蛭子神社(ひるこじんじゃ)は 御創立は古く不詳であるが 太龍寺縁起によれば「天長二年空海奉遷宮」とあり また延喜式神名帳に所載の阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)は当社であるという伝承があります 鎮座地名は゛和食(わじき)゛古くは゛鷲敷社(わじきのやしろ)゛と呼ばれたと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
蛭子神社(Hiruko shrine)
【通称名(Common name)】
・蛭子さん(ひるこさん)
【鎮座地 (Location) 】
徳島県那賀郡那賀町和食字町154
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》蛭子命(ひるこのみこと)
天照大神(あまてらすおほかみ)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
《配》瓊瓊杵尊,大国主神,春日大神,三輪大神,厳島大神,鹿島大神,八幡大神,事代主神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
蛭子(ひるこ)神社
那賀郡那賀町和食字町一五六番地鎮座
御祭神
蛭子大神、天照大神、素盞嗚神を主な神とし十座の神を奉斎している氏子
昔は中山村から小仁宇村迄が氏子であったが変遷し現在は中央部約二〇〇戸御由緒
御創立は古く不詳であるが 太龍寺縁起によれば「天長二年空海奉遷宮」とあり 亦 延喜式神名帳に所載の和奈佐意富曽の神の社は当社であるという伝承があることから 推して千数百年の古代から鎮座していたと思はれる。
古くは「鷲敷社」中世には「和食大明神」「蛭子大明神」と称し 明治になって蛭子神社となり 同五年「郷社」に列せられた。
永正二年(1505)細川澄元(のち管領)が祭禮に流鏑馬(やぶさめ)を奉納したのが例となり 現在も神幸祭中に歩射(ぶしゃ)神事が行なわれている。
本殿は慶長五年に改築されたものであり 平成二年銅板葺とし拝殿、両脇宮、中門は造替、舞台は同九年に 手洗舎は同十九年に改築した。本殿の玉垣は明治四年、外の玉垣は昭和三年、それぞれ御大典記念として造られた。
社地の巨樹の数は県下一(県文化課)多く寄生のボウランは北限自生として昭和三十八年県より文化財に指定された。祭礼日
一月一日 元旦祭
えびす市一月九日、十日、十一日 十日戎市
二月十七日 祈年祭
旧二月三日 月読神社祭
三月 社日祭
六月三十日 六月の大祓式
七月九日十日 御斎、夏祭
八月十五日 中元祭、神踊り
九月 社日祭
十月九日宵 宵宮奉納芸能
例大祭 十月十日 本宮 神幸祭
例大祭 十一月二十三日 新嘗祭
同日 秋葉、愛宕神社祭 子供角力、秋葉山にて
同日 水神祭
十二月三十一日 大祓式手水舎に掲げられた案内板より
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される内容
【抜粋意訳】
〇德島縣 阿波國 那賀郡鷲敷村大字和食(ワジキ)
郷社 蛭子(ヒルコノ)神社
祭神
天照大神(アマテラスオホカミ)
素盞嗚(スサノヲノ)命
蛭子(ヒルコノ)命創祀年代詳ならず、和食中山二村の産土神なり、初め鷲敷神社と稱し、後 蛭子大明神と改め、明治三年更に現號 蛭子神社と改稱し、五年十月郷社に列す、
社殿は本殿、拜殿、幣殿、神饌殿、樓門を備へ、境内千三百七坪 (當村共有地)を有す。
境内神社
月讀神社 人丸神社 水神社 宇賀神社
【原文参照】
【由 緒 (History)】
由緒
御創建 時は古く不詳であるが 太龍寺縁起によれば「天長2年空海遷宮ス」とあり 又 延喜式神明帳(約千年前のもの)の和奈佐意富曽神社は当社であるという伝承があることから 推して古代から鎮座していたのだろう。
古くは鷲敷社、中世には和食大明神、蛭子大明神と号し 明治3年よりは蛭子神社と称し 明治5年郷社に列せられた。
永正2年(1505)細川澄元(管領職を勤めた)が 流鏑馬を奉納したのが例となり宝暦年間にはすこぶる盛んであったが 現在は例祭中に3頭(馬の幟)の歩射神事が行はれている。本殿は慶長6年(1601)に改築されたものであり幣殿、拝殿、両脇宮、中門は平成2年御大典記念に改築し 内の玉垣は明治4年 外の玉垣は昭和3年御大典記念のものである。大楠に自生するボ-ランは自生北限として県より天然記念物に指定されている。
例祭日は10月9、10日※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・蛭子神社 社殿・両脇に境内社 脇宮が各一祠
・神門・夫婦杉〈樹齢千年を超える巨木〉・手水舎
・境内
・鳥居
・社頭
・〈境内地前の末社〉地神社《主》地神五柱神
・社前の石碑
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和奈佐意富曽神社
[ふ り が な ](わなさおふその かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wanasaofuso no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『出雲国風土記』(和銅6年(713))の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の伝承について
『出雲國風土記』大原郡 条 船岡山(funaoka yama) に記される伝承
『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります
【抜粋意訳】
『 船岡山(funaoka yama)
郡家の東北16里の所にあります
阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』
【原文参照】
『出雲国風土記』大原郡〔不在神祇官社〕船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社
・船林神社
・貴船神社
船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)について
この神名「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから
『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富曾神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています
阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります
阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社
①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32
《主》神功皇后(じんぐうこうこう)
諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命
➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1
《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命
➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町
《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神
④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
この4社の中で
④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています
同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています
こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります
延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます
古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます
これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません
阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています
出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう
但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります
出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています
『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承
「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています
【抜粋意訳】
丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社
丹後国風土記に云う
丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る
此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る
此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た
ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う
この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った
「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」
遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う
また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です
【原文参照】
延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(宮津市由良)
・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承
『播磨国風土記』美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています
【抜粋意訳】
美囊郡(みなぎのこほり)
美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する
志深里(しじみのさと)土中中
志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する
【原文参照】
延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)
志深里(しじみのさと)に鎮座する 式内論社
・御坂神社(三木市志染町御坂)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR牟岐線 桑野駅からR195号を西へ約12.8km 車17分程度
那賀川に架かる田野橋のたもと 南岸に鎮守の杜があります
鎮守の杜の南側に回り込むと社頭になります
社前には゛恵比寿大神の祠゛と゛地神社〈社日碑〉゛などがあります
蛭子神社(那賀郡那賀町和食字町)に参着
一礼をしてから 鳥居をくぐり 手水舎で清めます
樹齢千年を超える巨木の夫婦杉など 巨木が参道に聳えています
その先に神門があり 神門をくぐりぬけると広い境内です
拝殿にすすみます
御神紋です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
すると 私の柏手を聞いて 御神職〈宮司さま〉が 宮司宅から出てこられて 近寄ってこられて云われるには゛心のこもった柏手でしたね お気持ちが神様に通じると想います゛と云われ どちらから来られたのか問われまして 埼玉から参拝の旨をお伝えすると それは遠いところから来られた
なんでも今しがた 祭典が終わったそうで 祭壇より撤饌を持ってこられて お気持ちですからお持ち帰りください と撤饌を幾つか頂きました
供え物の白紙の下にカロリーメイトの文字が見えますので 供え物はカロリーメイトです おそらく徳島県ですから大塚製薬の祈願があったのであろうと推測した次第です
有り難いことです 車に戻ってから頂きました
蛭子神社の社殿・両脇には 境内社の脇宮が各一祠祀られていますので お祈りをします
撤饌を手に持ちながら 社殿に一礼をしてから 参道を戻り 神門へと向かいます
神門をくぐり戻ると 巨木の夫婦杉に圧倒されながら その脇を抜けて鳥居へと向かいます
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十一 那賀郡 祠廟 蛭子祠
在に 和食村國初山田三哲為行營而居 又有に 八幡祠 和食 中山 二村共に祀る 又有に 古戸祠野里祀之
【原文参照】
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛舊在 鞆浦大宮山 慶長九年移之干大里松林中゛〈旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1604)に大里松林中の現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)に移した〉里人が云うには 日本武尊を祭ると云う と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十二 海部郡 祠廟 和奈佐意富曾祠
延喜式小祠たり、今八幡と稱す、古鏡及び金口 (鰐口)各一枚を納む、舊 鞘浦大宮山にあり、慶長九年 之を大里松林中に移す、興源公、屡々米若干を賜ひ、以て重葺之料となす、鞘浅川等二十一村共に祀る、
土人曰く、日本武尊を祀る也と、景行、成務、仲衣、神功、應神五帝及び息長田別皇子を以て配食す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在・祭神はわからない と記しています
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
和奈佐意富曾は 假字也、和名鈔、〔郷名部〕和射
〇祭神詳ならず
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛海部郡 奈佐湊の邊にあり、゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
※慶長九年 (一六〇四 )以前は現 海部町鞘浦那佐港に鎮座
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
今 海部郡 奈佐湊の邊にあり、〔阿波志、阿府志、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在について 三ヶ所を記しています
゛阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號す゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
゛明細帳には 八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれ゛〈現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)〉
゛式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむ゛〈現 那佐神社(海部郡海陽町宍喰浦那佐)〉
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
祭神
今按 和奈佐の和奈は 野にて烏獸を捕るの具 佐は 網の義にや
意富曾は 式社略考に罸は鳥獸を覆ふとかゝる辭ならんと云る さもあるべくや されど神名は意富曾ノ神にて 大麻神なるべし 本國に大麻比古神社 讃岐多度郡 大麻神社あり由ある神なるべし祭日
社格所在
今按 阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號すとみえ 明細帳には八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれど 式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむと云り この奈佐の號 和奈佐に由あれば 此奈佐の地にて熟く探索し 猶徴を担るを俟て考ふべきなり 古本播磨風土記に志深里土中に所以號志深者伊射封和氣命 御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁彌時 勅云 此具者於阿波國和那散我所食之貝哉 故號志深里と見ゆ 後案のために揭け添へつ
【原文参照】