上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は 御祭神として 古事記に記載されている゛大宜都比売命(おほげつひめのみこと)゛を祀ります 粟国(阿波)を開かれた祖神で 五穀養蚕の神として 古代から農耕を守り生命の糧を恵みむ神で 式内社 天石門別八倉比売(あめのいわとわけ やくらひめの)神社(大月次新嘗)の論社です
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 阿波国には 一之宮を称する神社が二系統あります
- 5 神社にお詣り(Pray at the shrine)
- 6 神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
- 7 「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
- 8 阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
上一宮大粟神社(kami ichinomiya oawa shrine)
(かみいちのみやおおあわじんじゃ)
[通称名(Common name)]
大阿波さん
【鎮座地 (location) 】
徳島県名西郡神山町神領字西上角330
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大宜都比売命(ogetsuhime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 阿波国一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
上一宮大粟神社
御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角330御祭神 大宜都比売命(おおげつひめのみこと)
又の御名 天石門別八倉比売命
大粟比売命
御例祭 歳旦祭(1月1日)
例大祭(1月10日) 祈年祭(4月11日)
新嘗祭(12月11日)一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀5年(728)聖武天皇御勅願所となり 元暦2年(1185)御祭神に 位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると 当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し 以後三十四世にわたって祭事を司りましたが 時の祭官一宮宗成に代って歴応4年(1341)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり 後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文13年)からも社名が一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります
明治3年(1870)埴生女屋神社と改められたが 明治28年(1895)氏子の請願によって現在の上一宮大粟神社に確定されました撰 宮司 阿部千二 氏子会 大粟山保勝会
邪馬台国と大宜都比売命
全国的に話題を呼んでいる邪馬台国阿波説の論拠として 日本最古の書 古事記と魏志倭人伝の記述が一致する根元に阿波は食物 五穀を司る穀霊(おおげつひめ)の国であり 高天原(神話)の物語は すべて阿波(おおげつひめ)が舞台となっている 古代国家にとって最も重要な食物を司る穀霊が阿波の別名であるところにその論拠があり 近年古代研究者が注目し その調査研究に訪れる所以であります
昭和59年9月吉日
発起 古代神山研究会
協賛 神山町
神山町観光協会
大宜都会
【由 緒 (history)】
通称「大阿波さん」。
祭神 大宜都比売神は伊邪那岐、伊邪那美二神の子で五穀を司どる神。
粟国(阿波)を別名大宜都比売と言う。
この神が、伊勢国丹生の郷より神馬に乗り八柱の供神を率いて阿波国に移られ国土を経営し、粟を蒔き、この地一帯にひろめられたという。
又の名を大粟比売神あるいは 八倉比売命と申しあげる。大粟山は名西山分の諸山を総称して言い、その各村を大粟谷、粟郷とも言う。
既ち一国開闢の祖神の本拠地にして、大宜都比売命は粟の凡直の遠祖であり、その神裔が世襲で祭祀せしが、のち小笠原氏が一宮大宮司として奉仕した。一宮と言うのは祭神が粟国の開祖で格式高い社だからとか、式神名帳にのせられている名方郡でただ1つの大社(八倉比売神社)だからとも言われる。
承久3年(1221)阿波の守護に任ぜられた小笠原長清の子孫 長宗が名西郡上山に攻め入り代々奉仕してきた粟飯原家を滅ぼして大宮司と称し、姓を一宮と改めた。その子孫が相次いで一宮大宮司と称し、武将と祭官を兼ねていたが、その後 当社の分霊を一宮城内に祀ったのが下一宮であり、一宮成行の代になり城主と祭官を分け、下一宮を城主領として長男の成良に、上一宮は神領分(神領村の名のおこり)として次男 成直にこれを祭らせた。
のち一宮の呼称が下に移ったのは一宮氏の居城と神社が同所にあったから一般化したのであろう。
藩政時代 蜂須賀家政は 供田及薪山として左右1町8段歩を寄進、代々藩主祭資を納め神馬を寄進する等崇敬厚買った。
明治3年 神社改正の際 社号を埴土女屋神社(式外の古社)と称したが 同二十八年 現社号に定められ郷社に昇格した。
なお社号は 一宮明神、田ノ口大明神(平安初期の国司田ノ口息継の一族が祖神として当社を崇敬した)、上一宮大明神、大粟上一宮大明神などがある。
『三代実録』は、埴土女屋神社に「元慶7年(884)12月28日従五位下を授く」と記している。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・大御神社(omi jinja
《主》豊玉姫命(toyotamahime no mikoto)
・粟神社(awa jinja)
《主》大物主神(omononushi no kami)
・瑜伽大権現(yuka daigongen)(神宮寺の管轄)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波国 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 天石門別八倉比売神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](あめのいわとわけ やくらひめの かみのやしろ)(だい つきなみ にいなめ)
[How to read ](amenoiwatowake yakurahimeno kaminoyashiro)(dai tsukinami niiname)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
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阿波国には 一之宮を称する神社が二系統あります
古来は 阿波国の一之宮は 一宮神社の系統で
「天石門別八倉比売神社(amenoiwatowake yakurahimeno kaminoyashiro)」とされていました
しかし は室町時代以降になると「大麻比古神社(鳴門市)」が 細川氏の台頭とともに 阿波国一之宮とされていきます『大日本国一宮記』
近年の研究では 当初の阿波国一宮は 上一宮大粟神社で その後 国府近くに御分霊を勧請した下一宮(一宮神社)に移り 南北朝時代になって 大麻比古神社が一宮とされるようになったのではないかと考えられています
これは 南北朝時代(足利尊氏に従って北朝・室町幕府方として台頭した)「細川氏」が 敵対する旧勢力であった「一宮氏」の一宮神社(神職家として代々世襲)から脱却して 新たな阿波国一之宮としての地位を得る為 細川氏の守護所にも近く 伝統的な社格を誇っていた「大麻比古神社(鳴門市)」を選んだのであろうとしています(『中世諸国一宮制の基礎的研究』考察)
1.室町期より以前
一宮氏が神職家として代々世襲した一宮神社の系統
・一宮神社 (徳島市一宮町
・天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)
・上一宮大粟神社(神山町)
2.室町期より以後 細川氏の台頭とともに
・大麻比古神社(鳴門市大麻町)
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
徳島駅から R438号経由 約25km 車45分程度
山の麓に大きな一の鳥居が見えます
上一宮大粟神社の駐車場はふもとの大鳥居周辺にあります
上一宮大粟神社(kami ichinomiya oawa shrine)に到着
一礼して大鳥居をくぐります
すぐに狛犬が構え 二の鳥居と随神門があり 石段が境内迄続きます
随神門の右側にある細い車道があり境内まで続いていますが 境内には駐車場はありません
長く緩やかですが 歩幅のある石段を上がります
境内に入ると 左手に 手水舎があり 清めます
正面に社殿が建ちます
拝殿にすすみます 鳳凰の見事な彫刻の下に扁額があり「上一宮大粟神社」とあります
拝殿の右側の柱に祓詞が掲げられています
これは「三種大祓(sanshu no oharae)」と呼ばれる呪文です
天津祓い(天津神)・吐普加身依身多女(とふかみえみため)
国津祓い(国津神)・寒言神尊利根陀見(かんごんしんそんりこんたけん)
蒼生祓い(草草民)・波羅伊玉意喜餘目出玉(はらいたまひきよめいたまう)
神代から 我が国に伝わる「祓詞」の言葉の中で 最も効力のあるとされる言霊で 神道の秘伝の祝詞ともされています
ここは四国の霊場でもあります
御祭神 大宜都比売命
とほかみえみため かんごんしんそん
りこんだけん はらいたまひきよめでたまふ
大粟の大神 まもりたまひ さきわひたまへ施主 四国曼荼羅霊場先達会
拝殿の天井絵は見事です
拝殿内の扁額にも「上一宮大粟神社」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は 朱というよりは赤に近い色です
これは 大宜都比売命が 保食神(ukemochi no kami)と同一神とされていて「大いなる食物の女神」ですので 上一宮大粟神社は全国の稲荷神社の元社ともいわれています
眷属は 大きな狐であるとされていて
大粟神社の言い伝えでは、「大宜都比売命は 黄金の狐を遣わして国の危機を救う」といわれているそうです
境内社にお詣りをします
拝殿の向かって右横の小高い位置にある境内社
・大御神社(omi jinja)
《主》豊玉姫命(toyotamahime no mikoto)
お祀りされている水の神「豊玉姫命」で 拝殿と大御神社の間に 苔むした井戸があり水が湧き出ています
石碑書きよると「天の真名井」とされています
水源地は 山頂近くにあるようです
拝殿の向かって左側の境内社
・粟神社(awa jinja)
《主》大物主神(omononushi no kami)
広い境内から隣に見えているのは 四国三十三観音霊場第4番札所神宮寺です
神宮寺ですので 境内からは繋がっています
神仏習合の名残りが色濃く残っています 立派な鐘楼も神社側にあります
鐘楼の隣には 赤い鳥居の境内社(神宮寺の管轄)
・瑜伽大権現(yuka daigongen)が鎮座しています
神仏習合の阿弥陀如来・薬師如来が本地仏ですが やはり稲荷のように赤鳥居でキツネが祀られていました
大師堂にもお参りをして 境内を戻ります
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』元慶7年(884)12月28日に記される伝承
埴土女屋神(hanitsuchimeya no kami)の神階について 記述があります
意訳
「元慶7年(884)12月28日 阿波国 従五位下を授く 埴土女屋神」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『古事記(kojiki)』国生みの段(四国) に記される伝承
阿波の国は 大宜都比売(ogetsu hime)と呼ぶと記されています
意訳
「 次に 伊予之二名島(iyono futanano shima)(四国)をお生うみになりました
この島は 身一つに顔が四つあります
その顏ごとに名があります
伊予の国は 愛比売(e hime)といいます讃岐の国は 飯依比古(ihiyori hiko)といいます
阿波の国は 大宜都比売(ogetsu hime)といいます
土佐の国は 建依別(takeyoriwake)といいます 」
【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『古事記(kojiki)』五穀の起源(大気津比売神) に記される伝承
オオゲツヒメという神名は「大いなる食物の女神」という意味です
五穀の起源を記しています
意訳
「 そこで 八百万神は一緒に相談をして 速須佐之男命にたくさんの贖いの物を負わせ また鬚と手足の爪を切り 罪を贖わせて神やらいにやらった(追放した)
また(須佐之男命は)食物を大気津比売神に求めました
すると 大気都比売神(ogetsuhime no kami)は鼻・口と尻から種々の美味しい物を取り出して さまざまに調理し盛り付けて差し出した時に
速須佐之男命は その様子を伺っていて 食べ物を穢けがして供したと思い それで その大気都比売神(ogetsuhime no kami)を殺してしまいましたそうして 殺された神の身に生じた物として
頭に 蚕が生じ
二つの目には 稲種が生じ
二つの耳には 粟が生じ
鼻には 小豆が生じ
陰部には 麦が生じ
尻には 大豆が生じましたそこで 神産巣日御祖命(kamimusubi mioya no mikoto)は この(大気都比売神の体に)生じた種を取らせました 」
【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(nihon shoki)』第五段一書に記される伝承
『古事記』では大気津比売神が 速須佐之男命に殺害される記述でしたが
『日本書紀』では 保食神(ukemochi no kami)が月夜見尊(tsukuyomi no mikoto)によって殺害される記述になっています
このことから 上一宮大粟神社では 稲荷神と大宜都比売命(ogetsuhime no mikoto)を同神として捉えていて 本殿も朱色としています
意訳
「 ある書によると
伊弉諾尊は三貴神(天照・月夜見・素戔嗚)に言いました
「天照大神は高天原を治めなさい
月夜見尊は『日』と共に天を治めなさい
素戔嗚尊は海を治めなさい」天照大神(amaterasu okami)は 天上においでになっておっしゃるのに
「葦原中国に保食神(ukemochi no kami)がおられるそうです
月夜見尊(tsukuyomi no mikoto)よ 行って見てきなさい」月夜見尊は 命を受けてお降りになり そして保食神のもとにおいでになりました
保食神が 首を回して 陸に向かわれると口から米の飯が出てきました
また海に向かわれると 口から鰭(hire)の大きな魚や小さな魚が出てきました
また山に向かわれると 口から毛皮の獣たちが出てきました
その様々な物を全て揃えて 沢山 机にのせておもてなしをしました
このとき 月夜見尊は 顔色を変えて憤然としていわれます「汚らわしいことだ いやしいことだ 口から吐き出したものを わざわざ私に食べさせようとするのか」
そして剣を抜いて 保食神を斬り殺されましたそして高天原に帰り 復命して詳しく申し上げられました
天照大神は 非常にお怒りになって言われるには「お前は悪い神だ もうお前には会いたくない」とおっしゃって 月夜見尊とは 昼と夜とに分れて 交代に住まわれましたこの後 天照大神は 天熊人(ameno kumahito)(神に供える米を作る人)を地上に遣して 行って見させました
保食神は すでに死んでいましたところが
その神の頭に 牛馬が生れ
額の上に 粟が生まれ
眉の上に 蚕が生まれ
眼の中に 稗(hie)が生じ
腹の中に 稲が生じ
陰部に 麦と大豆・小豆が生じていました天熊人は それをすべてとって持帰りました
すると 天照大神は喜んでいわれるのに「これらの物は 顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ)=(人民)が生きて行くのに必要な食物です」そこで 栗・稗・麦.豆を畑の種とし 稲を水田の種としました
それで 天の邑君(村長)を定められました
その稲の種を天狭田(amano sanada)と長田に植えました
その秋の垂穂は 八握りもある程しなって 大いに気持が良く また大神は 口の中に 蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来ました これから はじめて養蚕ができるようになりました 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用