入所・御塩焼所伊勢市二見町荘御塩浜伊勢市二見町西

・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》御塩殿鎮守神(みしおどののまもりのかみ)

神服織機殿神社・八尋殿松阪市大垣内町

〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 和妙(にぎたえ)は神服織機殿神社の八尋殿で奉織されます〉

・神服織機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)

神麻続機殿神社・八尋殿松阪市井口中町

〈神様の衣を「神御衣」といい 神宮では毎年春と秋 天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物に・御糸・御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われます
お祭りに先立ち 荒妙(あらたえ)は神麻続機殿神社の八尋殿で奉織されます〉

・神麻続機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)

御料鰒調製所鳥羽市国崎町)〈※一般の方の見学はできません〉

〈鰒調製所の歴史は古く その起源は約2000年前に倭姫命が志摩の国を巡られていた時 国崎の海女が鰒を差し出したことから御贄処として定められたと伝えられます〉

 

御料干鯛調製所知多郡知多町大字篠島)〈※一般の方の見学はできません〉

〈鯛は神饌の中でも とりわけ大切なものの一つで 干鯛は生鯛の内臓を取り除き 塩水につけた後 晴天の日に2日間ほど乾燥させたもの 平安時代の天皇の食膳品目にも見ることができます 神宮では篠島で伝統と由緒のままに調製された干鯛が 三節祭と呼ばれる大切なお祭りにお供えされます〉

・土器調製所(多気郡明和町蓑村)〈※一般の方の見学はできません〉

〈多気郡明和町蓑村の付近は 神代の昔 高天原から埴土を移したという伝承があり 良質な粘土に恵まれ 皇大神宮御鎮座当時から土器を作ってきたと伝えられます 現在でも土器調製所では 様々なお祭りに使用される素焼きの土器を年間約60,000個調製しています 神宮では一度使われた土器は再使用せず 細かく砕いて土に返すことになっています〉

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR・近鉄線 松坂駅から R23号バイパス経由で 東へ約8.2km 車15分程度

鎮守の杜が見えてきます

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周囲は 田圃なので見晴らしは抜群で すぐにわかります

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南を向いて鳥居が建ちます

神服織機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉(松阪市大垣内町)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり進むとすぐに 玉砂利が敷き詰められた広々とした御敷地があります

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御敷地に踏み入れるのが躊躇われたので こちらより お祈りをしま

〈向かって右側〉八尋殿
〈向かって左側〉・神服織機殿神社

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ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内には 八尋殿神服織機殿神社の他に
境内社が8社
向かって右に4社
向かって左に2社
正殿の両脇に2社の合計8社

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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木々のトンネルのような参道の先に 田の中の一本道が続いています

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入る時には気付きませんでしたが 鳥居の手前に物凄い大木がありました

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社頭の鳥居は南を向いていますので 南へ伸びている この田の中の一本道は 農道ではなくて 参道なのでしょうか

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 服部麻刀方神社 二座について 所在は 流田郷服村に、又云 大垣内村に在す〈現 神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〉もしくは〈現 須麻漏賣神社跡地 麻刀方神社跡地(松阪市垣内町)〉と記しています

【抜粋意訳】

服部麻刀方神社 二座

服部は前に伺じ、麻刀方は末止加多と訓べし、

〇祭神詳ならず

○流田郷服村に、又云 大垣内村に在す、儀式解

○倭姫世記伝、日本建尊比々羅木乃以八尋鉾根天、奉献皇太神宮、即倭姫皇女、彼鉾根波、納天、皇太神乃貴財止為天、八尋機殿(圓方機殿是也)応収天、為皇太神御霊弖、奉崇祭留、令天棚機姫神斎八千々姫命、毎年夏四月秋九月、織神服、以供神明、故曰に神衣祭也、」
神宮雑例集云、嘉応年、服織機澱大神部道尚解、以神部等遠祖天御鉾命爲司、以八千々媛為織汝奉織之、
○万葉注釈曰、伊勢國風士記云、的形浦者、此浦地形似的、因似為名也、今巳跡絶、成江湖也、天皇行幸濱歌曰、麻須良遠能、佐都夜多波佐美、牢加此多知、伊流夜麻度加多、波麻乃佐夜氣佐、
万葉集一に、舎人娘子從窺作歌、丈夫之、得物矢乎挿、立向、射流圓方波、見爾清潔之、ともあり、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 服部麻刀方神社 二座について 所在は 垣内田村東南の森にあり、一を末都加多の社、一を都褒加多の社と云〈現 須麻漏賣神社跡地 麻刀方神社跡地(松阪市垣内町)〉と記しています

【抜粋意訳】

服部麻刀方(ハトリノマトカタノ)神社 二座

〇按 麻刀方、斎宮式麻刀方、印本麻刀方に作る、今一本及 万葉集に據て之を訂す、

今 垣内田村東南の森にあり、一を末都加多の社、一を都褒加多の社と云、即是也、伊勢式内社検録

 

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 服部麻刀方神社 二座について 所在は 三重縣流田郷垣内田村としているが該当の村には゛須麻漏賣神社境内社に松方神社〈現 須麻漏賣神社跡地 麻刀方神社跡地(松阪市垣内町)〉があるが このことを指すのであろうか?
不明とする

又 神服機殿を圓方(まとかた)機殿という とも記しています

【抜粋意訳】

服部麻刀方神社

祭神
祭日
社格

所在 三重縣流田郷垣内田村
  (垣内田村とあれども明細帳に該村に當社にあたるものなし、須麻漏賣神社境内社に松方神社なるあり、或は是を指したるか、覈録の説もあれど服村は該部になしいづれにしても不明なり) 

今按 検録云 村の東南に壺方末津方社と云ふ末津方は麻刀方の通言なり萬葉集 伊勢國風土記等に的形浦あり 神服機殿を圓方機殿と云由 倭姫命世記にあり みな此邊の地を謂ふなるべしと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

神服織機殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉(松阪市大垣内町) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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8

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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