神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)

神須牟地神社(かみすむじんじゃ)は 式内社 摂津国 住吉郡 神須牟地神社(鍬靫)(かむすむちの かみのやしろ)されます 慶長年間〈1596~1615〉兵火に罹り 元和四年(1618)八月二十一日再建されました その後 衰頽し廃絶に瀕していたが 元文元年(1736)九月 徳川幕府命により神須牟地社と多米社鎮座地に社号した石碑建てられ 復興して現在に至ります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神須牟地神社(Kamimusuchi shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

大阪府大阪市住吉区長居西2丁目1番4号

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神》神産霊大神 手力雄命 天児屋根命

《相 殿》天日鷲命 大己貴命 宇賀魂命
《追 祀》少名彦命 素盞鳴命 住吉大神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

神須牟地神社(かみすむちじんしゃ)由緒

延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年の昔の創建である

御祭神
神産霊大神(かみむすびのおほかみ)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)
・少名彦命(すくなひこなのみこと)

本社は 古来酒造将又医薬の祖神として信仰厚く又文武両道の守護神として御神徳顕著であった

本社殿は 慶長年間兵火にかかったが豊臣の浪人多賀谷氏外四名の協力で元和四年八月二十一日再建された
元文元年九月徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命じ「神須牟地社」・「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめ今尚現存している

境外末社 多米神社は延喜式内の古い社で別名を「苗見神社」又は「種貸神社」とも言われ崇敬された
御祭神 宇賀魂命(うがのみたまのみこと)・神稚魂神(かむわかたまのかみ)・保食神(ほくいのかみ)

境内末社 農神社は農耕の神として農民に崇敬された
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

当神社 御祭礼日
夏大祭 七月二十一日
秋大祭 十月二十一日
月例祭 毎月二十一日

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く2千年前の御創建である。
御祭神は、主神(神産霊大神、手力雄命、天児屋根命)、相殿(天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命)、追祀(少名彦命、素盞嗚命、住吉大神)である。
本社は古来酒造の祖神として将又医薬の祖神として衆庶の信仰厚く、又文武両道の守護神として御神徳顕著であった。社領は住吉大社2万2千石の中の375石余りであったが、社領減地の節没収されたと記されている。
本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、岡田氏等の協力のもと再建し、元和4年8月21日、遷座の式が挙げられ、この日を祭典の日と定められている。
元文元年9月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑2基を双方の地に建立せしめられ、今尚現存している。
境外末社多米神社は多米連の建てた神社と言われ、延喜式内の旧い社で、別名を「苗見神社」とも「種貸神社」とも言われ、又「鎮座の社」「苗見の森」「種貸の森」又はただ「明神さま」とも唱えられ浪速名所の一つに数えられていたのである。多米神社の御祭神は宇賀魂命、神稚魂神、保食神とされている。
境内末社農神社は農耕の神として農民の尊敬厚く、今の長居墓地東北百米の三つの池の中央に土塀をめぐらし一本の松の木の下に社があったのである。農神社の御祭神は大己貴命。
当神社御祭礼日
[夏大祭(7月21日)、秋例祭(10月21日)、朔日祭(毎月1日)、月次祭(毎月15日)、月例祭(毎月21日)、元旦祭(1月1日)、節分祭・厄除神事(2月節分の日)、七五三神詣(11月15日)、新嘗祭・勤労感謝祭(11月23日)、大祓式(6月30日・12月31日)、その他祝祭日]

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

農神社《主》大己貴命(おおなむちのみこと)

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈旧鎮座地〉多米神社之址(大阪市住吉区長居)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

①本社

[旧 神社 名称 ] 神須牟地神社(鍬靫)
[ふ り が な ]かむすむちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kamusumuchi no kamino yashiro)

多米神社の祭神を合祀したとの文献あり

[旧 神社 名称 ] 多米神社(貞)
[ふ り が な ]ための かみのやしろ)
[Old Shrine name]Tame no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 摂津国 住吉郡 神須牟地神社(鍬靫)(かむすむちの かみのやしろ)の論社について

現在の論社は一つです
しかし 同郡に「須牟地(すむち)」の名を持つ式内社が三つあります

式内社 摂津国 住吉郡 中臣須牟地神社(大 月次 新嘗)(なかとみすむちの かみのやしろ)

・中臣須牟地神社(大阪市東住吉区矢田)

式内社 摂津国 住吉郡 神須牟地神社(鍬靫)(かむすむちの かみのやしろ)

・神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)

式内社 摂津国 住吉郡 須牟地曽祢神社(すむちそねの かみのやしろ)

・〈合祀先〉金岡神社(堺市北区金岡町)

・須牟地曽根神社(堺市北区蔵前町)

・湯里住吉神社(大阪市東住吉区湯里)

・露天神社(大阪市北区曾根崎)

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式内社 摂津国 住吉郡 多米神社(貞)(ための かみのやしろ)の論社について

多米神社は 延喜式神名帳927 AD.所載の摂津国・住吉郡鎮座の延喜式内社 多米神社(貞)(ための かみのやしろ) 多米連(ためのむらじ)〈この地にかつて繁栄した天日鷲命の後裔 創建した神社とされます

多米連(ためのむらじ) 朝廷に供する米作りに関わっていた氏族とされていて 成務天皇の御代大炊寮御飯を作りて香美なりし」と賞されて多米連の姓を賜わりました

多米神社は 近世には 別名を苗見社(なえみのやしろ)多禰加志宮(たねかしのみや)などとも呼ばれていましたが

16世紀 天正の頃 戦火の兵火に遭い 17世紀 明暦の頃 住吉大社の境内に遷座されたと伝わります〈現 種貸社〈住吉大社境内 末社〉(大阪市住吉区)
この遷座の理由は「毎年二月卯月 十月辰日 住吉社より米を土器にもり 社地に埋むる由 記せるは 多米連の氏人 昔 住吉社の神饌に預りしことの古例などあり」と伝わり 多米連の氏人が 住吉大社の神饌に深く関わっていた為とされます

このことから 論社として 住吉大社の境内末社の種貸社があります

一方 神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)には御祭神に関しては 後に神須牟地神社へ合祀したとされる文献が残っている」としています
このことから 神須牟地神社論社になっています 

ただし 江戸時代には 神須牟地神社多米神社も 共に廃滅に瀕していて 元文元年1736寺社奉行になったばかりの大岡忠相が石碑を建てさせたとのこと

合祀先とされる神須牟地神社由緒書きには
元文元年1736九月徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命じ「神須牟地社」・「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめ今尚現存している」とあります

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現在の論社は三つ

・〈旧鎮座地〉多米神社之址(大阪市住吉区長居)

〈遷座先〉種貸社〈住吉大社境内 末社〉(大阪市住吉区)

・〈合祀先〉神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR阪和長居駅から 西へ280m 徒歩5分程度

長居駅からすすむと 境内の東入口に着きます

神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)に参着

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東の入口から入ると 鳥居をくぐり抜けて 石段を上がると 注連縄柱があり社殿の脇へと参道が通じています

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社殿も境内も南を向いていて 表参道も南側のようなので 南へ廻ると鳥居と神門が建っていました

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社号標には 式内 神須牟地神社と刻字されていて 鳥居の扁額にも社号が記されています
一礼をして 鳥居をくぐります

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七段程の石段の上に神門があり 神門をくぐり抜けると 境内となっています

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参道の左手に境内社と手水舎があり 清めてからお詣りをします

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正面拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には 神須牟地神社と刻字が記されます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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垣が廻されていて奥へは進めませんが 拝殿の奥には幣殿 本殿が鎮座します
又 拝殿の向かって左脇に 江戸時代には廃絶していたこの地に建てられた「神須牟地社」と刻された石碑があります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 神須牟地神社鎮座地と名称について 寺岡村〈現 神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)〉として 当郡には 中臣須牟地神社もあると記しています

式内社 多米神社鎮座地と名称について 寺岡村西苗見社多禰加志宮(たねかしのみや)」【現〈旧鎮座地〉多米神社之址(大阪市住吉区長居)】と称していたが 廃絶したと記されています

【抜粋意訳】

神須牟地神社 鍬靭

神は加武と訓べし、(此帳中に神某といふを、加武某と読あり、美和某と読あり、意得べし、)須牟地は前に同じ、
○祭神詳ならず
〇寺岡村に在す、今三宮と称す、(摂津志)
〇当郡 中臣須牟地神社もあり

多米神社

多米は假字也
〇祭神 多米連租神歟
〇寺岡村西苗見社に在す、多禰加志宮と称す、今廃亡せり、(摂津志)
○姓氏録、(摂津国神別)多女連、神魂命五也孫天比和志命之後也、」
同、(右京神別上)多女宿禰、神御魂命五世孫天日鷲命之後也、成務天皇御世、仕奉大炊寮御飯香美特賜嘉名、」
同、(左京神別中)多米連、多米宿禰同祖、神魂命五世孫天日和志命之後也、成務天皇御世、仕奉炊職賜多米連也、
考証に、姓氏録、(摂津國神別)多米連、神魂命児天石都倭居命之後也、とある方をのみ引用ひて、所祭石都倭居命としたるは杜撰なるべし、其証いまだ考へ得ず、

氏人
続日本紀、延暦七年六月辛丑、外正八位上多米連福雄授外從五位下、以貢献也、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 神須牟地神社鎮座地と名称について 寺岡村〈現 神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)〉として 三宮と呼ぶと記しています

式内社 多米神社鎮座地と名称について 寺岡村 苗見社【現〈旧鎮座地〉多米神社之址(大阪市住吉区長居)】と記しています

【抜粋意訳】

神須牟地(カムスムチノ)神社

今 寺岡村に在り、三宮と云ふ、摂津志、
醍醐天皇延喜の制、祈年祭 鍬靭を加奉る<、延喜式

多米(タメノ)神社

今 寺岡村にあり、苗見社といふ、摂津志、式社考証 盖 多米連祖神を祭る、新撰姓氏録
〇按 式社考証云、神殿内に三座あり、中は多米連の祖、左右は稚魂神 保食神也と云る、亦證とすへし、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 神須牟地神社鎮座地と名称について 寺岡村〈現 神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)〉と 今は三明神と呼ぶと記しています

式内社 多米神社鎮座地について 寺岡村【現〈旧鎮座地〉多米神社之址(大阪市住吉区長居)】から 村社 神須牟地神社【現〈合祀先〉神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)】に合祀と 記しています

【抜粋意訳】

神須牟地(カムスムチノ)神社 鍬靭 今称 三明神

祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神不詳とあれど 新撰姓氏録 摂津未定雑姓に住道首(スムチノ)伊弉諾尊 男素戔嗚命之後也とあるによらば 素戔嗚命を祭れるなるべし

祭日 八月二十一日
社格 村社
所在 寺岡村(東成郡長居村大字寺岡)

多米(タメノ)神社

祭神 多米連祖神

今按 新撰姓氏録 摂津神別 多米連神魂命五世孫 天比和志命之後也
また 多米連神魂命兒、天石部倭居命之後也とみえ
又 多米宿禰の條に成務天皇御世 大炊寮御飯を作りて香美なりし故に 多米連を玉ふことみえ
明細帳に二月卯月 十月辰日 住吉社より米を土器にもり 社地に埋むる由記せるは 多米連の氏人 昔 住吉社の神饌に預りしことの古例などありて さる儀式もあるにや 是等を合せ考るに多米氏祖神を祭れるなるべし

祭日 九月十六日
社格
所在 寺岡村(東成郡長居村大字寺岡)(同村 村社神須牟地神社へ合併)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)に (hai)」(90度のお辞儀)

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摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る    

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