伊我理神社(いがりじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載のある古社〈豊受大神宮(外宮)末社〉です 中世に頽廃しますが 寬文三年 (1663)舊地に再興されました “鍬山伊賀利神事”に深く関わりがある伊我理比女命が祀られています 御同座するのは 同じく(外宮)末社の井中神社(いなかじんじゃ)が坐ます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊我理神社(Igari shrine)
〈御同座 井中神社(Inaka shrine)〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市豊川町279(伊勢神宮外宮域内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
伊我理神社
《主》伊我利比女命(いがりひめのみこと)
〈御同座 井中神社〉
《主》井中神(いなかのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・〈豊受大神宮(外宮)末社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『伊勢参宮名所図会』に記される内容
【抜粋意訳】
伊我利社(イカリノヤシロ)
大國玉比賣社の南に有
祭神 末社の部に記す。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮綜覧』〈1915〉に記される内容
【抜粋意訳】
〇井足泉(ヰタリノイヅミ)
宮域内闇谷(クラヤミダニ)の口にあり。古木天と覆ひて、常に日光を見ず。清水滾々として樹間より湧出せり。宮崎御常供田の灌漑水の源なり。井足泉の南に、山宮祭場(ヤマミヤマツリノバ)とて、每年十一月下旬、吉日を選みて、山宮祭を行ひし趾あり。
〇伊我利(イガリ)神社
伊我利比女命を鎭祭す。本宮の末社の一にして、宮域内、高神山の麓に鎭り坐す。此の神の神系明かならざれども、既に延曆儀式帳にもその御名見え、又後世の年中神事に、鍬山伊賀利神事とて、鍬山祭卽ち神田下種の祭に関係せることあれば、御刀代田に深き御関係ある神なるべし。殿舎・正殿(神明造、板葺、南面)玉垣御門(猿頭門)玉垣(連子板打)鳥居(神明造)あり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
伊我理神社〈御同座 井中神社〉は 度會乃大國玉比賣神社と同じ境内に祀られています
・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大国玉命(おおくにたまのみこと)・弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
伊我理神社〈御同座 井中神社〉は 豊受大神宮(外宮)の末社です
・豊受大神宮(外宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』について
延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです
両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました
伊我理神社〈御同座 井中神社〉〈豊受大神宮(外宮)末社〉は『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』に載る 古社です
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊我利比女命(いがりひめのみこと)について
『大日本女性人名辞書』に記される内容
【抜粋意訳】
伊我利比女命(いがりひめのみこと)
伊勢外宮末社 伊賀利神社の祭神。
神系不詳。『止由氣太神宮儀式帳』に伊我利神社と記し、『類聚神祇本源』所引の『長徳檢錄』に大國玉比賣社の南邊にありと記し、その位置が豊受大神宮の常供田に接近してゐる地であること、常供田の耕種始に関する鍬山神事を建久の『皇大神宮年中行事』に鍬山伊賀利神事と記してゐること等より、御刀代田に深い関係のある神であらうといふ。
現今の伊賀利神社は外宮の神城内にある。(延暦儀式帳、建久年中行事、神祇辞典)
【原文参照】
゛鍬山(くわやま)伊賀利(いがり)神事゛について
ちなみに 内宮では 二月一日 鍬山伊賀利神事御巫祓申 が執り行われる
『古代における田歌の源流についての基礎的研究』奈良教育大学 永池健二 より
④この神宮の耕田始めの儀礼については、 400年近く下った建久3年(1192)の『皇太神宮年中行事』2月1日の条にも「鍬山伊賀利神事」として見えているが、そこでは御田打の神事は、実際の御田ではなく神宮の殿舎及びその前庭で行われ、手鍬で地を打つしぐさをし、小石を種に見立てて種蒔をし、さらに藁を苗に見立てて田植えのしぐさをしている。9世紀初頭には、実際の稲作の作業の工程に従った春の耕田儀礼であったものが 12世紀末には一年の稲作の工程を模擬的に繰り返して秋の収穫の豊穰を祈願する予祝的な「遊び」の儀礼へと変化しているのである。
〔学会発表〕(計2件)
永池健二「耕田儀礼と田歌一伊勢神宮の調査からーJ歌謡研究会•比較民話研究会合同研究発表会 平成19年度12月9日 奈良教育大学
永池健二「再興された古代稲作儀礼一伊勢神宮・御神田下種祭をめぐって一」第10回 国際アジア民俗学会国際シンポジウム 平成20年10月10日 秋田県大仙市大曲交流センター
神田下種祭(しんでんげしゅさい)とも呼ばれています
伊勢神宮の専用水田で種まき-「神田下種祭」まず鍬作りから
(伊勢志摩経済新聞)https://iseshima.keizai.biz/headline/2004/
同祭には、最も汚れのない神に近い存在とされることから童男(どうなん)と呼ばれる少年が奉仕する。まず田を耕す道具「鍬(くわ)」を作るために、神田に隣接する「忌鍬山(ゆぐわやま)」へ入ることを神に許しを請う「山口祭」を行う。次に、木を切ることの許しを請う「木本祭」を行い、童男がイチイガシの木を切り鍬を完成させる。
鍬が完成すると、禰宜(ねぎ)以下の奉仕員は「マサキノカヅラ」と呼ぶ「テイカズラ」のつる草を輪にした飾りを烏帽子(えぼし)に付けて下山する。同祭はかつて、旧暦の2月の初の子(ね)の日に行われ、鍬を作るところから始める神事なので「鍬山(くわやま)伊賀利(いがり)神事」と呼ばれていた(「伊賀利」は田畑を荒らすイノシシを追い払う・イノシシ狩りの意とされる)。
完成したばかりの鍬を持ち、左右正面に3回耕す所作を計3回(正面西東に移動)行い、続いて禰宜から作長に「忌種(ゆだね)」と呼ぶ清浄な米の種が大切に手渡されると、作長はそれを白装束姿の作丁(さくてい)と呼ぶ奉仕人に振り分け、作丁が神田に種をまいた。その間、奉仕員は「天鍬(あめくわ)や 真佐岐(まさき)のカヅラ 笠にきて 御田(みた)うちまわる 春の宮人」と唱和する。
「伊我理(いがり)神社」
伊勢神宮の 125 社の一つ、外宮の末社「伊我理神社」。
伊我理神社は外宮域内に鎮座されています。この一帯は昔、神饌として奉納される稲が栽培されていた神田でした。「伊勢参宮名所図会」にもこの神社について記載がされています。
大國玉比賣社の南にあり。祭神伊加利比女命。〔儀式帳〕に式外名所の内にあり。
「伊勢参宮名所圖會 巻四」より“伊我利(伊加利)”というのは「五十苅(いかり)・稲許(いがり)」の稲の田地の意。または「猪狩」だともいわれており、神宮の神饌として奉じられる稲や五穀を食い荒らす猪を退治するためともいわれています。
この社には神宮の年中行事の“鍬山(くわやま)神事”、外宮の方では“鍬山伊賀利神事”に深く関わりがある伊我理比女命が祀られています。
鍬山神事、鍬山伊賀利神事とは神嘗祭、月次祭の由貴の大御饌の御料稲をつくる種下始めの神事、“神田下種祭”のことで、神宮神田(現在の楠部町)にもみ種を蒔き、稲穂の成育を祈る祭儀の一つです。明治初年以後中絶していましたが、昭和 8 年(1933)に神宮神田の改修とともに復興されました。
鍬山神事、鍬山伊賀利神事は名を変え、現在も受け継がれています。【参考資料】
改訂版 お伊勢さん 125 社めぐり(伊勢文化舎/編 伊勢文化舎)
神宮摂末社巡拝(猿田彦神社講本部/編 猿田彦神社講本部)
神道大辞典(臨川書店)
神宮祭祀の研究(中西正幸/著 国書刊行会)伊勢市立小俣図書館 図書館だより 2021年3月号より
内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について
お伊勢さん125社について
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢市駅から県道201号経由で南下 約750m 徒歩12分程度
旧豊宮崎文庫の敷地の西側に表門があり そのすぐ前が社頭になります
国指定史跡 旧 豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ) 大正十二年三月七日指定 については 現地の史跡旧豊宮崎文庫説明碑 碑文によれば
旧 豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)
豊宮崎文庫は慶安元年 (一六四八 )豊受大神宮 (外宮 )祠官修学の道場として設立主唱者出口延佳與村弘正岩出末清および同志七十名の醵金をもって外宮宮域東隣豊宮崎の地に創立された 文庫および講堂を設け每月日を定めて同志あい会し講師を招いて神典儒書等の講義を開きまた出資者は籍中と称し保管経営にあたった
寛文元年 (一六六一 )時の山田奉行八木但馬守は幕府に請うて米麦二十石の采地を購入して文庫に寄付し永代の修理料にあてさせることとしまた文庫式条を制定した その後文庫講堂大観社天神社霊社表門等を修築あるいは建設してその規模の充実を計った 爾来公卿諸候学者等より貴重な書籍が寄せられあるい は著名な学者の来って書を講ずる者多く室鳩巣貝原益軒伊藤東涯井澤長秀谷重遠大塩中齋藤森大雅齋藤拙堂などの大家もその中にあった その後一進一退はあるが籍中の協力によってよく維持し明治に至った。
明治元年 (ー八六八 )山田奉行の廃止度会府の設立に伴い文庫も廃され一時宮崎学校となった しかるに明治四年 (ー八七ー )廃校となり文庫は再び籍中へ引渡されたが明治十一年 (ー八七八 )講堂が焼失し籍中も非常に少なくなりついに協議のうえ西田貞助一人の所有に帰した 明治四十三年 (ー九一〇 )神苑会は書籍什器の散佚を慮りこれを神宮文庫および徴古館に納めたがその中の蔵書は二万七百余冊の多きにのぼり學術的価値も高い 大正十二年 (一九二三 )三月七日教育学術史上重要なものとして史跡にされたがその時の敷地約九八六坪遺構としては表門築地霊社文庫創設碑孝経碑等をはじめ補修を経ているが文庫大観社等があった また敷地内にはいわゆる御屋桜があり花時の一名勝地となっていた
この地は古くからとかく湿潤の嫌いがあったが昭和三十五年 (ー九六〇 )十月新所有者覚田嘉蔵によって敷地は盛土されそれに伴って表門築地碑等の地上げ修復が行われ桜樹も再び植栽された なお現在唯一の建物である表門は創建当初のもので寛文二年 (一六六二 )および文政二年 (ー八一九 )の修理を経て慶應四年(一八六八 )屋根葺き替えを行なっている 大正十二年三月七日史跡指定 文化財保護委員会昭和三十八年一月 覚田嘉蔵建之川合東皋書荒木石材株式会社刻
度會乃大國玉比賣神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に参着
・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
《主》大国玉命(おおくにたまのみこと)・弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)
この境内地には さらに奥があり 参道左手斜め上には 伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉が祀られています
伊我理神社へ向かう 石段から度會乃大國玉比賣神社の社殿を振り返り一礼
伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉へ
左手に石垣が見えていて そこに至る石段があります
石段の先に鳥居が建ち 正殿が祀られています その奥にはイチヒガシの老木が聳えています
伊我理神社〈御同座 井中神社〉〈豊受大神宮(外宮)末社〉に参着
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
正殿の奥に聳えているのは゛イチヒガシの老木゛
「鍬山(くわやま)伊賀利(いがり)神事」は 鍬を作るところから始める神事で 童男が゛イチイガシの木゛を切り鍬を完成させます
やはり 神事と関係があるのでしょうか
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
伊我理神社・井中神社の両社ともに 祭神は不明と記しています
【抜粋意訳】
附録 式外神 大神宮別宮攝社
伊我理神社
祭神詳ならず
〇継橋郷宮山 大國玉姫社迫に在す、神名略記、
神名略記云、疑前云 伊加利比女命乎、
井中神社
祭神詳ならず、神名略記
【原文参照】
『大神宮叢書』に記される伝承
【抜粋意訳】
外宮 不載官帳攝社 伊賀理神社
此社は帳に伊我理神社とあり。(官帳にのらざる社なれば、大神宮式にも記されざるなり。)
神名祕書に伊我理姫命を祭るとあれど、神祇本源に祭神 詳かならずといへり。今按ふに、此神名詳かならざれば考がたし。(又地名ともきこえず。故熟考るに、古事記 崇神天皇の條に、伊賀比賣命と申す皇女まし ,伊賀風土記に、伊賀國者云々、爲に伊賀國本此號者、伊賀津姫之所領之郡也、とあり。よく以たる名なれど ,此人にはあらじ。)
試にいはヾ、伊加は稱辭(ことば)、(古事記傳に、伊加もも同じく大きなるないふ。蜂と云も大なる蜂をいふとあれど然らじ。伊加は嚴の意にて伊加豆知•伊加留などの伊加と同じかるべし。)
理は入の伊を省かりしか。伊理は伊呂と同意なるべし。(伊呂とは古事記傳にいと親しきよしの義といへり。)
されば巖入姫ときこゆれど、此神名物に見えざればせんかたなし。(いかなる功まします神にて此社に祭らるるか、おぼつかなし。)
又按ふに、もし他意なくば此神を祭るならんとおぼゆかし。(此行事は二月一日に年穀の爲に祭る事なるを、後世に二月一日と定まりしは、内宮帳には二月云々 ,先始子日、太神宮朝御饌タ御饌供奉御田種蒔下始、とある故なり。)
されば年穀によしある神なれど、内宮の行事に外宮の式外神社を祭るといふはいさゝか心ゆかず。(内宮神態に外宮諸別宮を奉拜の例はあれど、其職異なれば攝社の神を祭ること有べきにあらず。)
或説に、古の傳へは絶たりとも、此神年穀にいたき功德ませば、何處にも祭らるべきなり。何か疑べき、といへど、猶心ゆかぬ説なれば、よく考ふべし。(もし此神の大功德まさば、官帳にものせざる小社に祭らる、事いぶかしからずや)
社地は神祇本源に継橋郷宮山大國玉姫社南迫にありといへり。(迫とは谷を云)
寬文三年に舊地に造立せりといふ
井中神社
此社は帳に井中社と出たり。されど此社の祭神・社地、外宮の書にいへる事なければ、今も考ふべきたづきなし。
(此 井中は地名か、井によしある事か、詳かならず。)
【原文参照】