稲宮神社(いなみやじんじゃ)は 室町時代に稲宮神社の神主が神社の傍で微温湯に正月初頃 試に稻種を浸し発育をまち 社前に設けた神饌田に移植すると 水温適し 霜雪虫害の患もなく発育し結実良好 土用前〈6月〉には収穫ができたといいます 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 稲宮命神社(いなみやのみことの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
稲宮神社(Inamiya shrine)
【通称名(Common name)】
・神明さん(しんめいさん)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県伊豆市土肥2833
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊受比賣命(とようけひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
稻宮ノ命ノ神社
土肥村
是 古社にて 末社も多し 祠の邊の稲季の夏初めに熟す故に稲宮と称するか 今は 神明と云
鑰取 水口氏『豆州志稿』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・天王社〈本社の向かって右隣〉
・石祠〈天王社の向かって右隣〉
・石碑゛御献米田由〇〇゛
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・吾妻神社〈石段の上〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 22座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 稻宮命神社
[ふ り が な ](いなみやのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Inamiya no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊豆國 那賀郡 稲宮命神社(いなみやのみことの かみのやしろ)の論社
・稲宮神社(伊豆市土肥)
・神明神社(伊豆市八木沢)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
土肥金山のすぐ南側に鎮座
西向きの境内
稲宮神社(伊豆市土肥)に参着
拝殿にすすみます
社殿前の鳥居 扁額には゛稲宮゛と記されます
正面の白い社殿が゛稲宮゛ その隣が゛゛天王社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
この社殿は 覆屋になっていて 中には本殿が祀られています
振り返り社殿に一礼をします
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『伊豆国神階帳(izunokuni shinkaicho)』康永2年(1343年)に記される内容
式内社 稻宮命神社が゛いなみや姫の明神゛として記されていると云われます
【抜粋意訳】
那賀郡 弐拾四所
・・・
従四位上 いなみや姫の明神
【原文参照】
『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承
現 伊豆市八木沢について この地は元々は゛米澤゛と云う地名で゛米の字を分ちて 八木澤と改む゛とも伝わり
この米澤から 八木澤の地を稻宮ノ命ノ神社の鎮座地とする説〈現 神明神社(伊豆市八木沢)〉があります
【抜粋意訳】
豆州志稿 巻之二 村里上
八木(ヤキ)澤
當村の三島神祠の上梁の文に曰 天和三年 豆州井田荘 宇賀加郷 八木澤村と
或いは云 この村は 昔は米澤云 小地名の並びの地に米崎あり 此れ其の證
この後ち村 廣(ひろ)まりて 宇賀加と名づく 又 米の字を分ちて 八木澤と改む 東浦の白田郷来濱と記せししと同じ 漁蝋なし
【原文参照】
式内社の稲宮命神社について 土肥村にあり神明社と呼ばれている〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉で 神社の周辺の稲は夏初めに熟す と記しています
※〈周囲の水田は 温泉水を用いて 初夏(六月頃)には熟したので 早生稲として献上されていたと伝〉
【抜粋意訳】
豆州志稿 巻之八 神祠上 神名記所載九十五座
稻宮ノ命ノ神社
土肥村
是 古社にて 末社も多し 祠の邊の稲季の夏初めに熟す故に稲宮と称するか 今は 神明と云
鑰取 水口氏
【原文参照】
式内社の稲宮命神社について 前にも述べているが 土肥村の土肥明神〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉なのだが どのような神が祀られているかは不明 と記しています
八木澤村の濱宮明洞にある神明社〈現 神明神社(伊豆市八木沢)〉について 式内社であるとも云う と記しています
【抜粋意訳】
豆州志稿 巻之八 神祠上 州中總社
稻宮ノ命ノ神社
土肥村 前に見ゆ〇土肥明神
元は 徳深明神と称す古祠なれど 祠の典 何れの命なるや未詳
富永氏 鎌倉より八幡を勧請し配し祠る云
伊豆峯記に馬場村 三島大明神 八幡宮とす 舊記曰 當社 八幡宮は古者、下若宮登守須云 村の總鎮守たり 禰宜 植松氏・・・・・八木澤村 〇神明
小池ハタイの濱宮明洞(ほら)に在り 或いは云 式社之 以上伊豆納符
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 稻宮命神社について 所在は 土肥村〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉
【抜粋意訳】
稻宮(イナミヤノ)命神社
日本書紀 稲田宮主簧狭之八箇耳
古事記 大山津見神ノ子 名 足名椎
豆州志稿 君澤郡土肥村 古社にて 末社も多し 祠の邊の稲季の夏初めに熟す故に稲宮と称するか 今は 神明と云ふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 稻宮命神社について 土肥村 神明〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉と記しています
【抜粋意訳】
稻宮命神社
稻宮は伊奈美夜と訓べし
○祭神明か也
○君澤郡土肥村に在す、今神明と称す、志
例祭 月 日、伊豆志に、古社ニシテ末社多シ、社邊ノ稻六月ノ初ニ熟ス、故ニ稻宮ト云フカ、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 稻宮命神社について 土肥村〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉と記しています
【抜粋意訳】
稻宮命(イナミヤノミコトノ)神社
今 君澤郡 土肥村にあり、社邊の稲穂早く熟る故に稲宮と名く、凡其 祭七月廿日 十月二十八日を用ふ、伊豆志、神名帳打聞、足柄縣式社取調帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 稻宮命神社について 所在は 土肥村〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉と記しています
【抜粋意訳】
稻宮(イナミヤノ)命ノ神社
祭神 稻宮命
今按〈今考えるに〉神階帳に従四位上 稲宮姫の明神とあるによらば 稲宮姫命とも称へ奉れるなるべし
伊豆志に祠邊の稲季夏の初に熟す故に稲宮と称するが 今は神明と云
今 衰頽を極めたれど 祠傍に植る所の早稲所謂土用前に熟し 従古 朝廷へ貢献来たるは稲宮の称にも適ひて所由有事を知べしと云る 此に由あり 姑附て考に備ふ祭日
社格(無社格)所在 土肥村 今属 君澤郡(田方郡土肥村大字土肥)
【原文参照】
『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承
式内社 稻宮命神社について 土肥村鎮座の旧称 神明社〈現 稲宮神社(伊豆市土肥)〉と記しています
【抜粋意訳】
稻宮(いねみやの)命神社
君澤郡 土肥村鎮座 いなみやひめの明神 神階帳
舊称 神明社 是なり 豆志攷証註進特選
当社 頗陵替え属をす余嘗て其の故を聞持る事ありや 雖(いえども)思ふ 昔あきば此に云たず 異日時を待て発する所あらむとに
又 稲宮の称あるや祠邊の稲 季夏の初に熟す故に称すと豆志に云へるが如くならむ
【原文参照】
徳川幕府への温泉献上米の伝承
上り御新米の由緒
水口若狭守秀次なるもの、郷土開発のため敬神に勧農に大に尽捧する処あり、自家奉祀の神明社の南側に湧出する微温湯に、正月初頃試に稻種を浸し、その発育をまちて社前に設けられたる神饌田に移植するに、水温適し、霜雪虫害の患もなく発育し、結実良好、土用前に黄熟す、故に此の稻種を「雪の下」と称し、この新穀を以て、歳々の祭祀を嚴修し、神徳の発揚につとめた。
慶長の初、時の代官の認むる処となり「御新米」と称し、徳川家に献納の榮に浴すること」なつたと傳ふ。この御新米献納は、一の嚴格なる格式を備へ、一郷の重要なる年中行事となつたが、明治七年に至りて上納の儀は廃止せられた。
『式内社調査報告』より抜粋
稲宮神社(伊豆市土肥)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)