伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめのじんじゃ)は 第24代 仁賢天皇(即位488~退位498年)の御代に創祀と伝わる 延喜式内社 武蔵國 比企郡 伊古乃速御玉比賣神社(いこのはやみたまひめの かみのやしろ)とされます 鎮座当初は 二ノ宮山上にあったが 文明元年(1469)当地に遷座したと伝わります 昔は 阿州大明神とよばれた大社で比企郡の総社でもありました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊古乃速御玉比売神社(Ikonohayamitamahime no shrine)
【通称名(Common name)】
伊古神社(いこじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県比企郡滑川町伊古1242
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈現在の御祭神〉
《主》気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
大鞆和気命(おほともわけのみこと)〈応神天皇〉
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)〈武内宿禰〉
〈元来の御祭神〉
伊古乃速御玉比賣神(いこのはやみたまひめのかみ)
〈一説に当社の祭神を〉
淡洲明神(あわしまみょうじん)or(アワスミョウジン)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・箭弓安産の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
第24代 仁賢天皇(即位488~退位498年)の御代に創祀
文明元年(1469)当地に遷座
伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社
滑川町大字伊古
昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(1469)年当地に遷座(せんざ)したと伝える。
第六十代 醍醐(だいご)天皇は藤原忠平に命じて延喜(えんぎ)式を編さん 武蔵国で四四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
境内全域に自生する樹木は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。平成三年 月 敬白 滑川町観光協会 滑川町教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
滑川ふるさと散歩道……
④伊古の地名の由来
「寝物語」が地名であると聞いたら、たいていの人は驚かれるでしょう。実は、古い中仙道沿いにあった「むら」の名で、溝一つ東側が岐阜県、西側が滋賀県というこころ。かつて、奧州に落ちのびる義経を追ってきた静御前が、美濃・近江が隣り合うこの里で、義経変装の家臣と巡り合い、その境遇を語り明かした場所の名前である。この話のように、地名には、思いもよらぬ歴史が隠されていることがある。ただ、地名の由来については、それを裏付ける決定的な資料がないことがほとんどで、その正確な出自をたどれるものは数少なく、町内ではここに紹介する「伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社」(伊古神社)にちなむ地名などが挙げられる。
「伊古神社」は、今から千年程前に編まれた「延喜式」という法典の中に記載された当時の比企郡内で唯一の式内社であったといわれ、大変由緒ある神社である。この神社は、別名「淡洲明神」ともいい、江戸時代には「郡中の総社」として崇められていた。当町域内のいわゆる「鎮守さま」に淡洲社が多いのもこれを勧請したためである。明治六年には、郡の中で最初の「郷社」に昇格している。
現在、大字の名として残る「伊古」という地名は、言うまでもなくこの由緒ある神社の名にちなんだものであるが、この他にもこの神社にちなんだ地名がいくつか残っている。たとえば、合併前の「宮前村」などは、この神社の歴史的価値を尊重し、お宮の前にある村という意味を込めて名付けられたものであるし、伊古の小字の名として残る「郷社前」「郷社後」なども、すでに述べたように、かつてこの神社が「郷社」であったことに由来している。
近年、都市化の急速な進展に伴い、各地で古い地名が消え、新しい地名が誕生している。市町村ひとつをとってみても、統廃合がたびたび行われて移り変わり、このままでは名前の誕生したいきさつさえ後世に語り継ぐことが難しくなるかもしれない。せめて、自分の住む町の名前の由来ぐらいはきちんと知っておきたい。単なる地名には歴史的意味のあることを理解し、大切にしていきたいものである。
(広報二二四号 昭和六二年四月)滑川ふるさと散歩道……
⑤伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)
この神社は伊古にあり、祭神は息長足姫命(おきながたらしひめみこと)(神功皇后)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)、武内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)である。 今から千年以上前にあった「延喜式(えんぎしき)」という法典の中に全国各地の神社名が載っている。当時の比企郡内(今の東松山市、滑川町の大分部分・嵐山町の一部が該当するという説が有力)にはひとつだけであった。伊古乃速御玉比売がそれである。
社伝によると当初の神社は二ノ宮山に鎮座していたが、文明元年(一四六九年)に現在の地に移ったという。江戸幕府が文政七年(一八二四年)ころに編んだ「新編武蔵風土記稿」には移った時を天正四年(一五七六年)としており、約百年のずれがある。しかし、これらの伝承から遷座の事実はほぼ明らかである。
神社のすぐ北側に天台宗の円光寺と薬師堂がある。明治初期の廃仏毀釈(仏教を排斥すること)前までは神社は円光寺持ちであった。本地垂迹説(神と仏が同体だとする説)により、本地仏としての薬師如来が神として社地に仮の姿を現したとする信仰に基づいている。本殿の建築様式は住吉造で、屋根は茅葺になっている。
社の森は埼玉県指定の天然記念物であり、アラカシ・モミ・アカシデなどの樹木が茂っている。拝殿の前には安産の信仰を集めた「はらみ松」があったが、松くい虫にやられて立ち枯れてしまった。境内には、社務所・八幡社・雨乞いの碑・芭蕉の句碑・花火の竹筒・井戸など見る物に事欠かない。
また、幟のぼりの社号は幕末・明治期の政治家として知られる勝海舟の書である。明治十四年(一八八一年)九月に当時の伊古村の人々の熱心な要請によって海舟が重い腰をあげ揮毫(書画をかくこと)したものである。
(広報一九九号 昭和六〇年二月)「滑川ふるさと散歩道」より抜粋
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・八幡神社〈境内の西隣 祭り支柱置き場の上〉
正和年中当所字郷社前に石清水八幡宮を分祭すと云う
明治40年4月24日境内社として遷座す
・天満天神宮
・金刀比羅神社
・石祠 向いている方向は 枯れた「はらみ松」の跡か?
・鳥居 横の崖から湧水or溜水あり
手水として利用していたのでしょうか 水が溜まっていて 崖伝いに染み出しています
・勝海舟幟〈昭和52年3月31日 町指定有形文化財〉
幕末・明治期の政治家として知られる勝海舟が 神社号を大書した長さ11メートルののぼり旗1対があるとのこと
滑川町指定有形文化財 勝海舟幟(かつかいしゅうのぼり)
指定 昭和52年3月31日
所在 滑川町伊古1241
時代 明治時代勝海舟は、明治十四年(1881)に伊古村の村人が伊古神社の祭礼の際に掲げる幟を書いてもらうため、布を携えて。勝海舟の元を肪ね、これを承諾した海外が書いたとされる幟です。
地元の伝承として、海舟は幟を貪くにあたり、村人に幟を書くための墨をするようにと命じ、村人は三日三晩墨をすり続けて、伊古神仕の神社号を書いてもらい、持ち帰ったと言われています。
幟は、長さ約一一m、幅約一.二mで一対あり、幟には、『明治十四年九月一五日 伊古乃速御玉比賣神 海舟勝安房書 為氏子中」と神社の正式な名称などが書かれており、落款が2つ押されています。現在幟は、一〇月一五日の神社の祭礼の日などに写しが掲げられています。
令和五年二月 滑川町教育委員会
・社号標 記念石碑 案内板
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈文明元年(1469)当地に遷座する前の旧鎮座地 現 奥宮〉
・伊古乃速御玉比売神社 奥宮(滑川町伊古)二ノ宮山 山頂
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)比企郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 伊古乃速御玉比賣神社
[ふ り が な ](いこのはやみたまひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ikonohayamitamahime no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)は 別名「淡洲明神」と云われる
伊古乃速御玉比賣神社は 別名「淡洲明神」ともいい 昔は 阿州大明神とよばれた大社で比企郡の総社でもあった
「淡洲明神(アワスミョウジン)」の呼び方は 洲の文字を゛島(しま)゛とも読み(あわしまみょうじん)と呼ばれていました〈付会かもしれませんが〉
このため
和歌山県の加太之浦に鎮座する淡嶋神社(和歌山市加太)の祭神 淡島明神を分霊を受けたとも云われています
詳しくは記事を
式内社 紀伊国 名草郡 加太神社(かたの かみのやしろ)
・淡嶋神社(和歌山市加太)
伊古乃速御玉比賣神社の別名「淡洲明神」を勧請したとされる゛淡洲社゛が 滑川町域内の「鎮守さま」として祀られています
・淡洲神社(滑川町土塩)〈創建 天明3年(1783年)7月3日〉
《主》速御玉比売命
・ 淡洲神社(滑川町福田 上福田)〈創建 応永2年(1395年)〉
《主》息長足日売命
・淡洲神社(滑川町山田 上山田) 〈創建 応永2年(1395年)〉
《主》誉田和気命・息長足日売命・素盞鳴命
・大雷淡洲神社(滑川町山田 下山田)〈創建 応永2年(1395年)〉
《主》火雷大神、息長足日売命
・阿和須神社(滑川町水房)〈(創建)永仁年間(1293年~1298年)字御山の台 寛永元年(1624年)に現在地に遷座〉
※大和国添上郡の率川阿波神社(現在は率川神社の境内社)を勧請とする
《主》大鞆和気命、息長足日売命、武内宿称命
・淡洲神社(嵐山町太郎丸)〈創建 元禄8年(1695年)〉
※水房村の淡洲明神社(現在の阿和須神社)を分霊とする
《主》速御玉姫命((補足)
・淡洲神社(嵐山町勝田)〈創建)宝永年間(1704年~1711年)〉
《主》大鞆和気命、息長足日売命、武内宿称命
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武東上線 武蔵嵐山駅から県道173号を北上 約5.4km 車10分程度
神社には駐車場が無いので
県道69号を北上 おおむらさきゴルフ倶楽部の入口経由 伊古の里 観光駐車場に駐車して 奥宮へ参拝してから 徒歩でも可能
・伊古乃速御玉比売神社 奥宮(滑川町伊古)二ノ宮山 山頂
丘陵の合間 社頭には 細長く水田が広がっています
この丘陵の谷間の水田は 弥生時代の半ばには かなり本格的な米作りが行われいていたと推定されています〈大谷遺跡(現宮前小学校)や船川遺跡(現森林病院)の発掘〉古墳時代には 溜池を利用した米作りがあったと推定されています
伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)に参着
鳥居の横には 社号標と記念碑石碑 案内板が並んでいます
記念碑石碑は「皇太子殿下御降誕生記念碑」
社号標には「延喜式内 郷社 伊古乃速御玉比賣神社」と刻されています
伊古乃速御玉比売神社
両部鳥居には 瓦屋根が載せられています
一礼をして鳥居をくぐり 石段を上がります
石段を上がると 石鳥居が建ち 左手に手水舎があります
一礼をして 鳥居をくぐると 今は枯れてしまっていますが 御神木の「はらみ松」があり その先には玉垣の廻されたご神域があり 社殿が建っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿は覆屋の内にが鎮座します
中々に立派な本殿の覆屋は 瓦葺の屋根の上に 千木と鰹木の付いた小さい銅板屋根が乗っています
境内地の社叢は アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴がある 埼玉県指定「ふるさとの森」です
境内社にお詣りをして 参道を戻ります やはり縄文期から続いている稲田が心を和らげます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)について 天正四年に二ノ宮から遷座した 式内社とされる正確な証はないが 村の名前が「伊古」また比企郡の総社であり 社伝にある通り式内社であるだろう と記しています
【意訳】
巻之百九十四(比企郡之九 伊子村) 伊古乃速御玉比賣神社
一ニ淡州明神ト云、今ハ専ヲ伊古乃御玉比賣神社ト唱ヘリ、
此社元ハ村ノ坤ノ方小名二ノ宮ニアリシヲ、天正四年東北ノ方今ノ地二移シ祀レリ。
祭神詳ナラズ。左右二稲荷、愛宕ヲ相殿トス。
当社ハ郡中ノ総社ニシテ、延喜式神名帳、二比企郡伊古乃速御玉比売神社トアルハ、即チ此社ノコトナリ。
往古ハ殊二大社ニテ、一ノ鳥居ハ、近村石橋村ノ小名内青鳥ト云所二立リシト云、按ルニ此内青鳥ト云所ハ小田原役帳二青鳥居トアリ。サレバ古へ鳥居ノアリシヨリ地名ニモ負ヒシナド云ハ、サモアルベケレド、當社ノ鳥居ナリシコトハ疑フべシ。コトニ其間二里余ヲ隔テタリ。
又此社式内ノ神社ト云コト、正キ証ハ得サレド、村名ヲモ伊古トイヒ、且此郡中総社トモ崇ルコトナレバ、社傳二云ル如ク、式社ナルモシルべカラズ。トニカク、旧記等モナケレバ、詳ナラズ。
例祭九月九日ナリ、
別当円光寺 天台宗、東叡山ノ末、岩曜山明星院ト号ス。
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊古乃速御玉比賣神社について 伊古村に在す〈現 伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)〉とし 阿波洲大明神と称すことから 祭神の速御玉比賣は 安房國 天比理乃咩神の異名であろうと記しています
【抜粋意訳】
伊古乃速御玉比賣神社
伊古乃は假字也、一本渭後に作る、(和名鈔に沼乃之利と読り)
速御玉は波夜美多麻と訓べし、比賣は假字也、
○祭神明か也
○伊古村に在す、(地名記、式社考、参考)、今 阿波洲大明神と称す、(式社考)
例祭 月 日、蓮胤云、今阿波洲と称すによりて考れば、速御玉比賣は、安房國天比理乃咩神の異名なるべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊古乃速御玉比賣神社について 所在は伊子村〈現 伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)〉 祭神は三島大明神の后神に坐 伊古奈比咩命を祀る と記しています
【抜粋意訳】
伊古乃速御玉比賣(イコノハヤミタマヒメノ)神社
今 伊子村にあり、阿波洲大明神といふ、神名帳考土代、神名帳 打聞 盖三島大明神の后神に坐 伊古奈比咩命を祀る 延喜式大要
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊古乃速御玉比賣神社について 所在は伊古村〈現 伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)〉 祭神は伊古乃速御玉比賣神 と記しています
【抜粋意訳】
伊古乃速御玉比賣神社
祭神 伊古乃速御玉比賣神
祭日 九月十五日
社格 郷社所在 伊古村(比企郡宮前村大字伊古)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)について 式内社 伊古乃速御玉比賣神社であるとし 一時 淡洲明神と称されていたことから 祭神について考証しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵國 比企郡宮前村 大字伊古
郷社 伊古乃速御玉姫(イコノハヤミタマヒメノ)神社
祭神 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
大鞆和気命(おほともわけのみこと)
武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)本社は一時 淡洲明神と称せしが、幕末に至り復称せり、
創立年代詳ならずと雖も、当社明細帳に依るに
「人皇 廿四代 仁賢天皇ノ御宇 蘇我石川宿禰ノ末裔 此の里ヲ開キ、君祖三韓平治ノ廣徳ヲ仰キ、宇二ノ宮山ノ上ニ、弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ、三柱ノ神霊ヲ祭祀、」元々と、又云 当社 延喜式内、郡中の総社にして往古甚だ大社たりと、往古は二の宮山にあらせられしが、文明元年 今の地に遷座云々と傳ふ、
当社祭神に関しては、神祇志料は、延喜式大要を引いて「蓋三島大神の后神に坐伊古奈比咩命を祀る」とし、新編武蔵風土記稿には「祭神詳ナラズ。左右二稲荷、愛宕ヲ相殿トス」と記し、明細帳 又 上掲の如しと雖も、伊古乃速御玉比賣なることは、神社覈録の所謂「祭神明か也」にて知るべく、特選神名牒亦之に賛せり、
明治の初 郷社に列せらる、社殿は本殿、上屋、境内は千四百坪あり。境内神社
稲荷神社 天神社 愛宕神社 琴平神社 八菅神社
【原文参照】