地御前神社(じごぜんじんじゃ)は 飛烏時代(593年)佐伯鞍職によって宮島を遥拝する対岸に創建されたと傳 地御前は「本土の地にある神の御前」「ヂノゴゼン」と云い〈神の島として崇められ かつて人があがる事は許されなかった〉厳島を沖の御前「オキノゴゼン」と云った 延喜式内社 安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(名神大)(いつきしまの かみのやしろ)の祭祀が行われた処とも傳
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
地御前神社(Jigozen shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
広島県廿日市市地御前5丁目18−9
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈大宮社(本殿)〉
《主》市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
〈客人社(宮殿)〉
《主》天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
天穂日命(あめのほひのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)
〈正面向かって右 大宮社(本殿) 向かって左 客人社(宮殿)〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 嚴島神社(廿日市市宮島町)の前宮とも
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考〉
・ 嚴島神社(廿日市市宮島町)の外宮
【創 建 (Beginning of history)】
嚴島神社摂社 地御前神社々記
広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座
一.御祭神
御本宮は嚴島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命の所謂 宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は嚴島神社の御客人宮の御祭神に同じ。二.御由緒
御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には嚴島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。
明治御維新までは、嚴島神社御本宮を内宮、地かたの御前の御本宮を嚴島外宮と称えたり。御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。
嚴島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐伯鞍職に幽事を治め、百王を鎮護す。」と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。
- 祭日
陰暦五月 五日 御陵衣祭。雅楽舞「後の舞」。流鏑馬神事あり。端午の節句。
陰暦六月十五日 管弦祭御洲堀神事。
陰暦六月十七日 嚴島御本宮管弦祭。廿日市市観光協会
廿日市市商工会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
地御前神社
由 緒
推古天皇即位元年(593)嚴島御本社と同時の創建と伝えられる。
宮島には昔は神職も住まなかったため、風波などで島に渡れない時は此所で祭典をした。嚴島の方を内宮と呼び之を外宮と称した。地御前神社と呼ぶのは、嚴島御本社を島の御前と呼び、それに対して地の御前と呼んだことによる。
管絃祭の時には島外で唯一、沖合の御座船上で祭事を執り行い管絃が奏される。
嚴島神社公式HPより
『郷土史 地御前ものがたり』 地御前神社
〈平成27年度 廿日市市地域向上助成事業〉
地御前神社は、通称桃山を社叢にして明神が浜を前面に御鎮座されています。かっては厳島神社の外宮であり、現在は厳島神社の摂社である。鎮座も、厳島神社と同じ時期、飛鳥時代(推古天皇)593年に外宮として佐伯鞍職により創建され後に、平清盛の絶大なる支援者、佐伯景弘によってほぼ現在の姿に造営された。
地御前神社には、市杵島姫命の他に、下記の神が祀られている。
大宮社(本殿) 市杵島姫命•瑞津姫命•田心姫命
客人社(客殿) 天忍穂耳命•天穂日命•天津彦根命
活津彦根命・熊野機樟日命
地御前神社は、宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火により、近隣117軒が焼失し、外宮社再建のため神社横の恵比寿社前で市が開かれ、宝暦10年(1760)再建記念として、舟形手洗いが寄贈された。安政5年(1858)正月6日にも大火により、拝殿・お旅所・お供え所・神馬屋•釈迦堂が焼失し、大正5年 (1916)拝殿が再建された。
地御前神社前の鳥居は、仁治元年(1240)明神が浜の御池に木造の大鳥居が建立され、享和元年(1801)に建て替えられている。現在の石鳥居は、明治31年(1898)に建立された。管絃祭が旧暦6月17日におこなわれ、日本海上三大祭りとして有名で、地御前神社・厳島神社は多くの参拝者で賑わった。また、御座船に御鳳輩(ごほうれん)を乗せ多くの神職が乗るようになったのは、明治14年(1881)3隻の船を繫ぐようになってからで、明治初期までは、御座船は、地御前神社横まで寄せることができた。拝殿の横の丸柱が中途でないのは、管絃船を繫ぐためであるとも考えられる。
柱の下が角ばっているのは柱が腐敗した時取り換えたため、この様になった。
厳島神社・地御前神社・極楽寺の位置関係
弥山の真北の島に内宮(厳島神社)が位置し、その延長上の真北の本土に外宮(地御前神社)がおかれている。そしてまたその真北の山の山頂に極楽寺が位置します。その向こうに北極星が見える。
『郷土史 地御前ものがたり』〈平成27年度 廿日市市地域向上助成事業〉より抜粋
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・胡子神社(えびすじんじゃ)
・忠魂碑
〈皇威輝八紘(こういはっこうにかがやく)陸軍大将 伯爵 寺内正毅 書と刻字〉
・舟形の手水鉢
〈地御前神社は 宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火で民家共々焼失 宝暦10年(1760)に再建の際に寄進された手水鉢〉
・石鳥居〈明治31年(1898)建立〉と狛犬
〈現在の石鳥居は 元々は 仁治元年(1240)明神が浜の御池〈厳島神社と同様に海の干潟〉に木造の大鳥居が建立され 享和元年(1801)に建て替えられている〉
鳥居の扁額の刻字は
海側には゛嚴島外宮社゛
陸側には゛地御前神社゛
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈地御前神社は 嚴島神社(廿日市市宮島町)の外宮〉
・嚴島神社(廿日市市)安芸国一之宮
・嚴島神社 摂社・末社について
嚴島神社(いつくしまじんじゃ)の境内・境外の要所 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を記載しています 続きを見る
嚴島神社(宮島)・摂社・末社などについて
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
伊都岐嶋神の神名で 名神に預かる 春夏秋冬 四季に幣を奉る と記されています
【抜粋意訳】
巻廿一 弘仁二年(八一一)七月己酉〈十七〉
○己酉
安藝國 佐伯郡 速谷神 伊都岐嶋神 並預名神例 兼四時幣
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
全国の諸神267社とともに 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道の諸神に 進階(クライ)を及び 新(アラタ)に叙つ 惣(スベ)て 二百六十七社なり 奉授に
淡路國无品勳八等 伊佐奈岐命 一品
備中國三品 吉備都彦命 二品
・・・・
安藝國
正五位下 伊都岐嶋神
從五位上 速谷神 並從四位下
從五位下 多家神從五位上
・・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻十四 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉
○十三日戊寅
勅加松尾神社封二戸
授 安藝國
從四位下 伊都岐嶋神 速谷神 並從四位上
從五位上 安藝都彦神 正五位下
正六位上 生石神 從五位上
正六位上 伊都嶋宗形小專神 樌神 並從五位下
出羽國 長安寺 預之定額
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・伊都伎嶋神社 一座 多家神社 巳上 安囈國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安囈国 3座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐伯郡 2座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 伊都伎嶋神社(名神大)
[ふ り が な ](いつきしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsukishima no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
地御前神社(廿日市市地御前)を嚴島神社の前宮とする説
地御前神社(廿日市市地御前)を嚴島神社の前宮とする説は
元々〈聖地 宮島は かつて島そのものが神として崇められ 人があがることが許されなかった〉 厳島対岸の陸地側〈地御前〉を遙拝處として 厳島に嚴島神社が建立される以前の厳島弥山信仰の拠点とする説です
飛烏時代(593年)に 佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって地御前神社が創建されたと伝わり
地御前は「本土の地にある神の御前」「ヂノゴゼン」と云い 現在は「ジゴゼン」
厳島を沖の御前「オキノゴゼン」と云った
御神体 宮島を遥拝する対岸に創建されたのが 地御前神社の前身とされます
嚴島神社の社伝によれば 地御前神社(廿日市市地御前)の創建は 嚴島神社と同時(593年)推古天皇の時代と云い伝わります
つまり 嚴島神社の創建以後も 〈聖地 宮島は かつて島そのものが神として崇められ 人があがることが許されなかった〉厳島〈宮島〉への祭祀は 対岸の此の地 地御前神社(廿日市市地御前)で行われていました
当然 参拝者も島に渡る事は許されず 地御前に設けられた遥拝處から参拝していたとされます
〈考古学的調査により 太古 縄文時代 縄文人は宮島に居住有〉
元々 此の地〈地御前〉が 厳島に嚴島神社が建立される以前の厳島弥山信仰の拠点とするものです
嚴島神社の巫女 内侍(女性神職)について
平安時代後期〈仁安3年(1168年)頃〉平清盛公によって 厳島に社殿が造営された時 同時に地御前神社も大改築されたと伝わり
その当時の地御前神社は 殿舎(社殿・堂宇)が19も存在する大きな〈神仏習合〉神社でしたので
中世前期(平安末~鎌倉時代)地御前神社には 社家一族・その他多くの・神職・供僧が生活をしていたことになります
一方 嚴島神社は 内侍(女性神職)が中心となって 神社に仕えていたようです
中でも 平清盛公の寵を受けた厳島内侍(いつくしまのないじ)は 有名です
平安末頃 嚴島に居住したのは 最初は内侍(女性神職)だけでしたが やがて十四世紀の頃あたりから 社家(男性神職)・神職・供僧が そして一般人も厳島に移住して行き 地御前神社は 嚴島の遥拝所としての役割を終えて行き 規模が縮小されたと考えられています
現在 地御前神社は 嚴島神社(廿日市市宮島町)の摂社・外宮とされています
地御前神社が 嚴島神社の外宮とされる理由
伊勢神宮の内宮〈天照大御神〉への〈お食事を司る神様〉御饌都神(みけつかみ)として伊勢神宮の外宮〈豊受大御神〉が祀られる関係に似ているとも云われています
それは 地御前の海岸は 昔は相ノ浦(アイノウラ)と呼ばれていた
相(アイ)という言葉〈塩魚類を総称する古語〉のある海岸地名は 漁場を表す場所が多く
相ノ浦の地名も 嚴島神社への魚介類を御饗(みあえ)として供する饗ノ浦(アエノウラ)が由来であろうとされてます
古代から厳島〈宮島〉とは関係が深く
江戸時代までは地御前神社の目の前までが海が迫り 海中に鳥居が立ち 拝殿横に船を係留したと伝えられています
現在は 社殿の前を 国道2号が通り 社殿の背後をJRが通り 海は埋め立てられて広電が通っています
国道が開通した記念碑が境内にあり 案内板があります
国道開鑿碑(こくどうかいさくひ)
明治維新以降、嶺・峠・坂が続く往還から平らな道の必要性が生まれた。明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より始まった。明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。そして明治13年2月にはついに大竹まで新道が開通した。
工事費は当時の金額で三万円余りを費やし、その殆どが民間 有志の寄付金で賄われた。道路にかけた当時の民衆の熱意の高さをうかがい知ることが出来る。
碑文では、「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するための大運動を展開した。結果、神社前の国道2号線が完成した。」と伝えている。明治18年8月 明治天皇西巡の際、聖駕(せいが)(天子の乗り物)をお通しし歓呼して天皇をお迎えした。明治20年の国道開鑿碑建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号「平成」の由来の一つと言われている。)
碑の裏面には当時の佐伯郡東は己斐村より、西は大竹に至る86ヶ村の世話役修路従事者510名の芳名が刻されて感謝の意が表されている。明治20年(1888)2月建立 令和2年(2020)5月修復 令和2年(2020)11月
地御前地区自治会 地御前郷土文化保存会 地御前市民センター企画運営委員会現地案内板より
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
広電 地御前駅から R2号を南下約600m 徒歩8分程度
国道2号の旧道を進むと 左手に釈迦堂 右手に地御前・大歳神社があります
すぐ脇をJRの線路が通っています
踏切の先に見えている木立の前方〈左〉が境内の杜 社殿後方〈右〉の杜は通称 桃山です
踏切を渡り すぐに民家沿いに広電の線路沿いに駐車場がありました
境内の前方を広電 後方をJRに挟まれている場所です 車を下ります
社殿のすぐ前を通っているのは 国道2号の旧道です
地御前神社(廿日市市地御前)に参着
海からの参道の名残の狛犬と石灯籠が海を向いています
参道の先は かつては 海であった場所が埋め立てられて 現在は広電の線路と国道2号の新道が海岸線を通って その先に海岸堤防があり 海になっています 海の参道は真東を向いています 嚴島は真南です
狛犬の座す参道を進みます
一礼をして鳥居をくくります
石鳥居の扁額には゛嚴島外宮社゛と刻字
拝殿は大正3年(1914)に再建されたものですが 立派な大きさにびっくりします すぐ前を国道が通っているのも珍しいですが 明治時代には 鳥居の前は海でしたから どこにも土地が無く ここに道を通した訳です
拝殿にすすみます
拝殿に掲げられた絵馬は゛宮島 夏の風物詩 管絃祭゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 ・本殿〈大宮社〉・宮殿〈客人社〉が祀られています
境内には 胡子神社が祀られています
こちら〈向かって右側〉が 渡り廊下のような幣殿と・本殿〈大宮社〉です
すぐ後ろをJRの線路が通っています
線路の奥の杜は 通称 桃山です
真横から見ると
正面鳥居方向を見ると 丁度 広電が通過しています
社殿の向かって左側からは
渡り廊下のような幣殿と・宮殿〈客人社〉が祀られています
社殿に一礼をします
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊都伎嶋神社(名神大)について 地御前 海上一里許〈現 地御前神社 (廿日市市地御前)の沖合〉宮島に在す 嚴島明神と稱す〈現 嚴島神社(廿日市市宮島町)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊都伎嶋神社(名神大)
伊都伎嶋は 假字なり、島は志麻と訓べし、
〇祭神 市杵島姫命、頭注
〇宮島に在す、嚴島明神と稱す、社記
〇當國一宮なり 一宮記
〇式三、臨時祭、名神祭 二百八十五座、中略 安囈國 伊都伎嶋神社 一座 、
〇日本紀、神代上「於是、天照大神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、噛然咀嚼(噛然咀嚼、此云佐我彌爾加武)而吹棄氣噴之狹霧(吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理)所生神、號曰田心姫。次湍津姫、次市杵嶋姫、凡三女矣」、古事記云、市寸島比賣命、
諸社根元記云、市杵嶋姫神、田心姫神、湍津姫神、已上三座、」
囈州志云、在ニ佐西郡海中、去ニ地御前 海上一里許、周廻七里、本社六座、客人宮五座、相比與ニ地御前宮遥相対、廻廊百八十間、自ニ本社之左右出于比通于彼、中略 倩思、本社寶天照大神第一之御子、市杵嶋姫命者乎、第三瀧津姫命者、豊前國宇佐明神是也、今嚴嶋山頭有ニ瀧権現祠、恐祭ニ瀧津媛命者乎、第三田心姫命者、筑前國 宗像明神是也、按今、阿波國 小鳴戸之傍堂浦有宮、號ニ青宮、又稱ニ安囈神、相傳、嚴島姫命之妹、恐田心姫命歟、中略 今嚴嶋本社五座、未知合ニ宮島者、先祭ニ客人宮、依此則、所出之神而、祭ニ天照大神者必也、下略鎮座
諸社根元記云、或説曰、推古天皇丗二年癸丑十二月十二日甲甲顯坐須、船中仁女房三人御出現、洗米進 須倍志、其数五十三進須、佐伯鞍職御供 天仁、此恩賀島・・・・・社職
山槐記、治承四年三月、御幸間被行勤賞、中略 神主景弘、祝師支之、已上二人一階、」・・・
座主
尊叡 見ニ盛衰記焼亡
帝王編年記云、文永元年七年正月二日寅剋、安藝斎島社壇悉以焼失、往昔以来未有ニ此災人皆謂、神火可驚可恠、雑事
百練抄、安元元年六月十六日、日前宮、熱田、嚴島、氣比等社、本地御正體圖繪像、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊都伎嶋神社(名神大)について 地御前の南、海中にある嚴島に在り〈現 地御前神社 (廿日市市地御前)の南 沖合の宮島 嚴島神社(廿日市市宮島町)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊都伎島(イチキシマノ)神社
今 佐西郡 地御前の南、海中にある嚴島に在り、藝備國郡志、嚴島道芝記、安芸國圖、三才圖會、
市杵島姫命を祭る、日本書紀、古事記、延喜式、神名帳頭注、
即 安藝の一宮也、源平盛衰記、一宮記、嵯峨天皇 弘仁二年(八一一)七月己酉〈十七〉安藝國 佐伯郡 伊都岐嶋神を名神に例れ、四時幣に預らしめ、日本後紀、
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉安藝國正五位下より従四位下を授け、貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉從四位上を加へ、三代実録
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、延喜式
朱雀天皇 天慶三年二月一日丁酉、正四位下を授奉り、長寛勘文
高倉天皇 承安四年三月癸卯、後白河上皇 建春門院に行幸し給ひき、
近年以来、平清盛の族類、殊に此神を崇奉るを以て也、玉海、百練抄、源平盛衰記、
治承二年六月庚辰、中宮懐孕の御所に、幣を奉らしむ、山槐記、
清盛其の皇子を生奉らむ事を冀ひ、月毎に嚴島に詣つるに、神験頻りに著るを以て、神社の内待巫女をして、事ある毎に必之を祈りき、此後 朝廷も亦 此神を敬給へり、長門太平物語、源平盛衰記、参酌山槐記、
三年三月甲申、是よりさき大外記 清原頼業、中原師尚等に勅して、本社を廿二社に加へ、祈年穀奉幣あるべき由を議せしむ、此に至て二月十一月上申日を祭日とし、・・・・・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊都伎嶋神社(名神大)について 所在は 厳島〈現 嚴島神社(廿日市市宮島町)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊都伎嶋神社(名神大)
祭神
田心姫命 市杵島姫命 湍津姫命神位
嵯峨天皇 弘仁二年(八一一)七月己酉〈十七〉安藝國 佐伯郡 伊都岐嶋神 並預名神例 兼四時幣
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉安藝國正五位下 伊都岐嶋神 従四位下
清和天皇 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉授 安藝國 從四位下 伊都岐嶋神 並從四位上
天慶三年二月一日丁酉授安芸國 伊都岐嶋神 正四位下 朱雀以下長寛勘文祭日
社格 国弊中社(官幣中社)
所在 厳島(佐伯郡厳島)
【原文参照】
地御前神社(廿日市市地御前)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・嚴島神社(廿日市市)安芸国一之宮
・嚴島神社(宮島)・摂社・末社について
嚴島神社(いつくしまじんじゃ)の境内・境外の要所 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を記載しています 続きを見る
嚴島神社(宮島)・摂社・末社などについて