井椋塚(いくらづか)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失する迄の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
井椋塚(Ikura Zuka)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉
【通称名(Common name)】
・芦田1号墳(井椋塚古墳)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県秩父市下吉田7154
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天鈿女命(あめのうずめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失した時の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります
【由 緒 (History)】
椋神社 御由緒
秩父市下吉田七三七七
◇延喜式内(えんぎしきない)の古社、例祭に国指定重要無形文化財の龍勢(りゅうせい)花火がある。
当社の創祀については、「日本武尊(やまとたけるのみこと)当地 赤紫(あかしば)にて道を迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根元の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。
これにより大勝を得たので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出た所を光明場(あかしば)という」と伝えるのがト部兼敏『椋五所大明神由来』享保十二年(一七二五)の記載である。
永禄十二年(一五六九)の武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ちで社殿消失、天正三年(一五七五)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建。
社宝には、氏邦公寄進と伝える筋兜(すじかぶと)の優品(埼玉県文化財)が現存する。現在の本殿は、寛永四年(一六二七)に修理を加えたもので、脚元の細い蟇股などに古様を遺している。
明治十五年(一八八二)に県社となり、大正二年(一九一三)には近隣の二十三社を、同五年(一九一六)に同字の八幡社を合祀した。八幡社は『新編武蔵風土記原稿』に「若宮八幡社」とある社で、享保十二年(一七二七)の同縁起によると、秩父平氏の祖、将経(まさつね)の子 武基(たけもと)が当地に土着、その子 秩父十郎武綱(たけつな)が館の鎮守に勧請したもの。現在の同社本殿は、本社右手に鎮座、旧拝殿は本社拝殿として移築されている。
永禄の兵火まで本社が鎮座した旧社地には、現在「井椋塚(いくらづか)」と呼ばれる古塚があり、天鈿女命を祀り、塚上の桜木を鈿女桜(うずめざくら)と呼ぶ。
◇御祭神
・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
・天鈿女命(あめのうずめのみこと)
◇御祭日
・例祭(十月第二日曜日)
・龍勢花火(平成二十九年度国指定)境内立札より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈現在の鎮座地〉
・吉田 椋神社(秩父市下吉田)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二十 貞觀十三年(八七一)十一月十日〈壬午〉の条
○十日壬午
授に 武藏國
正五位上勳七等 秩父神(チチフノカミ)に 從四位下。
從五位下 椋神(ムクノカミ)に 從五位上。飛騨國 正五位下 水無神 正五位上。
出雲國 正五位上 湯神。佐往神 並從四位下。
從五位上 能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並 正五位下。
從五位下 斐伊神。智伊神。温沼神。
越中國 從五位下 楯桙神 並從五位上。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)秩父郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 椋神社
[ふ り が な ](むくの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Muku no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の論社について
明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました
・井椋塚(秩父市下吉田)〈椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地〉
・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)
・吉田 椋神社(秩父市下吉田)
・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・野巻 椋神社(皆野町野巻)
・皆野 椋神社(皆野町皆野)
・井椋神社(深谷市畠山)〈参考 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社の分祀〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
吉田 椋神社の駐車場から西に約170m 工場の内側にひっそりとあります
狭い通路の先に四方を工場に囲まれた土地に芦田1号墳(井椋塚古墳)
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉に参着
椋神社の由緒書きには
゛永禄の兵火まで本社が鎮座した旧社地には、現在「井椋塚(いくらづか)」と呼ばれる古塚があり、天鈿女命を祀り、塚上の桜木を鈿女桜(うずめざくら)と呼ぶ。゛
とありますので 塚の上に植えられている桜が 鈿女桜(うずめざくら)
塚の上には 石祠があり 天鈿女命を祀っていると云う 石祠は東南を向いていたと思います
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 周囲に柵があり 立入はできません
脇からお祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 下吉田郷〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋(ムク)神社
三代実録 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上
〇在 下吉田郷
式社考 芦田村 井椋大明神と云う 祭神 天ノコヤネノ命
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
蒔田に鎮座する二つの椋神社について 村の鎮守と記しています
【意訳】
巻二百五十七 秩父郡巻十五 下吉田村
椋神社
延喜式内の社なり
祭神 猿田彦大神 武甕槌命 経津主命 天兒屋根命 比賣神
神社縁起
武蔵国 秩父郡 矢場田荘 下吉田郷 井椋五所大明神(一名 椋神社)
所祭神五座 第一殿 猿田彦大神 第二殿 武甕槌命 第三殿 経津主命 第四殿 天兒屋根命 第五殿 姫大神 也
抑当社 鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年 日本武尊 東夷征の時・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
椋は久良と訓べし
〇祭神 猿田彦大神、(地名記〇式社考には、祭神天児屋命と云り、)
○矢田庄下吉田村に在す、(同上)今井椋 五社明神と称す、
例祭月日、神位
三代實録、貞観十三年十一月十日壬午、授武藏國從五位下椋神從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
近隣に椋神社は4か所あったが
明治政府に於いて 式内社 椋神社の所在について 大社であるが故に 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉が定められた しかし 蒔田村の氏子等訴訟などで 其の他の3社・蒔田村上組上〈現 上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉・吉田村立會〈現 野巻 椋神社(皆野町野巻)〉・吉田村中組〈現 中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉も式内社の論社とされた と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
神位
清和天皇 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上所在
今按〈今考えるに〉
本社所在 蒔田村上組上 吉田村立會にて祭る椋神社と云あり
又 吉田村中組にも椋神社あり 下吉田村にも椋神社あり
此の三村の内に就いて 下吉田村は大社にて氏子戸数も多く 人民崇敬の神社なるを以て 郷社に定められし處 蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て 姑く三社を以て一社と見做し 式社と定め置るるの指令あり 尚よく確証を得て 後に定むべきなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
明治期に式内論社の訴訟となり 複数の論社が並立しているが 吉田 椋神社(秩父市下吉田)を 多くの書籍は 式内社 椋神社であるとしている と記しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵国 秩父郡下吉田村大字下吉田
縣社 椋(ムクノ)神社
祭神
猿田彦大神(サルタヒコノオホカミ)
武甕槌(タケミカヅチノ)命
經津主(フツヌシノ)命
比賣神(ヒメノカミ)
天兒屋根(アメノコヤネノ)命椋神社は延喜の制、小社に列す。是より清和天皇 貞観十三年十一月十日、従五位下より従五位上を授かり給ひしよし三代實録に見え、降て正平元年六月十日、使を遣わして中祓を社司に科す。椋神の祟あるを以て也と宮主秘事に傳に見えたる著名の神社なるが、椋神社と称するもの近郷数社あり、明治の始め當社を以て式内社とせしに、訴訟起り、爲めに姑く凡てを以て式社と定むるの指令ありしと、特撰神名牒に云く、
「所在 今按本所所在、蒔田村上組(中略)にて祭る椋神社と云あり、又上吉田村中組にも椋神社あり、
下吉田村にも椋神社あり、此三村の内に就て、下吉田村は大社にて、氏子戸数も多く、人民崇敬の神社なるを以て、郷社に定められし處、蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て、姑く三社を以て一社と見倣し、式社と定め置るるの指令あり、猶よく確証を得て後に定むべきなり、」
と、伴氏神名帳考証、神社覈録 其他 新編武蔵風土記稿 等皆當社を以て式の椋神社とす。當社 維新以前 井椋五社明神と称す。
縁起に云く、
「抑當社鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年、日本武尊 東夷征伐之時、巡 狩是國 山路杖 於矛、其矛忽放光、因號其所 曰 明光場(在當社二十町許)、又光飛而止、日本武尊怪到 其所時、老翁現 井邊椋本 曰、吾是猿田彦命也、吾欲 爲 嚮(向)導以 故臨 於此、因名 井椋社、即以 其矛 爲神體 祠 此神。(中略)六十一代朱雀院御宇、俵藤太秀郷、征伐平将門時、勧請春日四所與 地主猿田彦大神、合祭祈 誅伐、遂誅其一族、因建 五宇神殿、號井椋五所大明神」
と、降て元亀年中 兵火に罹り、社殿、神寶、古器、悉く鳥有に属せしが、天正三年 鉢形城主 秩父新太郎氏邦再建、元禄十二年本殿、修営、寛永五年拝殿修営共に棟札あり。
明治五年郷社に列せられしが、後ち縣社に昇格す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、境内2029坪境内老樹蒼鬱とし、古来大木を以て名あり。四面群山圍繞して展望に富み、境地宇受賣櫻ありて、春時爛漫たり。又境外所在地畑三反二十六歩は附属地として境内に使用せり。境内神社
神明大神社、疱瘡神社、稲荷大神社、産泰大神社(祭神 木花咲耶姫命)、天満天神社、白鳥大神社、諏訪大神社、琴平大神社
【原文参照】
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)