石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉

石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

石床神社 旧社地(Iwatoko Shrine Former Site)

通称名(Common name)

・かつては
 甑明神こしきみょうじん)・巌上社(いわうえのやしろ)とも称された

【鎮座地 (Location) 

奈良県生駒郡平群町越木塚字井戸ノ上783

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》釼刃石床別命(つるぎたちいわとこわけのみこと)

※祭神を「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とする説あり

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

石床神社旧社地 平群町越木塚

 越木塚集落の南東部、伊文字川(いもじがわ)流域を見おろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭(ろとう)した高さ約6m、幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を御身体としている。『延喜式』に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床別命。貞観元年(859)には従五位上を授けられている。

 地域での磐座(いわくら)(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。

 大正13年(1924)に集蓉内の素盞鳴(すさのお)神社[現:石床神社]に合祀(ごうし)されている。

 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚(うどづか)古墳や西宮(にしのみや)古墳に運ばれており、古墳時代~飛鳥時代の石材産地でもある。

現地案内板より

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平群村越木塚青年団建設

石床神社 由緒記

平群石床神社は 醍醐天皇の御代(紀元千五百八十七年)延喜式神名帳に記され式内大社にして 諸祭には畏くも朝廷より奉幣の御事あり
 御創立 舒明天皇の三年 即ち紀元千二百九一の歳 肇国創業の御功神 饒速日命を祀らせ給いしに創る。
高さ九米巾十八米餘の巨石を御神体とする古代の神社形式を保ちこの巖下より湧出する清水は万病の薬になると「和名抄」に載せられたり

境内の消渇神社は分霊の祀る社なるべし、(古代祭祀の巨石遺跡あり南三〇〇米)

現地石碑文より
 
祭神は「饒速日命(にぎはやひのみこと)」と記しています

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【由  (History)】

石床神社旧社地 (いわとこじんじゃきゅうしゃち)

越木塚集落の南側、竜田川の支流、伊文字川の川沿い近くに鎮座。

平安時代の「延喜式」に大社として記載され、古社の多い平群谷の中でも異彩を放つ。

大正13年に北200mの集落内に移され、現在は消渇神社と祀られているが、旧社地はそのまま在る。

その最大の特徴は、巨大な岩が御身体となっていることで、崖に高さ8m、幅役30mの巨岩が露出し、中央に亀裂が入っている。
古来、この岩が御身体の磐座で、その形態から「陰石」(女性のシンボル)信仰として祀り伝えられてきたものと考えられる。

祭神は剣刃石床別命。

なお、還座された新しい神社には本殿、拝殿が立てられ御身体は陽石(男性のシンボル)様の自然石である。

平群町観光ホームページより
https://kanko.town.heguri.nara.jp/walk/spot/spot57.php

『奈良県史』第五巻 神社、奈良縣史編纂委員会編集 平成元年(1989)に記される内容

【抜粋意訳】

平群石床神社〔大。月次。新嘗〕

越木塚字井ノ上七三四)

 式内大社の当社の鎮座地は、越木塚字石床七八三で、越木塚集落下方の断崖に高さ約六メートル横幅数メートルの巨石があり、古来この宮の御神体とされてきた。元々神殿も拝殿もなかった神社で、今も雑草の茂みの中に数の石段と一の石灯篭と木造鳥居の石のみ残るに過ぎない。

 祭神について明治の「明細帳」や「宗教法人法による届出」には、剣刃石床別命とされている。創祀の時期は明らかでないが、三代実録の貞観元年(八五九)正月二十七日の条に、大和国従五位下 平群石床神、従五位上を授け奉るとあるところから、すでに貞観以前の創祀とみられる。
明治の「明細帳」に「神体ハ六尺三寸四面大石ニシテ往昔リ社殿無之将タ境内中建物無之、唯古物ナル石灯籠 本ニキス、将タ村民ニ於テモ常夜灯致シ来リタルニ御維新以来 氏神崇敬シ 明治十年三月境内修繕標木  御供所ヲ許可ヲ得テ之ヲ建築ス。御供所 桁行五間行一間三尺 境内坪數二三八坪 氏子三二戸」とある。

 明治四十四年九月廿七日 境外摂社として越大塚小字井戸上の素戔嗚神社と七社神社を当社に合併したが、大正九年二月二十三日付許可により 境外摂社所在の現在地に、本殿と拝殿を設けて大正十三年十月二十四日に旧鎮座地から遷座した旨届出ている。

 今の社地は 越木塚集落の上手の小丘陵上で、中央本殿に主神を、左右二社に太玉命と素戔鳴命を祀る。
神社は古来 素戔嗚神社の末社であったが、今も石床神社ま上の丘陵に鎮座、婦人の守護神として名がある。祭神 大己貴命。

【原文】

『奈良県史』第五巻 神社、奈良縣史編纂委員会編集 平成元年(1989)

『大和志料』中巻,昭和19年に記される内容

【抜粋意訳】

平群石床(ヘグリノイハトコ)神社

 平群村大字越木塚ニアリ。延喜式ニ「平群石床神社〔大月次新嘗〕」ト見ユ。
今村社タリ。祭神ハ、日本總國風土記ニ「平群石床神社圭田八十二束三毛田、所祭 饒速日命也 舒明三年辛卯三月始奉圭田行神禮歳」トアルモ信ジ難シ、案ズルニ大和志ニ「在ニ越木塚村 稱曰ニ巖上祠 傍有ニ巨石 名ニ石床」トアリ。
石床(イハトコ)ハ 一ニ 乳床ト稱シ、鍾乳中ヨリ出ヅルモノナリト云フ。
然ラバ古、此巨石ニ乳床ヲ産出スルアリテ、當時 其ノ靈ヲ祭リ、直ニ社名トナセルモノナルベシ。
 神社覈録ニ云「本草和名云 石牀〔乳水下凝積生如箏状〕一名乳床、一名逆石、出ニ鍾乳中・・・・・往昔は此地 石床の出たる所にて其霊を祭れる社なるべし、備中國鐘乳穴神社あるをも考へ合すべし」ト。以テ證スベシ。

註 祭神ハ明細帳ニ「劔刀石床別命」ト、特選神名牒ハ「石床別命」トアリ。 

【原文参照】

奈良県教育会 編『大和志料』中巻,養徳社,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1143230

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・〈御神体〉巨岩(陰石)(高さ約6メートル、幅十数メートル)

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・鳥居・拝所

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・石床の井戸(いわとこのいど)

石垣の左側 板で蓋がされています

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【石床(いわとこ)の井戸】

石床神社旧社地の境内地の南側、御神体の巨岩(陰石)の西側にあり、石組みの井戸が口を開けている。

越木塚南垣内20余戸の飲料水として大切にされてきた神の水。

「雷がこの井戸の傍らの松の巨木に落ち、この井戸に飛び込んだ。そこで、石床の大神が傍らの石蓋をとって井戸に蓋をした。すると閉じ込められた雷さんが今後決して越木塚には落ちませんからと懇願した。そこで、石床の神が2度と越木塚に落ちないように誓わせ、蓋を開けた。すると1匹のイタチが飛び出した。」

という面白い昔話も伝わっている。

平群町観光ホームページより
https://kanko.town.heguri.nara.jp/walk/spot/spot35.php

・社頭

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・全景

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈現在の社地〉石床神社(平群町越木塚)

現社地は ここより北へ200m程です

〈旧鎮座地〉石床神社 旧社地(平群町越木塚)から 大正13年(1924) 〈現在の社地〉石床神社(平群町越木塚)〈境外摂社 素盞嗚神社の境内地(分霊社 消渇神社の境内奧に鎮座)であった場所〉に遷座しました

・石床神社(平群町越木塚)の記事を参照ください

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

平群石床神として 京畿七道諸神 惣二百六十七社と共に進階及新叙 が記されています

【抜粋意訳】

卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申

○廿七日甲申 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社

奉授

淡路國
 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國
 三品吉備都彦命二品
神祇官
 无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神並從四位上
宮内省
 從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下

山城國・・・・
・・・・〈中略〉

大和國
 從一位大己貴神正一位

 正二位葛木御歳神。從二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神。從二位高市御縣鴨 八重事代主神。從二位勳二等大神大物主神。從二位勳三等大和大國魂神。正三位勳六等石上神。正三位高鴨神 並從一位

 正三位勳二等 葛木一言主神。高天彦神。葛木火 雷神 並從二位

 從三位 廣瀬神。龍田神。從三位勳八等多坐彌志理都比古神。金峰神 並正三位

 正四位下 丹生川上雨師神從三位。從五位下賀夜奈流美神正四位下。從五位下勳八等穴師兵主神。片岡神。夜岐布山口神 並正五位上

 從五位下 都祁水分神。都祁山口神。石寸山 口神。耳成山口神。飛鳥山口神。畝火山口神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。吉 野水分神。吉野山口神。巨勢山口神。葛木水分神。鴨山口神。當麻山口神。大坂山口神。 伊古麻山口神 並正五位下

 從五位下 和爾赤坂彦神。山邊御縣神。村屋禰富都比賣神。池坐朝霧黄幡比賣神。鏡作天照御魂神。十市御縣神。目原高御魂神。畝尾建土安神。子部神。天香山大麻等野知神。宗我都比古神。甘樫神。稔代神。牟佐坐神。高市御縣神。輕樹村神。天高市神。太玉命神。櫛玉命神。川俣神。波多〓井神。坐日向神。卷向若御魂神。他田天照御魂神。志貴御懸神。忍坂生根神。葛木倭文天羽雷命神。長尾神。石園多久 豆玉神。調田一事尼古神。金村神葛木御縣神。火幡神。往馬伊古麻都比古神。平群石床神。 矢田久志玉比古神。添御縣神。伊射奈岐神。葛木二上神 並從五位上

无位 水越神從五位下。

河内國・・・
・・・〈以下略〉

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に

以下のように 社ごとに幣帛(神への供物)を奉る

絁(あしぎぬ)五尺
五色の薄絁(うすぎぬ)各一尺
倭文(やまとぬの)一尺
木綿(ゆう)二両
麻五両
倭文・絁・布をそれぞれ刀の形にしたもの(まきかたなかた)各一口
四座をまとめて一束 八座をまとめて一束とする
弓一張、靫(ゆき)一口
楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿
鹿の角一隻、鍬一口
庸布(ちょうふ)一丈四尺
酒四升
鰒(あわび)・堅魚(かつお) 各五両
腊(ほしにく)二升
海藻・滑海藻・雑海菜 各六両
堅塩一升
酒坩(かめ)酒を入れる壺一口
裹葉薦(うらはこも)五尺
祝詞(のとこと)を奏する座の敷物として短畳一枚

前一百六座(下位の神)への奉献

次に 前一百六座の神々(小社)は次の幣帛を奉る

絁五尺
五色薄絁各一尺
倭文一尺
木綿二両、麻五両
四座ごとに一束 八座ごとに一束とする
楯一枚
槍鋒一口
葉薦五尺

特別な奉献を受ける神々

これらの神々への祭祀は 祈年祭(2月)と同様に行うが 特に次の四神には馬一疋を加えて奉る

太神宮(内宮:伊勢神宮)
度会宮(外宮:伊勢神宮)
高御魂神(たかみむすびのかみ)
大宮女神(おおみやめのかみ)
ただし 太神宮と度会宮にはさらに「籠頭料(こもがしらりょう)庸布一段」を加える

祭の準備と執行

祭の五日前に 忌部(いんべ)九人と木工一人を召して 神に供えるための器物(供神調度)を作らせる

その監造者および清浄な衣 食の費用は 祈年祭の例に準じる

祭が終わると 中臣官(なかとみのつかさ)の一人が宮主および卜部らを率いて宮内省へ行き 神に供える「今食(いまけ=その日の御饌)」の奉仕者(小斎人(みのひと)を卜占によって定める

今食(いまけ)に供する品目

神に供える「今食(いまけ)」の品およびその料(材料)は次の通り

紵(からむし)一丈二尺(御巾料)
絹二丈二尺(篩(ふるい)料)
絲四両(縫篩などの料)
布三端一丈(膳部巾料)
曝布一丈二尺(覆水甕料)
細布三丈二尺(戸座襅(へさたまき)および褠料)
木綿一斤五両(結御食(みけ)料)
刻柄(きさたるつか)刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚
筥(はこ)六合 麁(あら)筥二合、明櫃三合
御飯・粥料の米 各二斗、粟二斗
陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶(かめ)各五口
都婆波・匜(はふさ)・酒垂 各四口
洗盤・短女杯(さらけ) 各六口
高盤二十口、多志良加(に瓶のような器)四口
陶鉢八口、叩盆四口、臼二口
土片椀(もひ)二十口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口
手洗二口、盤八口、土手湯盆(ほん)二口、盆(ほとき)四口、堝十口
火炉二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚
槲(かしわ)四俵、匏(ひさご)二十柄
蚡鰭(えひのはた)槽(二隻:御手水用)
油三升
橡帛三丈(戸座服料、冬絁一疋、綿六屯、履一両)

供御の奉仕と終了後の処理

右に掲げた供御および雑物は それぞれ内膳主水などの司に付け 神祇官の官人が神部を率いて 夕暁(よひあかつき)夕方と翌朝の二度 内裏に参って奉仕する

供え終わった諸物は 祭が終わると中臣・忌部・宮主らに下賜され その取り扱いは 大嘗会(だいじょうえ) の例に準じて行う

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り 天皇がその年の新穀(しんこく)を神に供え みずからもこれを食して その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ

春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)平群郡 20座(大12座・小8座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 平群石床神社〔大 月次 新嘗〕
[ふ り が な ](へくりの いはとこの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hekurino ihatoko no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

古代豪族「平群氏(へぐりうじ)」については

 平群氏(へぐりうじ)は
 大和国平群郡 平群郷(現在の奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代豪族です

『日本書紀』には 履中天皇の御代に国事を執った「平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)」は 武内宿禰の子で 平群氏およびその同族の祖とされ 

平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)の子 平群真鳥(へぐりの まとり)は 葛城氏没落後に 雄略朝以降の4朝〈雄略朝・清寧朝・顕宗朝・仁賢朝〉の大臣(おおおみ)を歴任して 一族は興隆を極めました

詳しくは下記の記事を参照

「古代豪族「平群氏」の興亡と信仰 ― 古代大和王権における平群氏の歴史と式内社」

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄生駒線 竜田川駅から西へ約1.3km 徒歩での所要時間18~22分程度

竜田川の支流 伊文字(いもじ)川を遡上するように西へ向います

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社殿はなく 朱塗りの鳥居とともにご神体の巨岩(高さ約6メートル 幅十数メートル)が太古のまま 石垣の上に鎮座しています

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平安時代の延喜式神名帳』に大社として記載され古社 平群谷の中でも異彩を放っています

石床神社 旧社地(平群町越木塚)に参着

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社頭の斜面は 石垣で養生されています

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石垣の前の道路は舗装されています

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石段を上がって 境内へと進みます

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殿はありません 古代祭祀形態をそのまま残す神社で

ご神体の巨岩(高さ約6メートル 幅十数メートル)「陰石」安産や五穀豊穣の神として崇められたと伝わります

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鳥居をくぐり 拝所にて

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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ご神体の巨岩(高さ約6メートル 幅十数メートル)「陰石」です

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深々と一礼をして 境内を戻ります

ご神体の巨岩の向かって左の石垣のはずれに「石床の井戸(いわとこのいど)」があり 石垣の左側 板で蓋がされています

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境内を振り返ります 石段を下りようとした時 社前の南側に面して 田園地帯広がっています

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ああ ここ石床神社 旧社地は「五穀豊穣と子孫繁栄を祈る里人を守る神社」で 古来の巨石信仰が守られてきた訳がわかったような気になりました

東側には 眼下に平群谷を見下ろしていています

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又 ひとつ もしかするとと思いついたことがありました
ここは 平群谷の西側で 女性のシンボルである陰石を祀る石床神社があります
一方 平群谷の東側には 船山神社境内に男性のシンボルである陽石られています

船山神社の陽石石床神社陰石」は 平群谷を挟んで 対をなしているのかも?? しれません

船山神社については 船山神社の記事を参照

延喜式内社 大和國 平群郡 船山神社(ふなやまの かみのやしろ)

・船山神社(平群町三里)
・船山神社 旧鎮座地(平群町三里)

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 平群石床神社〔大月次新嘗〕について 所在は゛越木塚村に在す、今 巌上社とす、傍に巨石あり、石床と名づく、゛〈現 石床神社旧社地(平群町越木塚)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群石床神社〔大月次新嘗〕

 平群は郡名に同じ、和名鈔、〔郷名部〕平群、〔倍久利〕」

石床は伊波止古と訓べし、

〇祭神 饒速日尊

○越木塚村に在す、今 巌上社とす、傍に巨石あり、石床と名づく、大和志、同名所圖繪〕

〇惣國風土記残云、石床神社、圭田八十二束三字田、所祭 饒速日尊也、舒明天皇年辛卯月、始奉圭田行神禮蔵祭、

 本草和名云、石牀、〔乳水下凝積生如箏状〕一名乳床、一名逆石、出ニ鍾乳中」

連胤按るに、往昔は此地 石床の出たる所にて、其霊を祭れる社なるべし、備中國鐘乳穴神社あるをも考へ合すべし

神位
 三代録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和 從五位下 平群石床神從五位上、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 平群石床神社〔大月次新嘗〕について 所在は゛ 越木家村に巖上祠あり、傍の一大石を石床と云゛〈現 石床神社旧社地(平群町越木塚)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群石床(ヘグリイハトコノ)神社、

 越木家村に巖上祠あり、傍の一大石を石床と云、蓋是也、大和志、名所圖繪、〕

清和天皇 貞観元年正月甲辰、従五位下より従五位上を授け、〔三代実録〕

醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、〔延喜式〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第8,9巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815494

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 平群石床神社〔大 月次 新嘗〕について 所在は゛越木塚村生駒郡平群村大字越木塚 石床神社゛〈現 石床神社旧社地(平群町越木塚)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群石床(ヘクリイハトコノ)神社〔大月次新嘗〕

祭神 石床別(イワトコワケノ)

神位 清和天皇 貞觀元年正月二十七日甲申 奉授大和國從五位下 平群石床神從五位上

祭日 九月九日
社格 村社

所在 越木塚村生駒郡平群村大字越木塚 石床神社

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

石床神社 旧社地(平群町越木塚) (hai)」(90度のお辞儀)

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

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